~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

アンチエイジングとはいうが

2007年02月28日 22時44分43秒 | 雑感
うちのパソコンがあぶない。
2月半ばくらいから、立ち上げると「きゅい~ん・・・うぃ~ん・・」と悲しげな声を出し、
おしまいにすると「ごごごご・・・」とお疲れな感じだ。
テレビの次の買い物は、おそらくこれと見た。

パソコンは持ち主に似るというが、このデスクトップを使っているのはほとんど私だ。
私も2月半ば以降あぶない。
コワレっぱなしだ。
その・・・音楽に反応してとかなんとかいう話ならまだ美しいが(でもないか)、
この前は出先で携帯がどこにあるかわからなくなり、友人にならしてもらったら
どこぞでブルブルいっているのだが、そのどこぞがわからず難儀した。
しかもそこで、その友人に書いてもらったメモも帰りにはなくしていた。

今日は今日で、あるクレジットカードを見失い、こういう方面にかけては一日の長の感のある(?)旦那に嫌疑をかけたなら、見事に私の持ち物のなかから出てきた。
・・・メモリー容量足りません・・・バグあります・・・・接続悪いです・・・

夜、子供と一緒にテレビを見ていたなら、
「先生には聞こえない着メロ」とかいうのをやっていた。
なんでも、高周波の音は若者にしか聞こえないので、先生にはわからないという。
そこで
 <10~20代>
 <~40代>
 <それ以上>
くらいにわけて耳年齢を調べる、という試みをしていた。
最初、1700Hzだったと思うが<10~20代>向けに音を流した。
うちの子は4歳と11歳なので、「うるさ~い!!」と騒いでいた。
「・・・・?????・・・・」
「お母さん、聞こえない?」
「いや、うるさくはないけど、ヒホー・ヒホー・・ていう小さい音がする」
「それそれ。ヒホーっていう音だよ。きこえてるじゃん」

聞こえてはいるけど、全然うるさいってレベルではないです。
スタジオでも実験やってましたけど、はっきり年齢で聞こえが分かれていた。
・・・こ、こんな非日常な音が若い衆は聞こえてるんか?さぞやうるさいであろう・・・
と少し同情した。

運動能力などは目に見えて落ちているので、自分でもよくわかるのだが、
感覚器も相当違ってきているのだろうと思う。
1700Hzなんてまあ聞く必要のないレベルの音だとは思うのだけれど、
それが聞こえると聞こえないでどう違うのだろうか?
私はぎりぎりでまだこれが聞こえているので、まったく違いがわからないというわけではないのだろうが、
いくら日常に無縁としてもこれらがまったく聞こえなくなるのもなにか寂しい気がする。

あなたの
<脳年齢> <肌年齢> <耳年齢>などなど
もし全部、検査したとして、果たしてその結果は?
知りたくもあり知りたくもなし。

ちっとはボケ防止になるか、指のトレーニングや暗譜・・・


舞台前の儀式

2007年02月27日 22時50分56秒 | 見る・読む
某音楽情報誌でこんな内容の記事(実際は1月5日の朝日新聞記事)を読んだ。

コバケンこと、指揮者の小林研一郎氏は、本番30分前、いつも素っ裸なのだそうだ。
これは、新しい空気に身体のすみずみまでさらす、舞台の前の儀式だということだ。
「精神を寝かせることが大切。燃えっぱなしだと、いざという時に燃えさかれない。舞台で存分に燃えるための下準備」

同じ記事の中に<まっさらの下着でみそぎ>ともあったので、やはりこれは舞台は神聖な場所であり、ご本人もおっしゃっているように「演奏とは祈りの連続」ということなのだと思う。

「演奏が祈り」などとは、私まだまだ、いや一生そんなことを言えるようなものではない俗物なのだが、気持ちはわかるような気がする。
いや、その・・・素っ裸というのは、やりたくてもやはりムリな気がするけれど、
演奏の場に入るにあたっては、やはり着ているものはチェンジしたいので、たいがいはたとえトイレででも着替えている。

