~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

ヘンな思い出

2010年11月30日 23時31分15秒 | 雑感
せんだっては「ヘンなおばさん!」と幼児にビシッ~っと指さされた話を書きました。
それとはちょっと違うし、もっと妙な話なのですが、思い出したことがあるので書いてみます。


あれは、たぶん、大学の2年か3年の頃のことです。
北関東の「キツネ」の伝説のある観光地を友人と旅しておりました。
1月だったかな?かなり寒い時期で、バスに乗ってどんどんと山の奥というか上の方へ登って行く途中・・・・
「・・・そ、そだちも悪いくせに・・・・」
なんかそんな声が聞こえました。私は椅子には座れず、窓の方を向いて立っていました。
「・・・そ、そだちも悪いくせに・・・・」
誰かがひそひそとおしゃべりしてるのかと思ったのですけど、どうもあまりにもはっきりしていて、しかもごく近くから声がします。
「・・・そ、そだちも悪いくせに・・・・」
ふっと視線を落とすと私の目の前の座席(前を向いて並んでいる普通のバスの座席です)の女性がこちらを見ているわけです。目が合った瞬間・・・
「・・・そ、そだちも悪いくせに・・・・」
・・・え?私ですか?私に向かって言っている?・・・・・
そうなんです。私を見上げて言っているのでした。かなり若い子連れの女性。
なにか腕が当たったとかそういうことないんですよ。目があったのもそのときが始めて。
なにをもって「育ちが悪い」と連呼されているのかワケがわからないわけです。
そりゃ「育ちがいい」覚えもないですけど、見ず知らずの方にガンつけられて「育ちが悪い」と連呼される覚えもありません。

そのうちその方の後ろの席が空き、よせばいいのに私そこに友人と一緒にすわったわけです。
そしたらですね・・・真後ろに向き直って、かぶりつきでずっと唱えるわけです。
「・・・そ、そだちも悪いくせに・・・・」
参りましたねえ。これがまた悪いことに終点まで私たちもその女性も行くことになっていたようで、バスが終点で止まってもまだ「唱えながら、待って」おられるわけです。
幸いというか、友人が機転をきかせてくれて「ああ・・・・お財布がない~」とかなんとか大騒ぎで演技してくれたおかげで、あきらめて先に降りてくれたようでしたが・・・。

あれはなんだったんですかね?キツネの化身?
友人いわく「そんなマダムみたいな帽子かぶっていたからじゃないの?」
う~ん、どんなカッコしていたのか今となっては思い出すこともできませんが、
なにか彼女の神経を逆なでするものを醸していたのかもしれません。


指されなくて・・じゃない、刺されなくてよかったです(笑)。





ヴィヴァルディ チェロソナタ第5番

2010年11月30日 23時08分31秒 | 室内楽
自分の勉強のため・・・・ですが、なかなかシブイ曲です。
動画には7~9歳の子どもが弾いてるものがいくつかありますが、ちゃんとリピートをやってある「これぞバロック」で大人がちゃんと演奏しているものは、すごくカッコいいです。
う~ん、これをチェンバロだけで伴奏するのはなかなか大変そう。。。
リピートしたときの伴奏型の変化を学びたいです。
(というより、この絵がちょっとこわい・・)




一息ついてました

2010年11月29日 22時36分09秒 | ピアノ
「ベートーヴェンを弾く会」からもう一週間たつのかと思うと、ちょっとびっくりします。

びっくりする理由のひとつ・・・・この間、練習していない(殴)。

まったく触っていないということではないのです。
教えるあり、合わせあり、キーボードを使って練習あり(チェンバロ用)、なぜかホールでスタインウェイ弾くあり(笑)、・・・鍵盤に触ってはいますが練習はしてません。
仕事のある社会人ならそんなものでしょうけど、私の場合仕事はしておらず、集中すれば1週間で短い曲なら仕上げることもあるわけで、練習しなければこんなに一日が長いのか・・と思わないでもないです。

弾かないだけで、譜読みはやっているわけですけど(茶碗洗いながらとか、掃除しながらとか)、それでも一日けっこう長いです(爆)。


譜読み大量にあります・・・難易度はいろいろですけど。

チェンバロ用2曲、
2台用11曲、
五重奏1曲、
あと短い易しい伴奏曲もいくつか。

やっぱり五重奏(全楽章)が大変ですねえ~~来年の夏の予定でまったくの新曲なんですが、間に合うかなあ。


ピアノと邦楽器と詩と

2010年11月28日 12時57分44秒 | その他音楽
昨晩は、大変楽しみにしていた演奏会に行ってまいりました。
第1回目が7月に行われた、Group-4の第2回目の公演。
Group-4は、「雅楽」「長唄三味線」「生田流筝」「ピアノ」という、ジャンルの違う若い4人の演奏家(みなさん東京藝術大学卒業)の集まりで、ある意味無謀とも思われる(笑)、意欲的なコンサートを全4回の予定で行っておられます。

