退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「目眩まし」について

2011-05-13 02:19:19 | Weblog
雨。一日中そぼ降る。

W・G・ゼーバルト「目呟まし」を途中まで読む。

カフカの雰囲気は濃厚。
「私」は何かを確認しつつ何かから逃れるように移動する。

その様子が興味深いかと言われると微妙なところ。
むしろ「空襲と文学」の「明晰ぶり」の方に惹かれる。

「小説」というものの持つ従来の概念とはやや毛色が違うことは明白。
そもそも「小説」について「明確な定義」があるわけでもなく。

もちろん一作を途中まで読んだところでの感想なので
それは今後変わるかもしれないし変わらないかもしれない。

「語彙の豊かな『マイアミ殺人事件』風サルトル」。
思いつくのはとりあえずそんなところか。

さて。

ある種の「作業」を効率よくこなそうと思うときに
必要なのは「パターン認識」。

パターンの種類と特徴に関するデータをいつでも引き出せるようにしておいた上で
目の前にある「もの」がどのパターンなのかを峻別できればあとは「自動的」にこなすのみ。

実にシンプルなことだと思われるのだけれど
そうした「方法」を採らずやたらに「量をこなす」ことで対応しようとする人々がいる。

自分が知っているもの以外のものに出会えば
それもまた新たな「パターン」として記憶されればよいはず。

がしかし。

彼ら彼女らはいたずらに「未知」に怯え
その不安を「量をこなす」ことによって解消しようとする。

ただしそうした「量」は「量」そのものによって「安心」を成り立たせるだけなので
あらゆる「量」がそもそも「無限」であることも知らずさらなる「不安」を生むだけ。

なぜ「質あるいはパターン」を見極めようとしないのか。

おそらくそのことを問われると
彼ら彼女らの「何か」が崩れるのだろう。

「何事も単純化する」のが脳の基本だとすれば
「何も考えずにこなすこと」によって「未知=恐怖」を避けようとする「人間らしさ」の持ち主ではある。

がしかし、再び。

依然として不明なのは
何が彼ら彼女らを「追い詰めているのか」ということ。

その「正体」がいわゆる「現実の厳しさ」なら
おそらくそれは「撲滅すべき貧しさ」として捉えられるべきもので。

「気楽さ」を維持するためには
思いつく限りあらゆる「径路」を持っている「豊かさ」を準備することだろう。
コメント
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