ドレス・靴・靴下は必ず替えているけれど、そうか・・・下着が肝心なのか・・
そうすると、やっぱり素っ裸ということになりますなあ、必然的に。


ポップスセミナー その2

2007年02月26日 19時31分13秒 | レッスン&セミナー
さてそのあと、セロリ先生、私に
セロリ先生 「次の方を指名してください。お友達でもなんでも」
私     「えっ・・・ああ、どうしましょ・・(みなさん一斉に気を消しておられるし)」
セロリ先生 「だれも、ウラミませんから、どうぞ」
私     「いえ、でも私、先生ではないので、ここには知り合いがいなくて」
セロリ先生 「ああ、先生じゃないんですね・・・だからウマいんですね
・・・・・・・・・・・・セロリ先生・・・・・・・
セロリ先生 「知り合いいないのなら、なおのことだれでも・・・じゃこうしましょう。私がはしから番号ふりますから、好きな番号いってください」
私     「11」

というわけで、まああとはそこそこスムーズにいったのです。
先生方、当たり前ですが、ちゃんと弾けるしお上手なのです。
当てられる前に、手あげてほしい・・・・しくしく・・・・私なんか例のごとくスッピン&ボサボサで前に出たのに・・・・


その後はですね、
「ラテンは、強拍が前の拍を食う」
「ジャズは言ってみれば、サッカーのドリブルみたいなもの。ジグザグありフェイントあり。一方クラシックは障害物があってもまっすぐ走るハードル走みたいなもの。
ジャズの奏者は感性で弾いているようにみえても、実はハノンみたいな練習をするのであって、いつどこでも即座にアクセントを移せるよう日々トレーニングを欠かさない」
「ロックは、奏者の名人芸を楽しむというよりは、下手でもいいから一緒にドロドロになって音楽をつくっていく過程が大切。そういう過程があってシャウトも生きてくる」

等のジャンル別の説明、あとアレンジ譜を弾く場合の注意として
「編曲者の意図を見抜く。クラシックっぽいのかそうでないのか。原曲のテイストを生かすべきなのかそうでもないのか」
といったお話があった。

口調はほんとにフランクだし、進行もリズミカルで、あっという間の2時間だった。
また演奏家とは違った、オーラというか雰囲気があります。独特。
プロフィールを拝見すると、東京芸大作曲科卒というひれ伏すような学歴でいらっしゃるのだが、硬軟両面の表現も巧みで、なんだかトークショーを聴いていたような気分だった。

終わって、購入したアレンジ方法の本にサインをいただいた。
セロリ先生  「さっきはどうも♪楽器は何を?」
私      「はい、趣味でピアノを」
セロリ先生  「ピアノだけ?」
私      「時々、楽譜を書き散らしてみたり・・・」
セロリ先生  「それはいいですね、やってみてください。楽しいですよ」
私      「先生のご編曲にはいつもシビレテおります」
セロリ先生  「シビレないでくださいよお・・・・毒針バシバシなんだから

やはりシビレの原因は、毒針だったんですね。
やはりある種の「毒」は欠かせないです、私には(逃)

   


ポップスセミナー その1

2007年02月26日 19時13分52秒 | レッスン&セミナー
クラシック以外の音楽は「その他大勢」にしか聴こえない耳と頭を持つ私だが(殴)、本日某所に勉強にでかけた。それは
春畑セロリ先生によるピアノセミナー
「ポップス指導の裏ワザ・ノート」

↑に行くといったとき、旦那が言いました。
「そもそもそれを聞く基礎知識はあるのか?・・・わかるのか?・・・」

「知識が無いからこそ行くのではないかっ!」という乱暴かつ野蛮な考えの私、
結果的に行ってほんとによかったと思いました。

ちびっと遅刻をした私ですが、昨日遠目にステップ会場で「もしや春畑センセって女性?」と思っていたのですが、近くで拝見するとそれはもうまぎれもない女性で、なんで男性だと思い込んでいたのか自分でも不明です・・・
・・・先生すみません・・殴っていいです。

「今日この講座でいう<ポップス>とは、いわゆるクラシック以外のポピュラーミュージックのことで、普通もっと狭い意味でいう<ポップス>ではありません」と始まったこのセミナー、
だいたい大きく分けて3つのお話があった。
1.ポップスの歴史・世界地図
2.各国のポップスの特徴
3.実際のレッスンでの教材の弾き方・使い方

