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帆船模型で遊ぼう!!

1から始める木造帆船

初夏の園芸(その2)

2020-06-15 08:42:50 | 日曜菜園

この苗は元気で密集、分離栽培する前に抜いてサラダで食べるかな?

 

                        

 

こっちの苗が今年の目玉、こんな苗です。

 

                       

 

そー「サツマイモ」、種類は紅・・・だったかな、時期がずれて購入のため、まだまだ馴染んでいません右の苗。

これらは、昨年の花から採取、鉢に蒔いていたらほぼ100%の出芽。

あまりに出すぎたため、あちこち植え替えどーなるかな?

 

                                            4

 

まだまだタンと苗あるため、さらにいろいろ植えます。

柵に這わそうと、壁に沿って植えています。

 

                       

 

こっちにも同様壁沿いに植えていますが、メインはこの苗、

これの発芽率30%程度、何とか芽が出た「八重ひまわり」を植え替えました。

 

                                      

 

こっちも同様で、品種は違うが、発芽率は同程度の「ミニ咲ひまわり」

 

                       

 

昨年は花からのタネで失敗、今年は一応市販のタネ、ただ連作になるので、発芽率の低さも含めどーなるかな?

                            

 

 

        

        

 

 

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はてさてどこか?(その4) 

2020-06-12 07:20:14 | 歴史

何とかこの訳文で、「魏志倭人伝」理解できるかな?

 

倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山島に依って国邑を作っている。昔は百余国あり、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である。

(帯方)郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、その(=倭の)北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里。
(注/梁書倭伝「乍開乍閉」=開いたり閉じたり)

始めて一海を渡り、千余里で対海国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。

土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。

また(さらに)、南に一海を渡る。千余里。名はカン海という。一大国に至る。官は、また(対海国と同じく)、ヒコウといい、副はヒドボリという。およそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多い。

三千ばかりの家がある。いくらかの田地がある。田を耕しても、やはり、住民を養うには足りないので、また(対海国と同じく)、南北に行き、商いして米を買い入れている。

また、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。

魚やアワビを捕ることが好きで、水の深浅にかかわらず、みな、水に潜ってこれを取っている。

(末盧国から)東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着する。官はジシといい、副はエイボコ、ヘイキョコという。千余戸が有る。代々、王が有り、みな女王国に従属している。

(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

(伊都国から)東南、奴国に至る。百里。官はシバコといい、副はヒドボリという。二万余戸が有る。

(奴国から)東に行き不弥国に至る。百里。官はタボといい、副官はヒドボリという。千余りの家がある。

(不弥国から)南、投馬国に至る。水行二十日。官はビビといい、副はビビダリという。およそ五万余戸。

(投馬国から)南、邪馬壱(ヤバヰ)国に至る。女王の都である。水行十日、陸行ひと月。官にイシバがある。次はビバショウといい、次はビバクワシといい、次はドカテイという。およそ七万余戸。

(ここまでに紹介した)女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来るが、その他のかたわらの国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。

次にシバ国が有る。次にシハクシ国がある。次にイヤ国がある。次にトシ国がある。次にミド国がある。次にカウコト国がある。次にフウコ国がある。次にシャド国がある。次にタイソ国がある。

次にソド国がある。次にコイフ国がある。次にカドソド国がある。次にキ国がある。次にヰゴ国がある。次にキド国がある。次にヤバ国がある。次にキュウシン国がある。次にハリ国がある。

次にシユイ国がある。次にヲド国がある。次にド国がある。ここは女王の境界の尽きる所である。

その(女王国の)南に狗奴(コウド、コウドゥ)国があり、男子が王になっている。その官に狗古智卑狗(コウコチヒコウ)がある。女王には属していない。郡より女王国に至るまで、万二千余里。

