アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

16 塔(神の家)

2024-05-30 06:35:30 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-9

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-9

◎クンダリーニの筒にして錬金術の炉

 

この塔はクンダリーニの筒にして錬金術の炉。またこの神の家は世界樹であって、「12吊るされた男」で神を知った後の人間はここでも脚を上に頭を下にする。というのは、世界樹は、根を上にして、枝葉、樹冠を下にする。よって人間から見れば、世界樹なる世界全体は逆転して存在する。同時に二人の人物が塔から落下するのは、悟った人間の視点からは、実は上昇を示す。

 

また16 塔から19太陽の図柄では、空気中に天の露が降る。これは大吉兆を示す。既に12吊るされた男で、見神、見仏、見性を終え、15悪魔にも出会って無事試練を通過したからには、善の側に不退転となった。生きる姿そのものが、善だけを行い悪を行わない姿(諸悪莫作衆善奉行)となったのだ。

家族の因縁などと言うが、こうなれば九族昇天すということで、生きているだけで家族の悪因縁はどんどん解消されてしまう。これが天の露が降るということ。

 

二人の人物が塔から(一旦上昇して後)落下しているのと、天から稲妻が下っているのは啐啄同機。覚醒の深まりに向けて、天も動き自分もそれに進む姿である。OSHOバグワンは第四ステップ(逍遥訣)終了後からそうなると説明している。

 

彼はこれを第五の秘密と呼ぶ。

『そして第五の秘密、秘法のなかの秘法とは、ものごとがひとりでに起こりはじめるということだ。あなたは何もする必要がない。むしろ、あなたが何かをすればそれは邪魔になる。今やあらゆるものがみずからの内なる力によって動いている。タオが、あるいは神があなたに乗り移っている。あなたは乗っ取られている! あなたは完全に消え失せ、今やあなたのなかには神しかいない。神が花として咲き、樹として繁るように、神はあなたのなかで黄金の華となって花を咲かせる。今や神のなすがままであり、あなたの出る幕はない。今やそれは神の意志であり、あなたの意志は仕事を終えてしまった。

 

最初の二つの段階では強い意志が求められ、次の二つの段階では進んで明け渡すことが求められる。そして四つの境地を体得し終えると、意志は必要でなくなるし、明け渡すことも必要でなくなる。

 

いいかね、明け渡しはまた意志を落とすためのものでもある。最初の二つの境地では意志の鍛練をしなければならない。次の二つの境地ではその意志を落とさなければならない。それが明け渡しだ。そして明け渡しによって意志が落とされたとき、究極の秘法のなかの秘法とは意志でもないし、明け渡しでもない。やはりここでも意志は男であり、明け渡しは女だ。第四を超えて行くことで、あなたは男と女の両方を超えて行く。意志が去り、明け渡しもまた去ってゆく・・・・もはやあなたはそこにはいない、どこを探しても見つからない。そこには何者でもないもの、〈無〉、涅槃(ニルヴァーナ)がある。』

(黄金の華の秘密/和尚/メルクマールP444-445から引用)

 

最後に、クンダリーニ上昇の最後は脱身。古事記で言えば、上筒男、中筒男、底筒男の3段のスシュムナー管をクンダリーニが上昇し、最後は頭頂サハスラーラ・チャクラから脱身していく。そのように炉の如き塔から微細身が上昇し発出される。

 

その様は、ダンテス・ダイジの『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』や柳華陽の慧命経に詳しいが、一枚の絵に納めるにはやや無理があるので、大体何枚かに分けて説明されるものである。またパタンジャリのヨーガ・スートラでは、

『3.43「大脱身」とは、粗雑な身体を離れ、想像を超えたところで機能する技法である。大脱身を遂行することで、輝きを覆っていたものは破壊される。』

(現代人のためのヨーガ・スートラ/グレゴール・メーレ/ガイア社Pxivから引用)

 

これについて、OSHOバグワンは、“The Alpha and the Omega“の講話で、ヨーガ・スートラ3.43について

『メンタル体の外側にある意識状態に触れる力であり、考えられないもの、これを大脱身(MAHAVIDEHA)と呼ぶ。この力を通じて光の覆いは、崩壊する』と訳す。

さらに彼は、

大脱身とは身体を超えた人、身体に閉じ込められていない人のことであり、粗雑なあるいは微細な身体ということでなく、身体が境界がなく無限であることを知った人のこと。この際に、彼は心が目撃者であることを知る。

この無限を「光の覆いは、崩壊する」と表現する。このようにメンタル体が落ちれば、no-mind(ノーマインド)、思考のない状態を実現できる、と説明している。

 

大脱身から先は、17 星以降のことになる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アオウエイの五声

2024-05-30 06:26:22 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-11

◎世界樹-9

◎言葉は「道」であり「神」である

 

そこで出口王仁三郎の短歌。

 

言霊の真言の道を知らずして 此神国の治まるべきやは

 

出口王仁三郎の玉鏡から

『「道」は充ち満つるの意である。この宇宙には言霊(ことたま)が充ち満ちてゐる。即ち一つの機械でも動かせば非常なる音響を発するごとくに、此の宇宙も大旋廻しているから、非常な大音響を何時も発している。即ちアオウエイの五大父音が鳴り鳴りて鳴り止まずにいるのである。

