退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「できれば」ということについて

2014-03-21 02:33:35 | Weblog
雨のちくもり。夜になって風が吹く。

「金井美恵子エッセイ・コレクションⅠ 夜になっても遊び続けろ」はあと少し。

仕事場の上司が周囲に挨拶されている異動の決まった部下の様子を見て何度も
「愛されてるなぁ」とつぶやく。

おそらくは「羨望」の表れだとこちらに思わせるような彼は
普段の会話を聞いていてもいささかコミュニケーション能力に欠けていて。

「なんかマズイこと言った?」と自らを卑下する笑いの下から相手を伺うその様子に
傍で見ていてうっすらとした痛々しさを感じなくもなく。

あるいは自らが新しい仕事場で四苦八苦しながら求めているものを
すでに手に入れている者たちを目の当たりにした素直な感想かもしれず。

「欠乏」の意識がここでも人の行動を左右するのか。

一定の価値観と生活と感覚器官によって見出される「欠乏」は
それを求める「過剰反応」を生み出す。

そもそも「なぜそれが『欠乏』なのか」というのが「知性」ではあるけれど
残念ながら誰もが平等に持っているものではないのが現実。

「恰好の敵」を見つけてその「撲滅」に走る者もあれば
「望ましいモデルの模倣」に走る者も。

時にはそのような「生き方」しかできないのだと思わせる「事実」があり
それはどうしようもないこと。

願わくはちょいと「横目」で眺めることがあれば
「異なる視界」が開けることを知ってもらえれば。

そのための「材料」は限りなく存在していて
たとえば身近なところにもいっぱい。

目に張り付いたウロコは
むしろ落とされるために付いていたりするもの。

いっそ「削ぎ落とす」というテーマを持って
しばらく暮らしてみるのも悪くないかもしれない。
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