晴れ。風冷たく肌が引き締まる。
橘玲「バカが多いのには理由がある」をそれと気付かず再読。
われわれがそもそも「バカ」になる理由が「進化の過程」にあると。
「生存の危機」に対応するために必要なのは「速い思考」。
なぜならじっくり考えたりしていたら死んでしまうから。
ただし複雑な物事に対応するために必要なのは「遅い思考」。
「知識社会化」が進む世の中で「身体の記憶」と「お手軽さ」に身をまかせると
自動的に「バカ」になってしまうという仕組み。
「啓蒙」で人は賢くならないという重要な指摘もあり。
右も左も「現実を見ていない」というのも同様に。
大した「知識」などなくてもそこそこ楽しく生きて行ける方法はないのか。
あるいは「足りない知識」を補える方法さえあれば。
当初の判断がどのようにあろうと
ある程度の「議論」ができればその態度変更もありうる。
もっともすでに「議論」そのものを受け付けない人々もいて。
いずれ「実験」なのだから「多様であること」が大事。
「試行錯誤するしかない」という意味ではみんな同じだもの。
実はわれわれの生き方が後世の人々の「参考」になることを忘れずに。
誰もが「笑って生きること」ができるように。
「知恵と意志」のいいところはそれが「タダであること」。
「思い込み」に左右されない「自由」をできれば手に入れたいものではある。
「関ジャム完全燃SHOW」を観る。
今回はバイオリンとギターとDJ、マリンバのコラボ。
「同じ曲を演奏していい感じにすること=目的が同じこと」で従来にないかたちが現実に。
「優れた技術が混ざり合う楽しさ」がここに。
分野を問わず交わることは新たな発見もあって楽しそう。
だとすれば重要なのは「音楽」に限らず「共通土台」か。
「意見の違い」を超えて何事かを一緒にすること。
やはり「相手を知らないこと」が「大きな壁」であるような。
「同じ釜の飯を食うこと」はこれほど大きなこと。
「いいかげんなお付き合いをしたくない人」だからこそ「正直な感想」を言えることなど。
「どうでもいい人」には苦笑ですますのが「マナー」だったりもするわけで。
マル激を観る。
今回は「外国人労働者受け入れ」について。
彼ら彼女らを「労働力」としてか見ないという在り様が
やがて我が身に降りかかる「現実」になることを忘れずに。
「医療通訳の重要性」を初めて知る。
「人として受け入れること」を思えば「当たり前の話」ではあるのだけれど。
神奈川で好ましい実例があるにもかかわらず
その動きはまだまだ全国区ではない模様。
例えば苛酷な労働環境ゆえに結核になる彼ら彼女らを「放置すること」が
むしろ国内の「労働環境」を悪くすることも(感染が広がるばかりだから)。
全体から見ればごくわずかな「生活保護の悪用」を
あたかもそれがすべてであるように言った片山さつきのどうしようもなさもあらためて。
「大臣になる以前」に彼女が「十分に怪しい人物」であることはわかっていた。
彼女の言い分がすべて間違っているわけではないがその「事実」は否定できず。
いずれにせよ。
わが国においてかくも「現実が認識しがたいもの」であるのはなぜなのだろう。
おそらくあまりに「ステレオタイプな解釈と予断」が多すぎるせいではないのか。
「判断する」前に「現実」を。
そして「具体的なお付き合い」を。
橘玲「バカが多いのには理由がある」をそれと気付かず再読。
われわれがそもそも「バカ」になる理由が「進化の過程」にあると。
「生存の危機」に対応するために必要なのは「速い思考」。
なぜならじっくり考えたりしていたら死んでしまうから。
ただし複雑な物事に対応するために必要なのは「遅い思考」。
「知識社会化」が進む世の中で「身体の記憶」と「お手軽さ」に身をまかせると
自動的に「バカ」になってしまうという仕組み。
「啓蒙」で人は賢くならないという重要な指摘もあり。
右も左も「現実を見ていない」というのも同様に。
大した「知識」などなくてもそこそこ楽しく生きて行ける方法はないのか。
あるいは「足りない知識」を補える方法さえあれば。
当初の判断がどのようにあろうと
ある程度の「議論」ができればその態度変更もありうる。
もっともすでに「議論」そのものを受け付けない人々もいて。
いずれ「実験」なのだから「多様であること」が大事。
「試行錯誤するしかない」という意味ではみんな同じだもの。
実はわれわれの生き方が後世の人々の「参考」になることを忘れずに。
誰もが「笑って生きること」ができるように。
「知恵と意志」のいいところはそれが「タダであること」。
「思い込み」に左右されない「自由」をできれば手に入れたいものではある。
「関ジャム完全燃SHOW」を観る。
今回はバイオリンとギターとDJ、マリンバのコラボ。
「同じ曲を演奏していい感じにすること=目的が同じこと」で従来にないかたちが現実に。
「優れた技術が混ざり合う楽しさ」がここに。
分野を問わず交わることは新たな発見もあって楽しそう。
だとすれば重要なのは「音楽」に限らず「共通土台」か。
「意見の違い」を超えて何事かを一緒にすること。
やはり「相手を知らないこと」が「大きな壁」であるような。
「同じ釜の飯を食うこと」はこれほど大きなこと。
「いいかげんなお付き合いをしたくない人」だからこそ「正直な感想」を言えることなど。
「どうでもいい人」には苦笑ですますのが「マナー」だったりもするわけで。
マル激を観る。
今回は「外国人労働者受け入れ」について。
彼ら彼女らを「労働力」としてか見ないという在り様が
やがて我が身に降りかかる「現実」になることを忘れずに。
「医療通訳の重要性」を初めて知る。
「人として受け入れること」を思えば「当たり前の話」ではあるのだけれど。
神奈川で好ましい実例があるにもかかわらず
その動きはまだまだ全国区ではない模様。
例えば苛酷な労働環境ゆえに結核になる彼ら彼女らを「放置すること」が
むしろ国内の「労働環境」を悪くすることも(感染が広がるばかりだから)。
全体から見ればごくわずかな「生活保護の悪用」を
あたかもそれがすべてであるように言った片山さつきのどうしようもなさもあらためて。
「大臣になる以前」に彼女が「十分に怪しい人物」であることはわかっていた。
彼女の言い分がすべて間違っているわけではないがその「事実」は否定できず。
いずれにせよ。
わが国においてかくも「現実が認識しがたいもの」であるのはなぜなのだろう。
おそらくあまりに「ステレオタイプな解釈と予断」が多すぎるせいではないのか。
「判断する」前に「現実」を。
そして「具体的なお付き合い」を。