私にとっては、だいたい<1>のお話でもう目が点状態で、

「ほうほうラテンというのは、コロンブス以来の話なのね。
ラテンといっても地元民が皆殺しにされたキューバと、地元民が残ったブラジルとは違うのね。

ジャズというのはもともと黒人の音楽であるのは確かなのだけど、それを白人がパクり、さらに黒人が『ホンモノはそんなんじゃねえ』とさらに過激になり、
そういうことを繰り返しているうちに、白人が商魂たくましく『これが黒人のソウルだ』と、それまで差別の一環で黒人限定だったレーベルを市場に流通させたりしたのね。
その過程で、ジャズとひとくくりにできない音楽がいろいろ派生発展していったのね。

そして現在では、ラテンロック、フュージョンなどなど、融合やら派生によっていろいろなジャンルの音楽があるのね」


まさに読み書きそろばん状態。新鮮そのものでございました。
だいたいここにこられてる方々は指導者なので、
「先生がたは、各音楽が生まれた時の精神(スピリット)を生徒さんにザッとでいいので説明されるといいです」ということでした。


<2>はほんとに楽しかった。
自分ではとうてい収集できないような各国のポップス
パキスタン、インドネシア、ポルトガル、アルゼンチン、ドイツ、カンボジア
などなどの音源が紹介され、

「これはパキスタンの 北島三郎みたいな人です」
「これはインドネシアの 美空ひばりみたいな人」
「これは ポルトガルの 小林幸子みたいな人」
などと紹介され、しかもそれらがどうも日本の演歌に似ているぞということで、
「やっぱ、日本の魂って、演歌なの?」とおっしゃっていた。

モンゴルに近い、なんとかいう共和国の音源では、まさに「ホーミー?」という喉声が入っていて、まさにこれはこういうときでなければ聴くことのできないレアな音源で、
ポップスというより民族音楽の講義のようでもあった。

<3>では、まず、あるテキストのあるページの使い方を実際やってみることになった。
伴奏音源が市販されているらしいのだが、それと同じものをかけてまず指導者が練習してみましょう、というわけだ。
1曲目はほんとに簡単な曲で、いわゆる「8ビート」にのせてドレミファソを弾いてみるというもの。
途中で少しリズム変えはあるが、要するに8ビートにのれるかどうかということだ。
その曲をやる前に、セロリ先生が
「よくクラシックでは、フレーズをきれいに弾くということで
ど~れ~み~ふぁ~そおぉ~
ってきれいに弾きますよね。でもこれ、ビートという点ではすでに
<そおぉ~>って弾いた時点でずれてるんですよね」
とおっしゃったせいなのかどうなのか、
「どなたか弾きませんか」との声に一人も手があがらなかった。
たぶん3回以上言われたと思うのだが、どうにもあがらない。
・・・このままじゃ先へ行かないじゃないかっ!・・・と切れた私は手をあげましたよ。
ええ、指導者ではないですし、ハジもなにも、失うものもありません。

だってドレミファソだけでしょ?

たった1分かそこらと思いますけど、楽しかったですよ。
セロリ先生と見合って、ビートばしばし感じて。

終わってセロリ先生
今みたいに腰のあたりでビートを感じて弾くといいです。
日本人はタテノリは不得意なんです。レガートで弾くとタッチがちょっと違いますし・・。クラシックはアゴーギグといって息の大きな流れの中で弾くのが一般的なので奏法が違ってきます。
たとえば細かくなって16ビートになると、ピアノというのはアクションがありますから、自分の刻んでいるリズムと時差が生じる。鍵盤のどのあたりで弾くかでノリが違う。
ビートがきちんととれた上で、アゴーギグをかける。
練習はきちんとメトロノームをかけて行い、自分の思い込みでテンポをゆらさない。これができるようになったら、後打ちのメトロノームをかけてみる」

<つづく>


ピアノ デー

2007年02月25日 22時44分45秒 | ピアノ
今日は昼からずっとピアノ漬けで、もう音楽はいいよ・・・・というくらい堪能して帰ってきたのだが、これがまたN響アワーを見ていたりして、もういい加減にしなさいっ、という感じだ。

