日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

「70年代洋楽ロードの歩き方22」~パワーポップ5

2010-09-20 | 洋楽
前回はパワーポップの「ポップ」の部分に注目して、ポール・マッカートニーをルーツとするポップ感覚に秀でたアーティストを追いかけてみましたが、今回は最終回として「パワー」の方に力点をおいて見た70年代パワー・ポップ的アプローチ・アーティストとその後の影響等の変遷を取り上げてみます。

一般的によく言われている、パワーポップとグラムロックの関係。グラムロックもパワーポップもブリティッシュ・ビートの流れを汲むビートルズ解散後の動きという共通項があり、グラムの音楽の明快さを少しメロディアスな方向にいじってみると、パワーポップと同じようなベクトルを描くことになると思います。ですから、グラムヒーローたちの楽曲には捉え方ひとつで、確実にパワーポップへの分類が可能なものが多数あるのです。その代表は、グラムの裏仕掛け人であったチン&チャップマンの作品群にまず見出すことができるでしょう。例えばスウィートの初期のヒット曲「リトル・ウイリー」あたりは、何も知らない人が聞けば十分パワーポップで通用するナンバーでしょうし、スージー・クアトロの「悪魔とドライブ」あたりにも同じことが言えると思います(スウィートはチン&チャップマンの下を離れてからもその影響で、「フォックス・オン・ザ・ラン」などパワーポップ指向の楽曲をリリースしています)。

チン&チャップマンのチーム解散後、グラム全盛以降のマイク・チャップマン単独でのプロデュース・アーティストで忘れてならないのがブロンディ(写真)です。彼らはご存じ“妖女”デボラ・ハリーを中心としたニューヨーク出身のバンドですが、デビッド・ボウイに認められたこともあって実のところ最初に売れたのはイギリスだったのです。70年代後半にはマイクのプロデュースで、「サンディ・ガール」「ハート・オブ・グラス」「ドリーミング」などのヒットを連発。このブレイク後にジョルジョ・モローダーによる「コール・ミー」の大ヒットが生まれて、世界的にディスコヒーローとして注目されることになるのですが、彼らの最初の発火点は確実にパワーポップであったのです。以前にも触れていますが、マイク・チャップマンは同時期にパワーポップの代表格と言える「マイ・シャローナ」のナックの仕掛け人も務めており、この時代にグラムとパワーポップを結び付ける最大のキーマンであったと言っていいでしょう。

他にも英国でグラムに分類されるベイ・シティ・ローラーズやルベッツ(最近また「シュガー・ベイビー・ラブ」がCMに使われています)も、音楽的に言えば十分パワーポップであると思います。彼らはグラムでは最も辺境に近い存在ではありましたが、メインストリームに目を向けてみても、グラム末期はかなりパワーポップとの相関性が強いことに気付かされます。グラムの代表格Tレックスのシングル「ライト・オブ・ラブ」などは、グラムというには恥ずかしいほどポップなナンバーでしたし、スレイドもラウド系からの脱皮を試みたシングル「マイ・フレンド・スタン」や「エブリディ」などには明らかなパワーポップ的アプローチがみてとれます。短命に終わったグラムムーブメントの生き残り策として、同時期に生まれ仕掛け人の存在も含め近しい関係にあったパワーポップへの転化が試みられたという見方はあながち誤りではないと思います。アメリカでもアメリカングラムのアリス・クーパーには「ミスター・ナイスガイ」などにパワーポップ的アプローチが指摘できますし、その流れをくむKISSにはさらに強くその傾向が表れているともいえるでしょう。

最後にその後のパワーポップの変遷なのですが、70年代後半にはパワーポップは明るく陽気なアメリカ人に受け入れられアメリカン・ミュージックに新たな息吹を与えます。あくまで個人的見解ですが、チープ・トリック以降のパワーポップは80年代に大ブレイクするいわゆる「産業ロック」の流れに大きな影響を及ぼしていったと捉えています。その代表格は、REOスピードワゴンであり、ボストン、フォリナー、ジャーニー、スティックさらにはヴァンヘイレンなどにもその影響をハッキリと見て取ることができます。彼らの共通点は、70年代デビュー組でかつ80年代との橋渡し役として活躍したことです。REOの「キープ・オン・ラビング・ユー」ボストン「宇宙の彼方へ」フォリナー「冷たいお前」ジャーニー「ライツ」スティックス「ベイブ」などは、その流れを少なからず感じることができる楽曲であると言えるでしょう。彼らの共通項である「パワー」に加えて「ポップ」な香りが少なからずすることが、80年代の「産業ロック」成立の重要な条件であったわけで、その原型たるパワーポップは70年代と80年代をつなぐ大きな役割を果たしたと言えるのです。

もひとつ最後に余談ですが、パワーポップとパワーポップ“的”な楽曲が一番受け入れられている国はどこかですが、実は日本であると思っています。パイロットの人気は本国以上ですし、ラズベリーズのシングルが一番多くチャートインしたのも日本です。さらにはベイ・シティ・ローラーズの盛り上がりは異常でしたし、チープトリックがいち早く人気になったのも、海外では全く売れなかったTレックスの「ライト・オブ・ラブ」が唯一ヒットしたのも日本でした。そうです、思えば日本人はパワーポップの元祖であるポール・マッカートニーが大好きだったのです。ジョン・レノンが突然の死を迎えるまで、日本では「レット・イット・ビー」「ヘイ・ジュード」「オブラディ・オブラダ」などビートルズ・ナンバーでもポールの楽曲の方が圧倒的に人気が高かったのです。誕生から半世紀を越え、ポピュラー・ミュージックそのものが学問的に研究され始めるなら、日本人特有の音楽嗜好を知る意味ではパワーポップは大きなカギを握る音楽であると思います。そんな目でぜひパワーポップを今一度見直す機運が生まれたらおもしろいだろうと思っているのですが…。