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はてさてどこか?(その6)

2020-06-27 10:20:23 | 歴史

さー最後の大御所、あの森浩一氏です。

この方の著作、なかなかブックオフ等では入手出来ません。先の古田邦彦氏も同様ですが、・・

読む人少ないのか、読んでも出す人少ないのか、新刊買えばと思うでしょうが、そこはそれ、

簡単に手に入るのと、苦労して入手するの、どっちが思い入れ大きいか?

そんなに急いで手に と思うこともあるため、のんびりと です。

新刊に比べりゃ、当然・・分の以下でと云うのも、小遣い少ない身には必須ですが・・・

この方、思うに現地実証主義、文献でなく、現地でどーだ? って感じの方。(と思っています)

幼少期の頃から、大阪の古墳を眺めて育っている純粋培養のお方、

それが近畿でなく、九州説、文献でなく古墳・遺跡の生活現場からの思いです。

この方のいろいろ書かれた文献、やっぱその当時の生活、現地に基づかなきゃ書けません。

その方が押す「九州説」間違いないでしょう!!

と、思っていたら、この方かなり手厳しい批判を。

批判として、その1~11までと、かなり詳しく述べられています。それを纏めた文がこんなところです。

「森氏の主張がいかにデータから外れているか、こまごまと指摘してきた。氏は倭人伝を正確に読もうとするのではなく、自らが作ったイメージに合わせるための無理読みをしている。

検証やら裏付けというものなしに勝手にきめて書きすすめるのだから、これほど楽なことはない。松本清張氏の真似をして想像に走るのは小説の手法であって歴史の叙述ではない。

それでも専門学者らしく、さまざまなデータをお持ちであった。この本からの収穫は三点。


一つは、国邑とは国と集落という意味ではなく、首都的な集落を表すということ。これは韓伝の「国邑は主帥ありといえども、邑落は雑居してよく相制御することができない。」という記述から裏付けられる。

中国北方には国邑というべきものを持たない遊牧民国家が展開する。その対比として中国人にはよく理解できる意味のある言葉だったのだろう。


一つは、近畿の古墳時代にみられる鏡の副葬や水銀朱の使用が、近畿の弥生古墳にはみられず、北九州から伝来したらしいこと。要するに、古墳時代の権力者が北九州の影響下にある。

北九州勢力が近畿に入ったと考えられること。これは出雲、北九州連合が大和に侵入した時の戦乱が倭国大乱だとする私の主張を補強してくれる資料となる。

卑弥呼の一代前のできごとにすぎず、近畿の弥生古墳からはほとんど見つからないだろう。卑弥呼の時代はすでに前期古墳時代に分類されている。


三つ目は、張政という日本に渡来した帯方郡使が張撫夷と名を変え、帯方太守に昇進して、その陵墓が発見されていること。「夷を撫した」事実がなければこれはありえない。

張政は親魏倭王を授けられた女王国を保護するという任務をみごと果たし、その結果として撫夷という名を与えられ、使君と通称されたのであろう。

魏志には張政だから、改名と帯方太守就任は晋代と思われる。漁陽という北京よりさらに北方の出身なので、日本は暑く、特に夏のむし暑さは耐え難く感じたであろう。

日本を亜熱帯、熱帯の国と誤認したことも当然と思われる。」

こんな感じの批判や感想です。

各氏、また批判するこの方、皆それぞれ文献を読み解き?、結論を出しています。それに反し、大してこれらも読まずに人の意見でその位置探そうと考えているオラッチャ、内容知れています。

しかし、それでも見つからない邪馬台国、多分に永遠に場所の特定難しいのかな?

コメント
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