退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「好ましい古典と芸能あるいは『老後の愉しみ』が増えるばかりであること」について

2019-02-15 02:45:42 | Weblog
晴れ。今日は夜に冷える。

中里介山「大菩薩峠 第一巻 都新聞版」を読む。

いやはや何でもっと早く読まなかったかなという反省しきり。
時代設定の矛盾などどうでもよくアッという間に読み終わる。

「地の文」の「ですます調」も今となっては懐かしく好ましい限り。
それぞれのキャラクターの立っていること。

描写が案外「映画的」だなと思った次第。
「半七捕物帳」や「銭形平次捕物控」の味わいを久方ぶりに。

この物語の展開はかなり歌舞伎の影響もありそうな。
本作では「お浜」の存在がなかなかに。

それにしても遅れ馳せながら読むことになってよかったと思うのみ。
1か月余り後に読了するはず。

「物語の力」をあらためて。

深夜「ファミリー・ヒストリー」で中村勘九郎の回の再放送を観る。

十七代目中村勘三郎が周囲にわからせるために
敢えて幼かった今の勘九郎に対して烈火のごとく怒ったエピソードにふむふむ。

そういう「叱り方」で何事かを伝えるやり方を思い出した次第。
「芸事」以外の世界でこの種のことは行われているのだろうか。

十八代目勘三郎の「早すぎた死」は
その周囲を巻き込む圧倒的な情熱とともに惜しまれる。

残念ながら同時代を生きてはいたものの舞台を見ることはなく。
このあたりの「腰の重さ」は自分のダメな部分だと思うよりなく。

どうやら「何事にも遅れて接する」のが「基本」らしい。
「生来の怠惰」がもたらす「残念さ」か。

まあ知らないで終わるよりはよかろうと「言い訳」など。
かくして「老後の愉しみ」は増すばかり。

それがいいことなのか悪いことなのかは不明。
曰く「自分の知っていることなどたかが知れている」。
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