男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな自ら大夫と称した。

夏后(王朝)の少康(五代目の王)の子は、会稽に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、

入れ墨はまた(少康の子と同様に)大魚や水鳥を追い払うためであったが、後にはしだいに飾りとなった。

諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分の尊卑によっても違いがある。

その(女王国までの)道のりを計算すると、まさに(中国の)会稽から東冶にかけての東にある。

その風俗はみだらではない。男子は皆、(何もかぶらず)結った髪を露出しており、木綿で頭を縛り付けている。その着物は横幅が有り、ただ結び付けてつなげているだけで、ほとんど縫っていない。

婦人はおでこを髪で覆い(=おかっぱ風)、折り曲げて結っている。上敷きのような衣をつくり、その中央に穴をあけ、そこに頭を入れて着ている。

稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹綿を生産している。その土地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギがいない。兵器には矛、盾、木の弓を用いる。

木の弓は下が短く上が長い。竹の矢は鉄のヤジリであったり、骨のヤジリであったり。持っている物、いない物は儋耳、朱崖(=中国・海南島)と同じである。

倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。屋根、部屋がある。父母と兄弟(男子)は別の場所で寝たり休んだりする。

赤い顔料をその体に塗るが、それは中国で粉おしろいを使うようなものである。

食飲には、籩(ヘン、竹を編んだ高坏)や豆(木をくり抜いた高坏)を用い、手づかみで食べる。

人が死ぬと、棺に収めるが、(その外側の入れ物である)槨はない。土で封じて盛った墓を造る。始め、死ぬと死体を埋めないで殯(かりもがり)する期間は十余日。

その間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、洗ったり浴びたりする。

それは(白い絹の喪服を着て沐浴する)中国の練沐のようなものである。

その行き来し海を渡って中国にいたる際は、常に一人に、頭をくしけずらせず、シラミを取らせず、衣服をアカで汚したままにさせ、肉を食べさせず、婦人を近づけさせないで喪中の人のようにさせる。

これをジサイという。もし無事に行けたなら、皆でジサイに生口や財物を対価として与えるが、もし病気になったり、危険な目にあったりすると、これを殺そうとする。

そのジサイが慎まなかったというのである。

真珠や青玉を産出する。その山には丹がある。その木はタブノキ(枏=楠)、コナラ(杼)、クロモジ(橡)、クスノキ(樟)、?(楺櫪)、?(投橿)、ヤマグワ(烏號)、フウ(楓香)がある。

その竹はササ(篠)、ヤダケ(簳)、真竹?(桃支)。ショウガや橘、山椒、茗荷などがあるが、(それを使って)うまみを出すことを知らない。アカゲ猿や黒雉がいる。

その風俗では、何かをする時や、何処かへ行き来する時、ひっかかりがあると、すぐに骨を焼いて卜し、吉凶を占う。先に卜する内容を告げるが、その言葉は中国の占いである令亀法に似ている。

火によって出来た裂け目を見て、兆しを占うのである。

その会合での立ち居振る舞いに、父子や男女の区別はない。人は酒を好む性質がある。

大人を見て敬意を表す場合は、ただ手をたたくのみで、跪いて拝む代わりとしている。人々は長寿で或いは百歳、或いは八、九十歳の者もいる。

その習俗では、国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ場合がある。婦人は貞節で嫉妬しない。窃盗せず、訴えごとも少ない。

その法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその一家や一族を没する。尊卑にはそれぞれ差や序列があり、上の者に臣服して保たれている。

租税を収め、高床の大倉庫がある。国々に市があって有無を交易し、大倭にこれを監督させている。

女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。(魏)国中における刺史(州の長官)のような存在である。

(邪馬壱国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行くとき、及び帯方郡の使者が倭国へやって来たときには、いつも(この大率が伊都国から)港に出向いて調査、確認する。

文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。

下層階級の者が貴人に道路で出逢ったときは、後ずさりして(道路脇の)草に入る。言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付け、うやうやしさを表現する。

貴人の返答の声は「アイ」という。比べると(中国で承知したことを表す)然諾と同じようなものである。

その国は、元々は、また(狗奴国と同じように)男子を王と為していた。居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。

鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。王となってから、まみえた者はわずかしかいない。

侍女千人を用いるが(指示もなく)自律的に侍り、ただ、男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所に出入りしている。

宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している。

女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。また、侏儒国がその(女王国の)南にある。人の背丈は三、四尺(72㎝~96㎝)で、女王国を去ること四千余里。

また、裸国と黒歯国があり、また、その(女王国の)東南にある。船で一年行くと着く。

倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである。

景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。

太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を引率して送らせ、都(洛陽)に至った。その年の十二月、詔書が倭の女王に報いて、こう言う。

制詔、親魏倭王卑弥呼。
 帯方太守、劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利を送り、汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈をささげて到着した。

汝の住んでいる所は遠いという表現を越えている。

すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。私は汝をはなはだいとおしく思う。

今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し(与え)、装封して帯方太守に付すことで仮(かり)に授けておく。

汝は種族の者を安んじ落ち着かせるそのことで、(私に)孝順を為すよう勉めよ。汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。

今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し(与え)、引見してねぎらい、下賜品を与えて帰途につかせる。

今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。

また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、皆、装封して難升米と牛利に付す。

帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。

正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、これを倭王に授けた。

並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、その有り難い詔に感謝の意を表して答えた。

その(正始)四年(243)、倭王はまた大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣し、生口や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢を献上した。

掖邪狗等は等しく率善中郎将と印綬を授けられた。

正始六年(245)、詔して倭の難升米に黄色い軍旗を賜い、帯方郡に付して仮に授けた。

正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)帯方郡太守の王頎が着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、

倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。

(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。

卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。

また、卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。

壱与は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。

そして、臺(中央官庁)に至り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なる雑錦二十匹を貢いだ。

 

2000字とはいえ、やっぱそこそこの文章になります。

確かに前半は邪馬台国までの行程、後半が地理的環境、人物描写、生活環境、卑弥呼時代の歴史といったところか?

行程の問題は、何も云えませんし、それ以外も多くの方が各種の説を出している?

そーオラッチャそこまで深くは読み込んでいないため、何とも云えません。

と、次回は残りの大御所の北九州説への批判を探して来ましょう!!

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初夏の園芸(その1)

2020-06-09 08:02:21 | 日曜菜園

なんとかそこそこ咲いてくれました、この花、「サツキ」

 

                          

 

昨年までは、花はも少し少なかったが、今年はまーまー。

そーそこそこ夏場の水遣り、施肥が効を奏したのか、今年も頑張れば来年も少し咲いてくれるかな。

こちらも何とか咲き出しました。

 

                           

 

この色のアジサイが好きで、この花の枝を昨年挿し木をしたが、残念ながら挿し木は全滅。

今年も花が終了後、来年のためにも一度挿し木頑張ってみよう!!

こっちはどーか?

鉢に植えた「岡ワカメ」

これは流石に強い、挿し木はほぼ100%、芽が出て茎が伸びています。

遮光カーテンになるかは、今からの肥料、水撒き次第?

隣にゃ、別の苗、これもしっかり芽が出ています。

 

                           

 

こっちの苗はどーか?

ホームセンターで、時期外れ?残りのモノを買ってみました。

最近、この種の苗は植えていなかったが、今年は挑戦と。

 

                          

 

これらの苗、今一元気が?、葉も若干枯れ模様、どーなるかな?

ただ、やっぱ値下げ苗はダメでした。買った時はそこそこ元気良さそうだったが・・・

 

                           

 

このタネは全滅の様で、1粒も芽が出ず、アチャーです。

 

                          

 

時期外れと思っていたら、別のホームセンターでは、まだまだ売っていたため、買って植えてみました。

 

                           

 

トマトの種類は2種類、値段もピンキリ、今までの品種とはちょっと違う苗、どうなるかな。

胡瓜のこっちの苗も同様で、過去とは種類の違う苗です。

 

                          

 

タネからなんとかここまでは、頑張ってくれている「パセリ」。

 

                            

 

これから植え替え、どーなるかな?

