晴れ。やや風強し。
上野千鶴子・鈴木涼美「往復書簡 限界から始まる」を読む。
エロス資本、母と娘、恋愛とセックス、結婚、承認欲求、
能力、仕事、自立、連帯、フェミニズム、自由、男をテーマに。
母は「専業主婦」を見下しつつ。
男に評価される「外見」を保ちながらそれを使わない「優位さ」を誇り。
そうした「エリートな母親への違和感」を確かめたくて。
「ブルセラ」に始まりAV女優、水商売の世界へ向かった後者よ。
「『性の商品化』はダメ」という「自動機械」のような反応にも馴染めず。
「当事者としての経験」から再び違和感を覚え。
もっとも「元AV女優という肩書」がどこまでも付きまとうことに。
自らの思いとは異なる「消費のされ方」に迷い。
「身近にいる存在が与える影響の大きさ」をあらためて。
よくも悪くも「影響されざるを得ないこと」がまざまざと。
経験を重ねた前者は「おばさん」として登場。
自らのあれこれを語りつつ「いたずらに過去に囚われるな」と。
それもこれも「『無邪気』な男子が作り上げた『環境』の下」でのこと。
「自分のダメさ」をきちんと確認したいもの。
とりわけ「常識」が変化しているのにそれに気付かない人々が多いこと。
「かつて許されたもの」がいつまでもOKではないことに対する鈍感さたるや。
古澤憲吾「ホラ吹き太閤記」(’64)を観る。
秀吉の「成り上がりぶり」をなぞっただけなので面白くなく。
「だまって俺について来い」が本作の主題歌であることを初めて知る。
せっかくの藤田進も活かされていず。
そもそも本作はキャラクターをまともに描いていない。
もっとも「群衆シーン」をよくもこれだけ撮ったもの。
そのエネルギーには感心するのみ。
監督は「パレンバン降下作戦の勇士だった」と嘯いて「空撮」を正当化したのか。
このシリーズの植木等の姿はおそらくは「監督自身」だったかも。
上野千鶴子・鈴木涼美「往復書簡 限界から始まる」を読む。
エロス資本、母と娘、恋愛とセックス、結婚、承認欲求、
能力、仕事、自立、連帯、フェミニズム、自由、男をテーマに。
母は「専業主婦」を見下しつつ。
男に評価される「外見」を保ちながらそれを使わない「優位さ」を誇り。
そうした「エリートな母親への違和感」を確かめたくて。
「ブルセラ」に始まりAV女優、水商売の世界へ向かった後者よ。
「『性の商品化』はダメ」という「自動機械」のような反応にも馴染めず。
「当事者としての経験」から再び違和感を覚え。
もっとも「元AV女優という肩書」がどこまでも付きまとうことに。
自らの思いとは異なる「消費のされ方」に迷い。
「身近にいる存在が与える影響の大きさ」をあらためて。
よくも悪くも「影響されざるを得ないこと」がまざまざと。
経験を重ねた前者は「おばさん」として登場。
自らのあれこれを語りつつ「いたずらに過去に囚われるな」と。
それもこれも「『無邪気』な男子が作り上げた『環境』の下」でのこと。
「自分のダメさ」をきちんと確認したいもの。
とりわけ「常識」が変化しているのにそれに気付かない人々が多いこと。
「かつて許されたもの」がいつまでもOKではないことに対する鈍感さたるや。
古澤憲吾「ホラ吹き太閤記」(’64)を観る。
秀吉の「成り上がりぶり」をなぞっただけなので面白くなく。
「だまって俺について来い」が本作の主題歌であることを初めて知る。
せっかくの藤田進も活かされていず。
そもそも本作はキャラクターをまともに描いていない。
もっとも「群衆シーン」をよくもこれだけ撮ったもの。
そのエネルギーには感心するのみ。
監督は「パレンバン降下作戦の勇士だった」と嘯いて「空撮」を正当化したのか。
このシリーズの植木等の姿はおそらくは「監督自身」だったかも。
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