退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「素敵に無様であること」について

2013-01-11 02:03:41 | Weblog
晴れ。今日も風が冷たい。

水上瀧太郎「貝殻追放2」を読み始める。

相変わらずの「正直さ」が清々しく
けれど少し痛々しい。

こういう「いい人」は長生きできない。
「世の中」とはそういうものだろう。

そしてそのことを十分に知っていた著者は
「貝殻追放」というギリシャの故事を表題としたはず。

深夜アニメ「PSYCO-PASS」を観る。

人の心や犯罪傾向をすべて数字で測れるようになった未来。
「シヴィラ」が統制する公安局の執行官たちは「犯罪者」を追う。

ただしその執行官たちが「ほぼ犯罪者」である数字を示した者たちであるあたりがミソ。
ここでも「女子」が「異質な者」として活躍する模様。

「妖怪人間ベム」でベム・ベラ・ベロが
「悪」を「退治」するために人間になることをあきらめる設定に似ていなくもなく。

「善」と「悪」があいまいになった現在では一見いかにもわかりやすそう。
ただし「妖怪人間」や「執行官」の「正義の在り処」は問われない。

これもある種の「カタルシス」のなせる業だと思えばいいのか。

「悪貨が良貨を駆逐する」のがむしろ「リアル」だからこそ
「傷を負った『正義』」による「決着」が浮かび上がる仕組みをどう見るのか。

現実はどこまでも「決着」しないまま流れて
あらゆるものを飲み込んでさらに流れる。

実は「3.11」以降のわが国はそうした状況が明らかになっただけのこと。
どこにもない「特効薬」が相変わらず求め続けられる一方で。

新たな「物語」が生まれて人々を惹き付けるのだろう。
敢えてそこに「希望」を見出さずには生きられないから。

さまざまな「始まり」と「終わり」が生まれては消える様子は
われわれの「素敵に無様な『生き様』」に似ている。
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