プログラム(西区民文化センタースタジオ)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「月の光は音もなし・・・・・・(中原中也)」


第一部/古典音楽の深み
1.「霧」前奏曲第二集より/ドビュッシー・・・・・・ピアノ
2.太食調調子(たいしきちょう ちょうし)・・・・・篳篥
3.松の緑/杵屋六翁・・・・・・・・・・・・・・・・三味線
4.中空砧(なかぞらきぬた)/宮城道雄・・・・・・・生田流箏
5.壱越調 胡飲酒破 残楽・・・・・・・・・・・・・篳篥&笙&筝 
6.「花火」前奏曲第二集より/ドビュッシー・・・・・・ピアノ

第二部/トークコーナー「音楽の深さと広がりについて」

第三部/近代詩との対話の試み「月の光は音もなし・・・」~Group-4による、中原中也の詩の音響世界~
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こういう演奏会に行くと、一時期ハマッていた和の世界に戻りたくなるのでいけません(笑)。
学生のある頃、西洋のものに興味が薄れ、茶道・日舞・着付け・箏と広く浅くかじりまくり、テンポを「1・2・3・4」と取るものから遠ざかっておりました。
昨日は、最前列で聴かせていただいたということもあり、「三味線やりたい・・・」と半ば本気で思いました。最終的には自分は弦を弾く(ハジク)楽器、和のものだと箏や三味線、西洋のものだとチェンバロに落ち着くのではないでしょうか。爪はじき系ですね(笑)。

今回特に興味深く聴かせていただいのは雅楽。
「太食調調子」というのは、一種現代曲のようにも聴こえるのですけど(無拍でフリーリズム)、
西洋の音楽でいうところのカノン風の曲で、二本の篳篥が追っかけていきます。
カノンに似た奏法には「退吹(おめりぶき)」というものと「追吹(おいぶき)」というものがあり、「追吹」のほうは、カノンのようにわりにきちんとずらして吹くそうなのですが、「退吹」のほうは、第二奏者以降の遅れ方に決まりはなく、ただ前の奏者を追い越さないように間隔を持って演奏するのだそうです。
音の残響感、こだまのようなものを表現しているのだとか。
「退る(おめる)」というのは、十二単の袖がちょっとずつずれて色が見えている~、そういうことを表す言葉なのだそうです。

「壱越調 胡飲酒破 残楽」のほうは、筝のずっと続く同音型の伴奏の上に、篳篥と笙がある節を奏でるものなのですが、延延とこの同じ感じでいくのかなあ・・と思っているところで、篳篥がふっふっと途切れる。そして筝が聴こえる。
ところどころ篳篥が無音になるところでも、聴き手の頭の中では旋律が流れ、それこそ「こだま」っぽい効果があるわけですが、こういう遊び心が感じられるのが残楽(のこりがく)の魅力なのだそうです。


そういう、「残楽」っぽい感じというものは、ドビュッシーの2曲でも随所にみられ、
このプログラムに前奏曲第二集から「霧」「花火」の2曲を選んでこられたピアニストのMさん、素敵な選曲と演奏・・と思いました。

最後の中原中也の詩にインスピレーションを得て4人で作られた曲は、最後のほう、ピアノ~笙~三味線~箏(・・ちょっと順番違うかもしれませんが)と音が重なっていくところなどは、ぞくぞくっとこれまで味わったことのない感覚が呼び覚まされた気がいたしました。


第3回公演は2011年5月3日、東区民センタースタジオだそうです、



感覚

2010年11月27日 00時08分29秒 | 雑感
昨日でしたか、友人に
「仮装さんは『霊感があるんですか?』ときかれました。
『霊感』の定義にもよりますけど、「ムシの知らせ」的なものが的中することはたまにあります。・・・が、それもある時期に偏っており、さっぱりなときはさっぱりなのが現実です。

感覚的なもので、自分はヘンなんじゃないか・・・と思ったことはあります。
「アタマ」や「ココロ」が、ではなくて、あくまでも「感覚」です。
そういうもののひとつについて、高校の時に書いた作文(全体は「響きあうもの」という詩論、というか文学論モドキ)があるので、一部を抜粋してみます。