本日なにがあったかというと街中某所で、先日ブログに書いた若いピアニストさんのコンサートがあり、その前座というか前半プログラムでちょっと弾かせていただいた。

曲はリサイタルのリサイクルというか(逃)、「子供の情景」から9曲を弾いた。
ピアノもちょっと勝手が違ったし、前後の出演者もあることなので、今日はあまり集中できそうにないなあ・・と思っていたが、今日もある意味、やはりおかしかった。
どういうわけかこの曲、本番になると自分でも相当「ヘン」になる気配が濃厚になり、最後の2曲ではどうも感情失禁状態になってしまう。
いや、こういうことではいけないとほんとに反省するのだが、ダメだ。
シューマンが結婚以前に書いたこの曲、未来への青写真もあったかもしれないのだが、その生涯とか子供たちのその後を思うと(いや実際はそんなこと演奏中は考えもしない)、やはりちょっと複雑な思いを禁じえない。

そういう自分のことはともかくとして、若いピアニストさん、繊細なタッチと歌心あふれるモーツァルト&メンデルスゾーン、
深い音とぐっと胸せまる激情のリスト、
どちらも大変すばらしかった。ほんとに楚々としたお嬢さんなのだが、ちょっと別の一面も垣間見た気がした。
ピアノ仲間の3人も、それぞれが弾きこんだ曲を持ち寄り、ホールに集まったかたたちとの相互の交流を感じる、あたたかい演奏を披露した。

そのコンサートが終わったあと、
街中からバスで30分ほどの場所で行われるステップを聴きに行った。
サークルの仲間が3人でる予定だ。

会場内はアドバイザー以外は「ほぼ身内」な感じで、これなら髪が逆立つほどの緊張はしないかも、とちょっと思った。
それにしてもなのだが・・・ほんとに一人一人の演奏に感銘を受けた。
わざわざ自分のコンサートが終わってから駆けつけた甲斐があった。
ちょっとおおげさかもしれないが、これはもう涙ものだった。
もちろん私は最近、音楽を聴いてはすぐ「コワレル」傾向が顕著だが、
そのせいだけではなかったと思う。

結果、今日出演されたかたのほとんど一人一人に、感激のコメントを渡してしまった。

なかでも、サークルの3人は日頃を知っているせいもあるが、「よくここまで」とまるで親かなにかのようにしみじみした。
詳細はご本人に伝えてあるのだけれど、

「雨だれ」を弾いたK君・・・・・ほとんど独学でやってきたというのに、ほんとに「よくここまで」(泣)。
冒頭の美しい音、中間部のムリのない音量ゆえに一層胸にしみる激情、再現されたテーマのいっそうの美しさ&しみじみ、そして最後の雨上がりのつややかさと静けさ。
もちろんいろいろ考えての末だろうけど、低音の上にきっちり和声が構築され、すみずみまで音色に心が配られていたと思います。
でも、そういうことが、「計算」としてまったく現れず、自然な流れとして表現されたのはアッパレとしか言いようがないです。

「エチュード 10-1」と、冬ソナの中の1曲を弾いたHちゃん・・・・
実は10-1というのは、本番で大変なことになるケースが多いので、結構心配していたのです。
ですが、そんな心配は無用でした。この曲、私もかじったことあるから想像つきますが、たとえCDのようなテンポでないにしても、人前であれだけ弾くには並の練習では絶対ムリなはず。
こういう「大変な曲」から逃げていた自分を、深く反省いたしました。
2曲目は私よく知らないので、うまくいえませんが、歌を自然に、でも染みとおるように表現するHちゃんの真骨頂だったと思います。

それからギターとのアンサンブル「アランフェス」を演奏されたhiroさん、
感心したのは、音色がギターよりになっていたこと。
鍵盤からアクションを伝わって出た音というよりは、弦を鳴らして出る音のように感じました。
音色についてはブログなど拝見しても考えに考えておられたようなので、そのあたり工夫されての結果かと思いました。
コンビとしては長いようなので、そのへんの息はよくあっておられたし、テンポのとりかたが私としては大変好ましかったです。

