日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

「51」の縁(えにし)

2010-09-30 | その他あれこれ
私事ですが、今日9月30日は誕生日でした。なんと51回目。もういい加減めでたい歳でもないのですが、「51」という数字はやけに気になるのです。その理由は70年代回顧ネタでもあるのですが、よろしかったら少々お付き合いください。

私の少年時代、サッカーはまだまだマイナースポーツであり当時の小学生はほとんどが野球ファンでした。皆大抵は巨人ファンだったり、阪神ファンだったり。今と違ってパリーグはテレビ中継もほとんどなく全く人気がなかったので、パリーグに詳しい小学生はほとんどいませんでした。そんな中、私が応援していたのはパリーグの東映フライヤーズ。その点では変わった子供でした。東映は今の日本ハムファイターズです。今でこそ、本拠地の札幌移転とダルビッシュ人気もあって結構な人気チームになっていますが、当時は後楽園球場を本拠地にしながら、毎試合ガラガラの閑古鳥。同じ後楽園球場を本拠地にする巨人が毎試合ほとんど満員の40,000人を動員していたのに対して、東映はせいぜい2,000~3,000人。私なんぞは、いただきものの内野ボックスシート・エリアを走り回って野球観戦ができると喜んでいたものです(その当時、ちょっとした企業はたいていボックス席を持っていて接待や福利厚生に使っていたのですが、巨人戦と東映戦はセット販売だったので、不人気の東映戦は頼めば比較的簡単にもらえたのです)。

さあここからが本題。そんな当時の東映に、小学生の私が野球選手として初めて本当にファンになって応援した選手がいました。大杉勝男選手。初めて見た時は5番を打っていました。当時は期待の若手スラッガーでしたが、とにかく豪快なスイングから叩きだされるホームランが彼の一番の魅力でした。なぜ彼のファンになったのかと言えば、私が後楽園の東映戦に足を運び始めた最初のシーズン、確か5試合を見に行ってそのすべての試合で彼はホームランを打ってくれました。かっこよかったです。テレビとは違うカクテル光線に照らされたナイトゲームを生で見ているその前で、豪華な一発を毎回見せてくれるのですから、ファンになって当然です。当時の彼の背番号が「51」でした。「51」はかなり重たい背番号です。今でこそ、松井選手のような大物でも50番台の背番号を好んで付ける時代になりましたが、あの頃の一流選手は野手はひとケタ、投手は10番台、20番台が一般的でした。

プロ入り前の彼は全く無名で、所属の社会人野球チームが解散の憂き目に会うも、野球で生きていく道を捨てきれずにプロテストを受け苦労の末入団。ですから彼に与えられた重たい「51」という背番号は当然のものなのでした。恩師である飯島コーチから「月に向かって打て」と指導され、その教えを守り努力に努力を重ねてレギュラーの座を射止め、クリーンアップを任され、遂にはホームラン王のタイトルまで獲得したのでした。強打、そして前向きな努力姿勢とともに私を引きつけた彼の魅力はその人柄にもありました。常に明るくチームのムードメーカーであるとともに、監督の抗議中にファンサービス・パフォーマンスをするといった本当にファンを大切にするプロとしての姿勢も素晴らしかったのです。しかしながら、引退後癌に冒され92年に47歳の若さで突然この世を去ってしまいました。この日以降彼は私の中でまさしく「伝説の野球選手」となり、「51」は決して忘れることのない数字として私の密かなラッキーナンバーとなったのです。

「51」という数字に特別な思い入れがある人はそういないかもしれませんが(ちなみにイチロー選手は同じ「51」です)、私にとっては少年時代を勇気づけてくれたとても大切な数字なのです。そしてまた大杉選手とは不思議な縁(えにし)を感じてもいるのです。私の身の回りでは、不思議なことに大きな出来事はたいてい5日か30日に起きています。一例をあげれば、店舗1号店の開店日、義母の命日、挙式日は5日、私の誕生日、会社の設立日、父の命日は30日…。まだまだこれは一例ですが、ひとつも意識してその日を選んだものはありません。そして大杉選手の誕生日は3月5日、命日は4月30日でした。なにか、大杉選手の忘れじのナンバー「51」を大切にしろと言われているサインであるかのように思えてならないのです。そんなこともあって、本日51歳を迎えとても重要な1年のスタートに立ったように感じました。例年にはないことです。人生における縁(えにし)というものは、必ず存在するものです。私は「51」の縁(えにし)を大切に、この1年一層前向きにがんばってみようと思います。

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