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補修(その3)

2020-06-06 07:41:07 | その他

どんな風に使うか、せっかくなので新たなチャレンジ、ユーチューブに使用方法のあれこれあるとの情報頼りに探します。

ユーチューブにいろいろあります、以前はこの機種、定価は百円、今は二百円、倍の値段になっているらしい。

その差を検証する動画もアップされ、それなりに二百円グルーガン納得です。

さらには、ホームセンターの高額グルーガンとの比較動画も。

高額とはいえ、倍程度で知れてはいますが・・・。

結果、「グルーガン」、どれもそれほど遜色ない様で、百均のモノでもちょこっと使用には十分耐えるみたいです。

とはいえ、材料含め・・円と、モルタルパテよりやや安価ですが、要は仕上がり、どーなるかな?

 

先ずは、延長コードを持ち出し、玄関先に。

 

                         

 

充填材料をグルーガンに挿入、この材料が溶けるまで・分待ちます。

 

                           

 

引き金引いて、ノズルから溶けだした充填材を隙間に埋めていきます。

ちょっとあずって、なかなかうまく材料出て来ません。充填材の溶けだす温度と時間の関係考えて、作業する必要がありますね。

 

                         

 

今一、仕上げに難が、この辺りが技術的な腕になるのかな。

一度ノズルから出ると、急激に材の温度下がり固結する様です。

 

どーにか隙間に充填材埋め込み、作業終了!!

 

                                  

 

数本のスティック使って隙間充填、今後この隙間どう変化するか、まだまだチェック必要です。

 

 

 

 

               

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はてさてどこか?(その3)  

2020-06-03 13:28:38 | 歴史

書き下し文は、こんな感じです。

倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国。

郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。

始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居する所は絶島、方四百余里ばかり。

土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。

又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。官は亦た卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。方三百里ばかり。

竹木叢林多し。三千ばかりの家有り。やや田地有り。田を耕すも、なお食するに足らず。亦、南北に市糴す。

又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。

魚鰒を捕るを好み、水、深浅無く、皆、沈没してこれを取る。

東南陸行。五百里。伊都国に到る。官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸有り。世、王有り。

皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所。

東南、奴国に至る。百里。官は兕馬觚と曰い、副は卑奴母離と曰う。二万余戸有り。

東行、不弥国に至る。百里。官は多摸と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有り。

南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。

南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。

次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮と曰う。七万余戸ばかり。

女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り。

次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。

次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。

次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。

その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至る。万二千余里。

男子は大小無く、皆、黥面文身す。古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。

夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、

文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、

或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。

その風俗は淫ならず。男子は、皆、露紒し、木綿を以って頭を招(しば)る。その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うこと無し。

婦人は被髪屈紒す。衣を作ること単被の如し。その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。

禾稲、紵麻を種(う)え、蚕桑す。緝績して細紵、縑、緜を出す。その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲無し。兵は矛、盾、木弓を用いる。

木弓は下を短く、上を長くす。竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃。有無する所は儋耳、朱崖と同じ。

倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆、徒跣。屋室有り。父母、兄弟は異所に臥息す。朱丹を以ってその身体に塗る。

中国の紛を用いるが如し。食、飲には籩豆を用い、手食す。

その死には、棺有りて槨無し。土で封じ冢を作る。始め、死して喪にとどまること十余日。当時は肉を食さず、喪主は哭泣し、

他人は歌舞、飲酒に就く。已に葬るや、家を挙げて水中に詣(いた)り澡浴す。以って練沐の如し。

その行来、渡海し中国に詣るに、恒に一人をして、頭を梳らず、蟣蝨を去らず、衣服は垢汚し、肉を食らわず、婦人を近づけず、

喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。若し、行く者に吉善ならば、共にその生口、財物を顧す。

若し、疾病が有り、暴害に遭うならば、便(すなわ)ち、これを殺さんと欲す。その持衰が謹まずと謂う。

真珠、青玉を出す。その山には丹有り。その木には枏、杼、橡、樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香有り。