最後には、現代曲を弾かれることで有名なS先生が三善晃作曲のソナタを弾かれた。
これが20分を超える曲で、この長さの現代曲を弾かれるだけでも驚きなのに、
私のような現代曲ちんぷんかんぷん人間でも、最後の音まで連れていかれた(驚)。
おそらく緻密な楽曲分析、多彩な音色、情緒など相俟ってのことだと思う。
やっぱり現代のピアノのために書かれた現代の曲をいちどは自分も弾いてみたいと思った。


という、一日で聴くには多すぎるほどの音を聴いた日だったが、すばらしく充実していた。
ただ、あまりにすばらしい演奏をたくさん聴くと「もう自分は聴く側で」とついつい思ってしまうのだが、よい演奏をよりよく聴くためにも、自分でも弾きつづけていかなければなあ・・・・・と気をとりなおして、また明日から練習だ。


ウラディーミル・フェルツマン その2

2007年02月25日 00時13分48秒 | ピアノ
ムジカノーヴァ 2005年8月号のインタビューにおいて、
フェルツマンは、<ピアノを弾く基本の姿勢>について次のように語っている。

「自然のまま、ありのままに体を使って演奏するということです。
自然な形で楽に座ったら、自分の重心が分かります。そうして手も自然な位置にあると全ての力が自然と指先を伝わってくる。
他の誇張した動き、体の使い方、座り方はナンセンスです。だから私は学生が来たらまず最初にすることがあります。
10人のうち9人は私のところに来た時には高い位置に座り過ぎています。
音楽について話を始める前に、どう座るか、どう座れば自分の重心を感じられるかを理解してもらうのに時間を費やします。身体的にしっくり心地良くない座り方からでは、音楽を作り出すことなど決してできはしないからです」


椅子の高さというのは、ピアニストによってほんとにそれぞれで、リヒテルやポゴレリチは大変高い位置にすわっているし、ホロヴィッツやグールドは相当低いと思われる。
椅子の高さというもの、体格が大きく関係あるようで、もちろん<椅子が高い>といえば体の小さな子供を思い出すのだけれど、リヒテルやポゴレリチは大男なのであって、それはなぜなのか・・とずっと考えていたのだが、たぶん、手や腕と鍵盤の位置関係もさることながら、脚の長さというものも大いに関係のあることで、椅子の座面よりも膝の方が高いようだとペダルの操作がしにくかったりするのではなかろうか、と思ったりもしている。

私自身も椅子の高さについてはもう毎日毎日考えたり試したりしているのだが、いまだに決定打はない。
ずっと以前は大変高くにすわっていて(普通の自在椅子で上から2~3目盛り)、和音の多い曲だとかフォルテの多い曲は楽なような気がしていたけれど、どうしても手首が高くなってしまうので、モーツァルトの音の細かい曲は動きも鈍くなるように感じたし、何よりも指先をわざわざ<上げなければ>ならないように思った。
なので、自分としては低めにすわっているつもりなのだが、これとて一番いい位置という自信があるわけではなくて、曲によって変えたりもしている。

単に「弾きやすい」ということであれば、それはもういろいろなバージョンがあっておかしくないが、フェルツマンのいうような
「どう座れば自分の重心を感じられるか」ということになると話は別だ。
だいたい自分の<重心>とはなんぞや・・ということになるわけであって、
う~ん・・・体重でもなければ中心でもないのよね・・・
でも確かに、重心をしっかりとらえておかなかったら、たとえば前傾して弾いたり、うしろにそったりした場合の体の戻りが不自然になるわけで、これは緊張してしまったりなんかするとますますロクでもないことになる。
だいたい私がステージで失敗した時というのは、両手の跳躍があったりしたときに、ヘンな位置に体が戻ってしまい、いわゆる<バランスをくずす>という状態になった時なのであって、おきあがりこぼしのように自然な位置に返れれば、起きなかったであろうミスだと思われる。
そういうことを考えると「たかが座り方、されど座り方」なのであって、たしかに<自分の重心>については一考を要すると思った。

ところで、フェルツマン自身は、テレビで見た限りでは、座ると割にさっさと弾き始めるタイプなのであって、もちろんリハーサルなどでしっかり確認してのことなのだろうけど、実は歩いている時ですら、自分の重心はわかっているのではなかろうか・・と思ったことであった。
私にはまったく心得はないことなのだが、これって武道とかそのあたりに通じることだったりするのではないのだろうか?

・・・というわけで、ただ楽しいだけといいたい楽器演奏も、ステージで没頭するためには一体どれだけの心得というか常日頃の精進がいるものなのだろうか・・・と思わずため息をついたことなのであった。

ウラディーミル・フェルツマン その1

2007年02月23日 13時10分17秒 | ピアノ
テレビを買い換えてまだ1週間たたないのだが、
私、まずマルティン・シュタットフェルトを見て半コワレになり、
昨日、ウラディミール・フェルツマンを見て完ぺきにコワレた。
まだまだコワレ中なので、ちゃんと書けるかわからないのだが、
まずはフェルツマンについてのあれこれを。

フェルツマンについては、友人から以前のTV放映の感想をきいていたし、
2005年の来日時の記事をいろいろ読み、いちおう予備知識はあった。

1952年モスクワに生まれる。
父親は高名なポップスの作曲家。ピアノは母親に手ほどきを受ける。
6歳で音楽学校入学。その後モスクワ音楽院へ。
1971年のロン=ティボーでグランプリ。
1979年にイスラエルへの移住を申請したところ、国内外での活動を制限され、それは8年に及ぶ。
1987年にアメリカへ移住。冷戦の犠牲者として一躍時の人ととなる。
2005年、13年ぶりに来日。

今回ハイビジョンで放映されたのは、この2005年4月のリサイタルであり、
プログラムはバッハのパルティータの2番(実際の演奏会では1番も弾かれた)とショパンのバラード1~4番。

バッハについては後述するが、私が仰天したのはショパンのバラード1~4番。

1~4番は間に拍手も入れず(というより許さず)続けて弾かれたのだが、
4曲はひとつづきのものとして表現され(ていたように思う)、それぞれのキャラクターを明確に描きつつも、4番へ向けてぐっと表現が深まっていき、
4番が終わったころは弾き手も聴き手も別の次元に入ってしまうかのような、これまで味わったことのないような演奏だった。

私自身はそこまでショパンに親和性はないし、「これがショパンの弾き方だ」といわれると抵抗を覚えるのだが、そういう次元ではなくて「これは音楽である。・・・作曲者は・・・F・ショパンという人」というような、本質的なものにいきなり直面した気がした。

彼は以前インタビューでこう語っている。(ムジカノーヴァ 2005・8)
長くなるがそのまま引用する。

「音楽というのは美しさの表現の一つです。例えばここにライトがあります。その光に色はありません。それが何か表面に当たった時、さまざまな色に反射するのです。反射させる表面が違えば、現れ出る色も違ってくる。赤、青、黄、全ての色のスペクトルになるわけです。
どの作曲家も同じ光、つまり同じ美しさを違う方法で表現しているのです。音楽の根源は一つです。それぞれがどのようにアピールするか、どのように表現するかで各々の美しさや、色合いが変わってくるのだと考えています」


<美しさ>ということに関連して、同インタビューでこうも言っている。

「・・・・音の質というのは、‘自分はどういう人間なのか’を表現するものです。自分の中に美しさの定義を持っていなければ、美しい演奏をすること、美しい音を出すことはできないのです。
ここが多くの学生たちを悩ませていることだと思います。彼らは私や他の先生方のテクニックを真似して盗もうとします。大変好奇心旺盛です。しかしそれは無駄なことで、テクニックを真似して、盗むことは不可能なことです。
なぜならば、テクニックとはその人の表面にただ存在しているのではなく、自分というものを表現しているもの(自分が現れ出ているもの)だからです。
そして表現するテクニックを身につけたとき、同時に自分が成長しているということになるのです。・・・」

すべてが「根源」に関わる話になるのだが、たしかに演奏もそういう気がする。
とはいっても、決して頭脳的な印象はなく、演奏中は完全に解放されて、表情からなにからすべて音楽と化してしまっているところが、フェルツマンの演奏の限りない魅力でもある。