「・・・しばらく前、わたしはある奇妙な映像に憑かれていた。ただ一人、何を見るともなくぼんやりしていた時、確かな像ではないが、視界の端から氷の破片のようなものがつうつうと中央に寄ってきた。初めばらばらであったそれらが、六角形の雪の結晶のような形にきらめくのである。透けるような赤みがかったオパール色と青みがかったオパール色とが、交互に息でもしているかのように色を変える。その像はしばらくの間、音の聞こえないテレビのようなもどかしさを伴っていた。ところが、次第にその交互の色の変化は、不協和音の交互の響き合いとして感じられてきた。
 その響きは笙の音であった。頭上高いところから、光具合を微妙に変えながら鳴り降りてくるような笙の音の要素が、氷の破片という視覚的要素に変換して現れたのであろう。・・・・・」

・・・いやあ、キテますね。
芥川の「歯車」じゃあるまいに、幻覚モード全開でアブナイです(汗)。
この文章のなかでは、こういう感覚(視覚と聴覚があいまいな感じのもの)を「錯覚」ととりあえず名づけて論を進めているわけですが、感覚の境界のあいまいな感じというのは実際にもいろいろ出現し、いったいこれはなんなんだろう・・というのは長い間のナゾであったわけです。
たとえば、
ある音を聴いて香りがするとか、
ある音を聴いて色を感じるとか、
誰でも多少はあることでしょうし、よくたとえにも使われるわけですけど(「黄色い声」など)、こういうことは「頭がおかしくなくてもあることなのだろうか?」と考えていました。
「共感覚」という言葉を知ったのは、もう25歳もとっくにすぎた頃。
なんかやっと楽になりましたね。そういうことが存在するんだ~とわかってほっとしました。なぜその年まで知らなかったのかも不思議なのですけど。

私の場合は、「この音は赤」「あの音は青」、などと決まっているわけではありませんし、数字に色がついて見えるわけでもないので、厳密には「共感覚者」ではないと思うのですけど、
なにか演奏を聴いたとき、音でなくて香りで記憶していることがたま~にあります。
もしかすると乳児期から感覚が未分化なのかもしれず・・・・・(汗)。

そもそも他人の感覚なんて所詮わかるものではないので、
「あの文章は〇〇の味がして美味しかった」とか、
「あの音はアンモニアのにおいがした」などと、比喩でなくほんとに感じている人がいるかもしれないですね(笑)。そんなものかも。


で、なんでしたっけ?霊感ね。
あってもなくてもいいような、悪いような・・・。

発表会・・・・みたいな練習会

2010年11月26日 20時12分13秒 | ピアノ
「お母さん、遊んでるだけ???」シリーズ第2弾です。

本日は午後から、知人の練習会(?)に乱入してまいりました。
知人といっても、つい最近ピアノを通しての交流が始まった、同じ校区の3人の主婦の方がたです。
ちょっと前に「11月26日に某公共の施設で練習会をやるんです」ということをきいたんですけど、そこは私がステージにいまだかつて立ち入ったことのない場所で(旧K生N金会館です)、昨夜はエルバシャがスタインウェイを弾いたというなんとももったいないところ。

そんなところが1時間2千円で借りられて、しかも2台もやる??・・・ぜひぜひ後学のためにも見学させてもらえませんか?と申し入れました。
そうしたら快諾していただけたので、楽しみにしておりました。
2日くらい前になって、どうも「発表会みたいな感じで、お客さんも10人少し入ります。仮装さんもプログラムの最後に<ゲスト演奏>ということでのせてます」という話になり、
「ええっ?・それマジ?」と思いつつ、応援をKやんに頼んで一緒に行ってまいりました。

行ってみたら、ホールのスタッフがそれはそれは丁寧に、あたかも依頼したアーチストかなにかのように扱ってくださるわけです。
「こちらからお入りになれます、どうぞ」「ピアノの位置はどこにしますか?」「二台の向きは?」などなど。びっくりしました。
マイクも貸してくださいましたし、「客席もどうぞご自由に。お客様は何名ですか?いらしたらこちらからご案内いたしますので」とも言ってくださる。帰りには担当の方のお名刺までいただきました(驚)。

で、めちゃくちゃ気楽に考えていたら、客席になぜかPTAの知り合いとか見えてるし、あとの3人はちょっとフォーマルな服装だし、どうしましょう?と思いましたけど、今さらどうしようもないですから(笑)。

