退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「『職人=プロであること』あるいは「プロになりようがない若者たち」について

2017-03-23 02:04:22 | Weblog
晴れ。風強し。

遠藤秀紀「人体 失敗の進化史」を読む。

われわれの身体がいかに「ありあわせのもの」から凸凹に造られたかというお話。
もっともそこには数千万年といった「単位」が普通にあったりする。

顎関節から耳の骨あるいは鰓から顎へ。
はたまた鰭にたまたま骨があったことから手足が出来たことなど。

その一方「短期間に『結果』を求める研究」がのさばる愚についての指摘も。
「資本主義」をいたずらにあちこちに当てはめてはいけないにもかかわらず。

本書が出たのは11年ほど前。
この「サムライ」は今どうしているのだろうと思ったら。

東大の総合研究博物館にいる模様。
2年前には「怒り新党」にも出演したようで道理でどこかで観た記憶が。

とりあえず「現場」で活躍しているようでまずは目出度い。
この種の「人材」を知ると「未来」に希望が持てる次第。

職種を問わず「プロとしての覚悟」を知るのもいいだろう。
「いつでもどこでも『力』を発揮できる」のがそれ。

このレベルを「常識」にしたいところ。
だって「当然のこと」だもの。

その一方。

身近な若者たちはすぐに「バグる」もしくは「フリーズする」。
まるでヘボなプログラムあるいはパソコンのように。

ついさっきまで出来ていたことが唐突に出来なくなったり
注意したばかりのミスを直後に繰り返したり。

後者は「脳内ひきこもり=相手の話す内容を聞いていない」せいだと理解するとして
前者はいったい何が原因なのか。

おそらく「十分にわかった上での行動」ではなく
たまたま「出来ていたのだ」というのは何となくわかるものの。

どうやら「同じ作業」を繰り返せない「体質」があるようで
彼ら彼女らには一様に「ルールもしくは順序」というものを重んじない特徴があることは確か。

当たり前の話だが「同じ作業」は「同じ手順」で繰り返されるからこそ
「半ば眠っていても」無意識の内にできるようになる。

その「単純」が「実行できない」らしい。
繰り返すがどうなっているのか。

まるで常に「一寸先が闇」であるかのよう。
もっとも突き詰めて考えればそれは「正しい」のだけれど。

「不安」に脅えながら一向に「安心」を求めず
「不確かさ」に対抗する「型=フォーム」も持たず。

むしろこれまで「積み上げたはず」のそれを一気に投げ出して「デタラメ」をしたり。
まるで「確かなもの」など何もないといった趣き。

「身の回りの世界」がそれだけ「不安」に満ちているのだろう。
だとすればそこで「安定志向」を非難する前に。

そうした「世界」を「現実」にしてしまった「大人たち」の責任を問う方が先かも。
「ホームベース」がないのに「冒険しろ」というのはただの「無茶ぶり」だと知ろう。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「圧倒的な従属あるいは『明... | トップ | 「移りゆく存在あるいは敏感... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事