~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

音を並べるだけでも大変

2006年10月24日 18時26分11秒 | ピアノ
『月光 第1楽章』の和音と調性について分析してみたものを東京の師匠(厳密にいうと師匠のご主人)に送っていたのだが、それが速攻で返ってきた。

はい、もう完膚なきまでに直されました。
コメントには「(ベートーベンは)楽譜がわかってなければ、ただピアノの音を並べているだけ(の演奏)になってしまいます」といったことが書いてあって、続いて、こういったアナリーゼをやる際のポイントや書き方がいかになっていないか(ほんとに初歩的な指摘ばかりで、忘れていたといえばそんな気もするし、そもそも習ったことのないものもあるという気もする)を箇条書きにされていた。
そして、最後の方は力尽きたという感じで(笑)、「音楽は書くだけでは伝わらないこともあるので・・・ではこのへんで・・・お元気で」と終わっていた。

ハぁーーーー・・
とよくよく見てみてると、和音自体の勘違いはそんなになかった。
ただ、転調の取り違えは2箇所ほどあって、「おお、なるほど」と思ったことであった。それと、和音の転回形(いわゆる46の和音とか、6の和音とか)を書いてなかったことと、必要な部分の音程の展開や、バロック以来の一定の形式(これは知らないことであった)を記入していなかった。
う~ん・・・・
こんなものを見せられて、さぞお疲れになったことであろう。

そういえば、土曜日に練習会に来られた友人Sさんの楽譜は、丁寧に和音が分析してあり、倚音等の書き込みもしてあった。
私が毎日ほどブログを拝見しているアマチュアピアニスト(もはやアマチュアとは言いがたいが、ほかに生業をお持ちなので)のK氏は、まず楽譜の綿密な分析をされ(この方は音楽理論を先生について修めておられる)、そののちに練習されるようなのだが、K氏によるとブラームスの晩年の作品などは大変高度な内容なので、分析しないと理解が深まらない・・ということであった。

たとえば、技術的には『月光』などは子供でも弾けるわけなのだが、これがただ「音符」として並んでいるのと、ベートーベンの語法や意図に肉薄しての演奏ではどういった違いが出てくるのだろうか?
ただ「音符」として並べるだけでも、達者だとかそうでないとかはあると思うのだが、これは、聴き手によっても違いが出そうだ。「きれいな音だ」と思ってうっとり聴いてくれるのと「ただきれいなだけで、曲を全然理解してない」と思われるのとでは、ものすごく違う。
このあたりが「素人受け」と「玄人好み」の分かれるところだろうか?

もちろんコンクールでは審査員が聴くので「玄人好み」がいいに決まっているが、普通のコンサートだと同じ演奏が「ウケる」かどうかはわからない。
ただ、演奏の目的が「作曲者の意図を忠実に表現する」ということにあるのだとしたら、やはり(できれば)作曲家直筆の楽譜を分析し、その意図をきちんと表現できる技術を備え、なおかつ感動を聴衆と分かち合うべきなのだろう。


私にはまったく及ばない世界なので、ここまでのことは目指そうともまた目指せるとも思わないけれど、「ただ弾いてるだけ」の今の状況には少しプラスαしたいものだと思っている。