◎ジェイド・タブレット-12-2
◎ニルヴァーナ-2
◎ニルヴァーナとその実感-2
◎リアリティーとは、対立の統合ではない
シャンカラ(8世紀頃)は、ブラフマンだけが唯一で不二の実在者であり、世界は無明マーヤが作り出した幻影であって、ブラフマンには何も影響しない付け足しだとした。さらに個我(アートマン)はブラフマンと同一だともしている。これが不二一元論のあらまし。
この不二一元論を意識して、ダンテス・ダイジは、ブラフマンも世界(無明)もどちらも現実であるという見方を示している。人間は、聖なるブラフマンと俗なるマーヤ(無明、世界)をどちらも真正の現実として生きているという見方である。
それは、次のような断片でわかる。
『ニルヴァーナとは、不二一元でさえもない。
神とは、ニルヴァーナの中なる
マーヤーの流出源にすぎない。 』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP92から引用)
神とはニルヴァーナのごく一部であるとしている。さらに、
『リアリティーとは、対立の統合ではない。
この考え方は、人間的知性の限界の表明にすぎない。
リアリティーとは、
永遠の対立であり
久遠の統合である。』
(上掲書P93から引用)
ここで、ブラフマン(ニルヴァーナ)と人間の対立が永遠であることがリアリティーだと直視する。統合しないのだ。人間の苦悩、不条理は、結局人間の側に解はないのだ。
それを踏まえて、
『クンダリニー・ヨーガは
不二一元観にその立場を持ち
霊肉二元を経過して絶対実在にいたる
只管打坐は霊身心一如から生死一如にいたる
色即是空は空即是色となり
色是色空是空として
永遠の未完結を完結する』
(上掲書P38から引用)
『霊肉二元を経過して絶対実在にいたる』とは、個我である肉体の二元が、大逆転・倒立して、絶対実在たるニルヴァーナに至るということ。
『霊身心一如から生死一如にいたる』とは、身心脱落してニルヴァーナに至るということ。
ユニークなのは、『色即是空は空即是色となり 色是色空是空として』のところ。” 色即是空空即是色”は、現象マーヤには実体がないというブラフマン一元の立場。一方“色是色空是空”とは、無明である現実世界もリアリティそのものであって、ブラフマン一元すなわちニルヴァーナ一元の聖性の極みと現実世界という俗性の極みが併存兼備しているということ。
その両方に直面するということは、自分自身に直面するということだが、その恐怖についてダンテス・ダイジは次のように描いている。
『今・ここにいることは、
君にできることではない。
君に、
今の中に完全にいることが起こったら、
余りの無気味さに圧倒されてはならない。
余りの未知・余りの神秘。
それは決して理解することはできない。
その時、すべてが開示される可能性を得る。』
(上掲書P176から引用)
さて、上掲書P38からの引用で、先にクンダリニー・ヨーガで絶対実在(ニルヴァーナ)に至るとあるが、クンダリニー・ヨーガでは、ニルヴァーナに到達した場合、その後も生きることが想定されていないので、“ニルヴァーナ”に至って終わる。引き続き只管打坐が書かれているのは、禅では、十牛図のとおり、ニルヴァーナ到達後も生存することが想定されているが、その場合は、“色是色空是空”が生きる姿になる(鳥飛んで鳥の如し(道元/坐禅箴))。
『クンダリニー・ヨーギが、究極の解脱を果たしても、なお肉体を捨てないで地上を生きる場合、クンダリニー・ヨーガは、禅となって完熟する。』
(上掲書P157から引用)
(クンダリニー・ヨーギOSHOバグワンが晩年禅宣言をやった消息である。)
ここで改めて、ダンテス・ダイジのなにもかもなしを挙げる。
『三神歌
われもなくうつし世もなくなにもかも
夢の中なる夢のたわむれ
われもなくうつし世もなくなにもかも
神の中なる神のあらわれ
われもなくうつし世もなくなにもなく
なにもかもなしなにもかもなし』
(上掲書P186から引用)
以上のようにダンテス・ダイジのニルヴァーナの見方を知的理解のために上げてみたが、そんなことはどこ吹く風である。
『ところで
ニルヴァーナの概念的理解によって、
あなたが、
ニルヴァーナであることに気づくはずはないのだから、
私は空間的進化の概念についてだけ、
狂言すればよい。』
(上掲書p189から引用)