タイトルは「発表会・・みたいな練習会」。
プログラムは、それぞれのお宅のお庭でとれた紅葉を押し葉にしてカラーコピーで製作。素敵です。
3人で約3時間(うち30分はリハーサル)を使うので、毎回違う曲を弾く人もあれば、同じ曲を5回弾く人もある。でも練習ではなく本番。毎回お辞儀して毎回拍手もらいます。
圧巻だったのは、Mさんの弾き歌い。話す声もいい方だし、ピアノ演奏は(1年前にレッスンを受け始められました)リズム感が大変よく、自然なフレーズ感で、いわゆる「センス」の素晴らしさを感じるものなので、それなりに期待していたのですけど、予想を上回る歌の上手さでした。
10年くらい前までバンドのボーカルや弾き歌いはされていたようですが、それでもまったく10年はブランクがあったそうです。来月某所での30分ライブを依頼されたとのことで、その予行演習をかねて、シルバーのかつらで懐かしの某ガイタレさんに扮してのライブ。
トークもさることながら、失敗してもそれで必ず笑いを取りにいくというエンターティナーぶり・・・いやもう恐れ入りました。すばらしい!

ピアノは昨日の今日ですので、よく調律されていてとても気分よく弾けました。
また、向いあわせの2台ピアノも久しぶりにやってみて、なかなかこれは難しいということがよくわかりましたので、乱入させていただけて、ありがたかったです。
(・・・ゲスト演奏などというものではなかったですけど・・・汗)


みなさん、お忙しいなか、今の生活で可能な精一杯の練習をされていて、頭が下がりました。
なんといいますか、・・・たとえば、部屋のすみっこに存在する「いい空気」をこっそりストローで吸うような・・・、家族の視線を気にしいしい、でも少しずつ吸って生きるための糧にしている・・・というような「ピアノ」を感じました。

これからも、こうやってたまに精一杯広いところで思いっきり弾いてくださるといいなあ・・と思います。
また乱入いたしますから(笑)。




エル=バシャのベートーヴェンコンチェルト第4番

2010年11月25日 23時49分03秒 | 交響曲・管弦楽曲等
本日、朝・昼・晩とお出かけ(殴)。・・・娘いわく「お母さん、遊んでるだけ???」


午前から昼すぎは友人宅で2台の練習。
なんとこの友人宅、グランドピアノ&電子ピアノ&電子オルガンが一部屋に入っており、
まるで、楽器店のショールーム(笑)。
コンチェルトのオケパートを弾くには、電子ピアノのストリングスの音色などはわりに便利で、長い音などは生のピアノより盛り上がっていいかもしれません。
練習時間よりもちろんしゃべっている時間の方がはるかに長く・・・・(汗)


2時過ぎにいったんうちに戻り、別の友人宅へ娘とGO。
猫ちゃんのいるお宅なので、娘がそれはそれは喜んで(笑)。
ここのお宅にもグランドピアノありますので、ここでもしばし弾かせていただきました。
幸せでございます。


またうちに戻り、晩御飯の用意をして夜のコンサートへ。
シベリウスのシンフォニーとベートーヴェンのピアノコンチェルトがあったのですが、コンチェルトについて。
ソリストはアブデル・ラーマン・エル=バシャ。
この名前を友人を通して知ったのは3~4年ほど前だったでしょうか?
そののちテレビでリサイタルを聴きびっくりし、
大野和士氏指揮&モネシンフォニーオーケストラとのプロコフィエフのピアノコンチェルト集を買って繰り返し聴いておりました。
凄くクリアな音質で知的に構成されたコンチェルトという感じで、私はかなりハマリました。

で、待ちに待ったライブでありまして、しかもベートーヴェンのコンチェルトの中では一番好きな4番を、あの透明感のある鉱物きらめくような音で聴けるのかと思うと期待は高まる一方。
(さっきから書きながら『プロコフィエフのコンチェルトなんか聴くことあるんだ~』とか『ベートーヴェンでは4番が好きなの?3番とか5番でなくて?』と誰かが言っているような気がしてならないんですが・・・誰も言ってませんか・・失礼しました)。

