退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「ぬるま湯と歴史に学ばないこと」について

2012-09-20 02:53:37 | Weblog
晴れのちくもり。おだやか。

橋爪大三郎・大澤真幸「ふしぎなキリスト教」を読む。

昨日古本屋で100円で購入。
いちおう読んだものの詳細を確かめるために再読中。

周囲に左右される自らの「運命のはかなさ」のあまり
「絶対的な安全保障」として「唯一の神」を想定するのが一神教のよう。

面白いのはその神と人間のコミュニケーションがほぼ不可能だというあたり。
「圧倒的な力」を持つものに対して一方的に「対話=祈り」を続けるのだと。

すべて身に降りかかることは「試練」で
そうした「態度」を引き受けるのがポイントらしい。

「全知全能の神」が作った計り知れない「自然法則」を
一時的に「停止」したのが「奇蹟」だというのもなかなか。

前者を追究しようとしたのが「科学」であり
「科学」と「奇蹟」のいずれの背後にも「神の意志」がある模様。

われわれ日本人がいつまでも「多神教」でいられるのは
そこに「滅亡寸前の歴史」がないからだとも。

たとえばそのことを宮台真司は「悲劇の共有」という言葉で表している。
「周囲を海で囲まれた辺境」という地理的条件が「ぬるま湯」を可能にしていると言うべきか。

ユダヤ人が「自分に対する投資=教育」を信じるのは
それ以外に何も信じられない「苛酷」のなせる業だということも参考に。

要は「永遠のおちょぼ口」。

わが国にはさらなる「悲劇」が必要なのかと思うと
いささかウンザリせざるをえない。

かつての「敗戦」でさえ「民族全体の悲劇」にはなりえなかったのだとすると
あまりの「脳天気ぶり」に笑うしかなくなる次第。
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