退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「アナキスト的な視点の重要さと楽しさあるいはすでに現実がそうなっていること」について

2018-09-14 02:10:21 | Weblog
くもり。雨はパラつく程度。

ジェームズ・C・スコット「実践 日々のアナキズム」を読む。

「大規模で組織化されていない反乱が既存の制度を脅かす時にのみ、
構造的変化は起こりうる」という指摘に納得する。

ネットにおける「罵詈雑言」が「富裕層」に向かったらいいのにと思うのみ。
「仲間内」で「ゲバルト=暴力」を奮っている場合ではない。

われわれがあらゆる場面で管理されていることをあらためて。
同時にすべてを「数字で判断しないこと」。

「こうでなければならない」という規制はどんな場面でも人々を萎縮させ。
もっと「遊びながら学ぶこと」を大切にしたいもの。

たとえば。

学校の授業は「長時間じっと座っていること」を前提としている。
おまけにその内容が面白ければまだマシだがその現実たるや。

「テストのために追い込まれる」のも何だか。
そもそも「テスト」は「普段の実力を測るためのもの」であるというのに。

この種の「本末転倒」が各地で「普通」になって久しいことを思い出そう。
「正解」が決まっている中での「競争」の「貧しさとつまらなさ」も。

すでにゲームの世界にプロがいておまけに「スポーツ」になっている現実がある。
スノボやスケボー、あるいは昨日採り上げたボルダリングも同様に。

つまり。

かつてはとてもじゃないが「まともなもの」とは思われなかったものが
十分に成立している事実があるということ。

それを思えば「勉強」に閉じ込めるのはむしろ「害」かも。
いたずらに「才能」を埋もれさせることにもなりかねず。

「出来ないこと」を見つけるより「何が出来るのか」を見据えること。
現在の「学校という制度」はそれらを見失わせている。

さて。

ひたすら「癒し」を求めることを否応なくさせられている「原因」について考えよう。
そして何度も繰り返すが「具体的に対処すること」。

「好きに生きること」はもっと自由にあっていいはず。
「本当に楽しい」のであれば周囲からの評価を気にせず生きられるのだから。

もちろん「好きな対象」は何であっても結構。
少なくともその姿は他人を動かすものがあるのは確か。
コメント
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