 音響もまた言葉の一種である。意識的に発するのが言葉であり、無意識に発するのが音響である。兎に角、言葉は「道」であり「神」である。』

(玉鏡/出口王仁三郎/天声社P170-171)

 

五大に響きがあって、五大父音だから、五大にはそれぞれ音響がある。しかし玉鏡にはこんな言霊の情けない実情も書かれている。

『宇宙にはアオウエイの五大父音が間断なくなり響いて居るが、人々が発する正しからざる言霊によっては之(これ)が濁るのであるから、常に天津祝詞を奏上して音律の調節を行ふのである。』

(玉鏡/出口王仁三郎/天声社P172-173)

 

正しからざる人が唱える天津祝詞は、いくら奏上しても正しからざる言霊のままだろう。翻って、正しい人の上げる天津祝詞の言霊だけが正しいのだろう。よってまず正しからざる人が正しくならねば始まらないのである・・と読んだがどうだろうか。

 

ある信者が出口王仁三郎に『「アオウエイの五大父音の発生の中府は綾部ですか」と質問したところ、「どこでもや。王仁がおるところが中府や。今はここ(亀岡大本農園)が中府や。」』(新月の光(下巻)/木庭次守編P263から引用)と答えた。

中府の位置がわかるような人でないと、正しい言霊はないのだと思う。

 

こうして世界樹は、五大それぞれに鳴り鳴りて鳴りやまざる言霊によって日夜変動している。この動的な姿も世界樹の持つ一つの表情である。

 

霊界物語第75巻第二章 言霊の光で、言霊の由来と展開が語られているが、言霊研究が栄えるのはこの時代ではないだろう。

 

『言霊の生ける活用白雲の

  空に迷へる学者あはれ

 もろもろの学びあれども言霊の

  真言の学び悟れるはなし

 

 世の中に学びは数多ありながら

  学王学の言霊知らずも

 言霊の学びは総ての基なり

  其他の学びは末なりにけり

 

 根本を悟らず末の学びのみ

  栄ゆる此世は禍なるかな

 世の中の一切万事は言霊の

  光によりて解決するなり

 

 言霊の真言の道を知らずして

  此神国の治まるべきやは』

(霊界物語第75巻第二章言霊の光から)

 

人間は言霊によって原子力を手にしたが、原子力を過つことなくコントロールできるのは、正しき言霊を発することのできる正しき人だけなのである。

 

更に禅だけではデリカシーが不足だから、クンダリニー・ヨーガで繊細微妙が必要というのは、この言霊のことも代表的な一例である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天地不仁

2024-05-30 03:32:55 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-6

◎ニルヴァーナ-6

◎ニルヴァーナとその実感-6

◎すぐに燃やしたり捨てたりされる藁の犬

 

老子は、神仏の心、天地の心である石ころの心を、天地不仁と表現している。

人間的視点から見れば、天地は命を与えてくれるし、衣食住も与えてくれるとても「仁」なものに一見思われる。しかし人の命を奪うのも天であり、人を虚無の絶望に陥れるのも天である。したがって、天地が個々の者に対して仁でないという視点は、人間的な好悪や苦楽の感情を越えたところにあって初めて言える。

いつの時代にも戦争は繰り返され、生別死別等の苦しみは止むことはないことを指して、人間的な視点に降りてきて、仁ではないと言って見せている。

 

老子は、祭礼ですぐに燃やしたり捨てたりされる藁の犬に対しては、天地も聖人も仁ではないとする。彼は、鞴(ふいご)のたとえを用いて、筒みたいなものの中にある空気を動かすことを以って、背中のイダー、ピンガラー、スシュムナーの脈管を暗に示している。未発の中というニルヴァーナに至るプロセスとしてクンダリーニが意識されているのだ。

多言ではしばしば窮するので、中を守るに如かずとは、頭でやらないでメディテーションして、大悟して、道(タオ)を生きましょうということ。

老子は、ここで「中」という言葉を、無為、道(タオ)、ニルヴァーナという意味で使っている。

 

『老子第5章 天地不仁

(大意)

 

天地は個々のものに対して仁ではない。その万物に対する態度は、あの祭礼のときに使う藁の犬に対する人々のあの態度と同じである。

聖人の人民(百姓)に対する態度は、あの祭礼のときに使う藁の犬に対する人々の態度と同じである。

 

天地の間は、例えばちょうどあのふいごや笛のようなもので、そのままでは中には何もないが、鞴(ふいご)は押せば空気が出るし、笛は吹けば音色が出る。そして音色が尽きることがないし、動けばますます出てくる。

 

大道は、理詰めで計算してこれをつかもうとしても、行き詰まってしまう。中すなわち己を虚しくして無為と一体になるに如くはなし。

 

(書下し)

天地は不仁、 万物を以って芻狗となす。

聖人は不仁、 百姓を以って芻狗となす。

天地の間は、 それタク籥の如きか。

虚にして屈せず、動きていよいよ出ず。

多言はしばしば窮す。中を守るに如かず。』

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする