退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「母親から見た子どもと緊張感を維持させてくれる人あるいは『AIと恥ずかしさ』」について

2018-05-21 02:22:47 | Weblog
晴れ。おだやか。

母親の見舞いに行った後で図書館へ。

こちらの私服が年中ジーンズなのを気に入らないのか
ユニクロで綿パンを買えとの「お達し」が出る。

靴下と下着などもついでに買うことに。
当人は全く必要性を感じていないものの。

「石上三登志スクラップブック 日本映画ミステリ劇場」を読む。

著者の名前は以前から知っていたのだけれど著作に接するのは初めて。
幼い頃から「記録魔」だったよう。

「時代の評価」とは関係なく「自らの評価」を貫いた模様。
残念ながらこちらが観ていない作品も少なくなく。

「当時の空気」を知らない者としてはどれだけ理解できるかといえば微妙。
今となっては「こういう人がいると安心できるのになあ」という存在。

誰もが自分だけの判断に甘んじることは出来ず。
その時に「あの人はどう判断したのか」という「基準」があるのが重要なわけで。

要は「緊張感を維持させてくれる人」とでも言えばいいのか。
もちろんそこに「違い」があるのは当然のこと。

そういう存在が身近にあるのはありがたい。
そして他人からそう判断されることも同様に。

マル激を観る。

今回のテーマは「AI=人工知能」。
数学者新井紀子の「AIへの期待はむしろ人間に対する評価を貶めている」という指摘が見事。

「人間そのもの」がよくわかっていないのに
一部の能力を捉えて必要以上に評価するのはいかがなものかと。

何より現在の教育環境において「最適化」を目指すと
人間が「ショボいAI」になってしまうという視点を大切に。

それは中学生高校生らの圧倒的な「読解能力の低下」につながり。
AIには決して「文脈」が理解できない一方その種の人間が増えている怖ろしさよ。

「統計」による処理は「同じ言葉の頻出具合」を「正解」だとする。
「受動態=~される」という言葉の意味さえ理解できず。

そもそも「読解能力」に著しく欠けているのなら
すべての「文字情報」は量の多寡に関係なく意味をなさない。

さて。

このところマル激においては神保哲生の「理解力の偏向」が露わになっている感じ。
もっとも彼の姿を「自分」だと捉えるのが「真っ当」なはず。

誰にも「苦手分野」はあるだけ。
「自分がわかることあるいはわかったつもりでいること」に何の「保証」もなく。

たとえば。

アインシュタインといえば問答無用に「偉い人」だとされるものの
彼の「理論の意味」を本当に分かっているかといえばそうではないだろう。

「真価」もわからないのになぜ評価しているのか。

あるいはマル激でも採り上げられた「食べログの評価」について。
「懐石料理」を食べて「量が少ない」という人の一票も「平等」に評価され。

AIが物凄い数のデータを処理しなければ認識できないことを
われわれ人間が大した量のデータもないままかくもたやすく処理することもあり。

いやはや。

どうやら「自らの不本意」を軸に「世界をリセットする」という考えは昔から。
「黙示録」くらい魅力があればまだしも個人のそれは圧倒的に貧しく。

われわれの基本は「セカイ系」だと知れば
そこから生み出されるものが「大したもの」ではないことを肝に銘じたいところ。

たとえば「ひき逃げ事件」を思い出そう。

車を捨てて逃げてもナンバーから身元は割れるはず。
にもかかわらず逃げるのは「非合理的」でそれ以上に「卑怯」だと思いたいもの。

「恥ずかしいこと」はしたくない。
この種の「倫理」をどこから調達できるのかが課題か。
コメント
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