その竹は篠、簳、桃支。薑、橘、椒、襄荷有り。以って滋味と為すを知らず。獮猴、黒雉有り。

その俗、挙事行来、云為する所有れば、すなわち骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う。先に卜する所を告げる。その辞は令亀法の如し。

火坼を視て兆しを占う。

その会同、坐起では、父子、男女は別無し。人性は酒を嗜む。

魏略(*)いわく、その習俗では正月(陰暦)や四節を知らない。ただ春に耕し、秋に収穫したことを数えて年紀としている。

《*/「魏略」…魏の歴史を記した書、現存しない》

大人を見て敬する所は、ただ搏手し、以って跪拝に当てる。その人は寿考、或いは百年、或いは八、九十年。

その俗、国の大人は、皆、四、五婦。下戸は或いは、二、三婦。婦人は淫せず、妬忌せず。盗窃せず、諍訟少なし。

その法を犯すに、軽者はその妻子を没し、重者はその門戸、宗族を没す。尊卑は各(それぞれ)差序有りて、相臣服するに足る。

租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。

女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。

王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。

文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。

下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入る。辞を伝え、事を説くには、或いは蹲り、或いは跪き、両手は地に拠る。

これが恭敬を為す。対応の声は噫と曰う。比して然諾の如し。

その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。

名は卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大。夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。

王と為りてより以来、見有る者少なし。婢千人を以(もち)い、おのずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、

辞を伝え、居所に出入りす。宮室、楼観、城柵が厳設され、常に人有りて兵を持ち守衛す。

女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種。又、侏儒国有りて、その南に在り。

長は三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南に在り。船行一年にして至るべし。

倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。

景初二年六月、倭女王は大夫、難升米等を遣わして郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。

太守、劉夏は吏を遣わし、将(ひき)い送りて京都に詣る。その年十二月、詔書が倭女王に報いて曰く。

制紹、親魏倭王卑弥呼。帯方太守、劉夏が使を遣わし、汝の大夫、難升米、次使、都市牛利を送り、汝が献ずる所の男生口四人、

女生口六人、班布二匹二丈を奉り、以って到る。汝の在る所は遠きを踰(こ)える。

すなわち、使を遣わし貢献するは、これ汝の忠孝。我は甚だ汝を哀れむ。今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、

装封して帯方太守に付し、仮授する。汝は其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝の来使、難升米、牛利は遠きを渉り、道路勤労す。

今、難升米を以って率善中老将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し、引見して、労い、賜いて、還し遣わす。

今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝の献ずる所の貢の直に答う。

又、特に汝に紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜い、皆、装封して難升米、牛利に付す。

還り到らば、録して受け、悉く、以って汝の国中の人に示し、国家が汝を哀れむを知らしむべし。故に、鄭重に汝の好物を賜うなり。

正始元年、太守、弓遵は建中校尉、梯儁等を遣わし、詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮す。

並びに詔を齎(もたら)し、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を賜う。倭王は使に因りて上表し、詔恩に答謝す。

其の四年。倭王はまた使の大夫伊聲耆、掖邪拘等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢を上献す。

掖邪狗等は率善中郎将と印綬を壱拝す。

其の六年、詔して倭、難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授す。

其の八年、太守、王頎が官に到る。倭女王、卑弥呼は狗奴国王、卑弥弓呼素と和せず、倭、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。

塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為(つく)りて之を告諭す。

卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は百余人。更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。

復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。政等は檄を以って壱与に告諭す。

壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わし、政等の還るを送る。

因って、臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢ぐ。

 

何となく日本語らしくなってます。

これなら、何とかオラッチャでもこんなことをいっているのかな? と大意は掴めるか?

前半が邪馬台国までの道程、後半はその地の地理的環境、最後に卑弥呼の死やその後の歴史ってところか?

実際の訳文はこんな感じで書かれています。

 

 

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