次に彼のもっとも重要なレパートリーともいえるバッハについて。
これに関しては私はうまく語る言葉を持たないので、同じくインタビュー記事より。

「バッハの芸術派頂点です。音楽だけでなく西洋文化の頂点です。
バッハは自然や人間の普遍の法則を表現したのです。大変力強く、はっきりとしたクリアな方法で。・・・」


同インタビュー記事には、演奏時の体の使いかた(椅子の高さ等)、師の意味、についても書かれているのだが、これについては、また明日。


フリョウサイゲロウ

2007年02月22日 11時18分54秒 | 家族・友人等
昨夜、なにかの話題中で主人が
「良妻賢母」という言葉を口にした。

すると、息子が
「えっ、その?ふりょうさいけんぼって何?」と。

それは、
不良妻賢母のことかっ?
不良妻兼母のことかっ?


どっちにしても、妻としては不良なのだな・・・・はァ・・・私のことです・・

と思っていたならば、息子
「それって不良債権が載ってるなんか(帳簿のことか?)のこと?」

知るかっ!・・ああびっくりした・・
ちなみに息子は「良妻賢母」という言葉はまったく知らなかった。
それはそうでつね・・・うちのどこを探したってそんな言葉は出てきやしません。
辞書にも載ってないかも


そうそう息子ですが、この前リサイタルの後片付けをしながら
「ねえお母さん、このガイロウって何?」

それはウイロウといってですね、私が開場直前に食べたものです。
・・・がしかし・・なぜ外郎を買っていったのか・・
自分でもナゾです。
でも、悪くなかったです。モチっぽいし、糖分あるし、手軽だし。

考えてみれば、
外郎ゲロウとかガイロウと読む方が普通ですよね。
なぜウイロウ??

音楽のひと

2007年02月21日 18時26分57秒 | ピアノ
本日某所で、練習会をした。
日曜に街中の小さなホールでコンサートをやるのだが、メンバーはその5人。

このコンサートのメインは、おととし音大を出られた若いピアニストさんで、
モーツァルトやリストなどを弾かれる予定。大変楽しみだ。

さて、ひとりひとりに割り当てられた時間は30分。
その若いピアニストさんがアドバイスをしてくださるということだったので、
さてどうやって有効にこの時間を使おうかと考えた。
モーツァルトが大変すばらしい方だときいていたので、今オケパート練習中の
20番コンチェルトのさわりだけでも聴いてもらおうと思っていた。
だが、ここ数日で12日の録音をチェックしてみたところ、今度の日曜に弾くシューマン「子供の情景」のなかの3拍子の曲3曲が微妙にハマってないことが気になってきた。
そうだ・・この件についてもきいてみよう・・・

初めてきいてもらったということもあるけれど、彼女の資質も大きいだろう、とても新鮮だった。
ほ~   と感心。
またこれが声がきれいで、歌ってフレーズ作りを説明してくれるのだけれど、
実によくわかる。

それをききながら思ったこと・・・私は楽譜のタテの線に気をとられすぎてました。
シューマンがすばらしい対位法の使い手だということをうっかり失念していた・・・、リズムが激しく刻まれているようにみえても、実は独立したいくつかの旋律や持続するリズムが束ねられているのだということ。
アウフタクトはアップボウのように考えると入りやすいように思えたし、小節線のあとでは、少しスラー気味に歌うと拍がしっかりするところもある

・・・といったようなことを、言葉でというより、歌ってくれたのだが、これだけのことがいきなりみえたというのはオドロキだ。

モーツァルトはほんとにちょっとの時間しかなくて残念だったが、
拍感、特に、シンコペーションによって全体が引き締まっているというのだということを具体的箇所で示してくれて、
それを意識することによって、自分の中で3楽章までのある種の統一感が、これまたみえた気がした。

あたり前といえばあたり前なのだが、
彼女は「音楽の世界」の住人なのだった。
この前、喫茶店で隣あってお茶を飲んでいるときには感じなかったものをビシビシと感じた。
私のなかでは、<音楽のプロ>というのは、常に種火がついている状態で即音楽に反応して火を大きくできる人種であり、またそういう形で音楽の神様に献身している方々のことを指すのだけれど、そのような意味において彼女もまたまぎれもない<プロ>なのだと思った。

