退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「感受する力」について

2016-03-07 02:33:22 | Weblog
くもり。少しだけ雨も。

昨夜はまた老舗バー。

ガーリックバター付きのパンにチーズを乗せた「突出し」を食べつつ
冷えてトロリとしたジンを飲む。

これまた映画の話になったのだが別の若いお客さんが参戦。
マスターは気に入らなかったようであからさまに話を聞かない態度など。

というか彼は友人とふたりで来店したのにほとんど友人を構わず。
いったいどういう関係なのかといささか訝しんだ次第。

このところ店はヒマらしい。
そういう「ご縁」なのか。

水無田気流「『居場所』のない男、『時間』がない女」を読む。

タイトルは斎藤環「関係する女 所有する男」から。
以前から「亭主」には居場所がなく「女房」は常に忙しいというのになるほど。

それにしても特定の時代のみに可能であった「男は仕事、女は家庭」というパターンに
いつまでも固執し続ける理由は何なのか。

男の「仕事しかない生活ぶり」と
家電製品が増えても女の「家事と子育ての忙しさ」に変わりがないことはよくわかる。

わが国の労働生産性の低さは明らかなのだから
とりあえず男がもっと「ワークライフバランス」を考えた方がよさそう。

「ボーッとしている男、生活に追われる女」といったあたりが「正しい」かも。
ちょいと蘇る過去がイタイ。

マル激を観る。

本編はアメリカ大統領選における「トランプ現象」について。

かの国では「政治のインサイダーvsアウトサイダー」といった「対立軸」も。
もしトランプが大統領候補になってクリントンと争ったら勝つ可能性もあるとのこと。

宮台真司が指摘した「リベラルであることの難しさ」にふむふむ。
その「立場」が「特定範囲の中でのみの『正義』」であったことが明らかになりつつあると。

要は「自分の属していた経済的・文化的環境」から「自由にはなれない」ということか。
ここでも「理」を基準としなくなったことの影響が大きそう。

「野放図に快楽を求めるための道具=ネット」が日常になれば
「理」より「気分」が優先されるのも当然。

とはいえそうした環境を含む「現実」から逃れることはできず。
何とも厄介な時代になったものではある。

いずれにせよ「余裕のない状態」が「他者を認めることを拒む姿勢」を生み出すのは確か。
それをどうにか確保しないとダメだが「グローバル経済」がそれを阻み。

やはり「いいものに触れる」しかない。
そしてそれを感受できるだけの「力」を磨き続けるしかないと言っておく。
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