今日はそれ以外には練習をしないという困った日ではあったが、
ただ弾きつづけるだけでは、やっぱりというかまったくダメなのよね・・・
と心底思った日でもあった。一人での分析や練習には所詮限界があります。
ただいまモード切替時間中


舞台はナマモノ・マモノ

2007年02月20日 18時49分45秒 | ピアノ
テレビを買い換えてから何が忙しいって、クラシック番組視聴ですよ、もう。
以前は衛星第2での放送が多かったように記憶しているのですが、
ここのところ番組表をみても、とにかくハイビジョンさまさまで、
自分のHPトップで番組紹介をしているのに、友人に録画してもらって見るなんて何事か(しかもハイビジョンの録画はいろいろ制限がある)と思って、ついに決断。
元々テレビの嫌いな人間の存在しない我が家においては、こういった話は私がGOを出しさえすればトントンと進み、いつのまにか、アナウンサーの毛穴まで見えるような大画面がリビングに鎮座マシマシ・・という状況になりました。

そしてその記念すべきハイビジョンクラシック放送録画の一発目が、昨日のルイサダリサイタル。
朝6時からの放送だったので、昼ごろゆっくり録画で見たのですが、びっくりしましたよ。
まったく同じプログラム(厳密にいうと前半プログラムにあたる)を地元の区民文化センター前から4列目で聴きましたけど、
ルイサダ・・・ピアノにぶつかりもしなければ、「ハイドン弾きま~す♪」みたいなしゃべりもない。(もちろん編集されている可能性大だけれど、雰囲気的にそんなそぶりがない)
たしかにべートーベンの「悲愴」(←お願いだから曲目を「悲そう」とひらがなにするのはやめてくださらんか?・・・某公共放送殿)の前にハイドンを弾いたことは弾いたのだが、
「悲愴」はきわめてスタンダード。実演で驚きすぎて慣れてしまったせいかしら・・ともう一回聴いたけれど、どうしても逆に実演でいったい何にびっくりしたのか思い出せない。
汗はだらだらかいているけれど、アクションもそんなに大きくないし、
「こんな『悲愴』なら先生にもほめられる」と思えた(殴)。
もしですよ、私のブログとか読んでて、聴かれた人は「????」と思われたに違いないと思って、一緒に聴きにいった友人に「ねえ、見た?」とメールしたところ
「そうそう、なんか普通?私もびっくりしました」といった内容のお返事。
だよねえ・・・いやそれはですね、ライブは一回一回違うのはわかるし、同じように弾きたいとは思わないと思うのですよ、ライブを大切にする演奏家なら。
でも、これはいったい・・
客を見て「じゃ今日は、びっくりバージョンいってみよーか!」とでも思って弾いたのではないですかね・・この地においては

続くショパンの3番のソナタも「なるほどなるほどショパンコンクールの入賞者ですね!」って感じで、もちろん多少は内声の強調もありはしましたが、
某区民文化センターでとなったような趣はナリをひそめていたように思います。

ほんとにどんな弾き方もできるんですね・・・一流のピアニストって。
小菅優さんが
「ステージでは非常にフレッシュな気持ちになるので、今まで弾いたことのないような弾き方を思いついちゃうんです。そしてそれをやってしまう」
といったようなことをおっしゃっていましたけど、もしそうだとしたらですよ、
ルイサダがこれらの曲をおもにどういった弾き方をするのかは知りませけど、もしかしたら、某区民文化センターでは
「めっちゃフレッシュ~!」な気持ちで、あんなこともこんなことも思いついたりやってみたとしたら、これは我々はもの凄い現場を見てしまったわけですね(爆)。

こうしてネットでいろんな情報が入ってくるようになると、各地から「こう弾いたよ」みたいな報告もきけるわけなのですが、
やはり聴いてる人間が固定されてないので、比較はなかなか難しい。
・・・できれば・・・
場所場所で弾き方のかわるようなアーチストに密着取材して、「列島各地でこう弾いた!」的番組があると、もうたまりません。

でもその気になれば・・・ネット画像配信あたりで簡単に見られそうな気もしますね、このご時世(逃)。

ちなみに明後日(22日です・・・さっき間違って明日って書いてました)は、ウラディーミル・フェルツマンの放送があるので期待してます。