素晴らしかったです。
思ったよりもずっと背が高く、聖職者というか修行僧のような雰囲気すらあり、
姿勢正しく、動作にまったく無駄がない。表現もややストイックな感じ。
音は硬質でクリアではありますが、別に冷たいわけではなく、澄んだ水をのぞきこむような、鉱物の中を光が通るような気さえします。
特にしびれたのは、フレーズの終わりの表現で、subito pp(いきなりのpp)、休符、おさめる、はじける、つなげる、などなどが実に美しい音で表され、雄弁であること。
書道の「トメ・ハネ・ハライ」の先の先の筆の一筋にまで心が行き渡っているような感じとでもいいましょうか(もっとも「透明感あふれて」いるので、墨での喩えはちょっと変なんですけど)。
第1楽章のカデンツアは自作だったとのことですが、演奏者が前に出すぎることなく、ベートーヴェンのこの作品を演奏している流れのなかで自然に生まれた感じで、なんの違和感もなく聴けました。
2楽章のオケとのやりとりや間もよかった~と思っているうちに、第3楽章に入り、派手ではないけど、美しく躍動感あふれるロンドが非常に心地良く・・・。
拍手すごかったです。何回カーテンコールがあったかわからないくらい。
アンコールはベートーヴェンの「バガテル第3番」、とショパンの「ノクターン遺作嬰ハ短調」。


先日のH先生の「ハンマークラヴィア」といい、今日のエル=バシャ氏の4番コンチェルトといい、
演奏者のお姿もすっきりとした凛々しいものですが、演奏もそれに違わず、筋の通った、いや意思や光の道筋さえも見えるようなものでした。

・・・・感動・・・


第3回 ベートーヴェンを弾く会

2010年11月24日 10時31分55秒 | ピアノ
「第3回 ベートーヴェンを弾く会」無事終了いたしました。

昨年、一昨年とビル内のスタジオであったのですが、第3回目ということもあり、少し外へ出てみようということで場所をスタッフとともに探し、とある教会で行うことになりました。
広さもほどよく採光もいい、素敵な空間でした。
クリスチャンでない私ですけど、さすがに十字架の真前で演奏をするというのはあまりに畏れ多く・・・・ちょっとどうしようかと思いましたが・・・。

プログラムには少し変更があり、以下のようになりました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<第1部 12:00~13:55>
第17番、第1番、第2番、第6番、第10番、第12番

<第2部 14:05~15:25>
第15番、第21番、第23番、第24番

<第3部 15:35~16:40>
第29番、第30番
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


弾くのもですけど、聴くほうにも気力・体力の要る会であります。
今回は40分を超える大曲、第29番ハンマークラヴィアがH先生により演奏されたこともあり、さらに充実した会となりました。

ふだん私が演奏する場(コンクールとか発表会など)では、私はだいたい上から何番目の年齢(どうかすると一番上)なのですけど、この会では、真ん中くらいに位置しておりまして、トシだとかなんとか言うことは通用いたしません(泣)。
今回も、古希を越えておられる方が全楽章暗譜で大曲を弾かれましたし、
またH先生は「私はこれから晩年を生きますから」(←まだそのようなお年ではないのですが)とおっしゃりつつ、圧倒的でありまた神々しいハンマークラヴィアを弾かれました。
自分自身の人生や思慮の浅さを痛感させられ、でも一方で大きな力をいただき、「来年もがんばろう!」と会場をあとにするのが毎年の慣わしになっています。


この会は暗譜は必須ではないので、私も「どうしようか・・」と思わないでもないのですけど、一年に一曲くらいは新しい曲を暗譜でやろう(・・いささか低い次元の話で申し訳ないです・・)ということで、新曲のソナタを暗譜で用意するようにしています。
期間は一年はあるわけなので、簡単なことのようですけど、実際はそうでもなく、
「まず全体がどんな曲かを把握し」「楽章ごとのキャラクターをつかみ」「各楽章ごとの練習を積み」「いろいろな音源を聴き比べて、細かいところの違いをチェックしなおし」「全体を通しで暗譜で弾けるようにし」「全体のまとまりや流れを考えた演奏にし」「それが自然なものであるレベルにもっていく」
ということをやっているといつもギリギリや時間切れ(?)になってしまいます。
今回もいちおう計画はあったのですけど、自分の力だけではやはり進まないところがあり、ポイントポイントで、師事している先生やH先生に助けていただき、なんとか本番にたどりつくことができました。本当に感謝しています。

私の弾いた第2番はそう複雑な曲ではないのですが(和声的にも)、やっぱり24分ほどの曲を弾くというのは私にとってはかなり大変なことで、今回も本番、一楽章の途中で一瞬頭の中の楽譜が途切れ、「あれもしや提示部に戻った?」みたいになったのですけど(汗)、耳と手が自動演奏してくれて、問題は発生しませんでした。・・・・暗譜はやっぱりコワイです。ですが、やらないとできなくなるし・・・。
第4楽章ロンドは似たようなものが延々ぐるぐる出てくる暗譜の敵のような楽章ですが、万が一ヘンなところに戻ってしまってもなんとか先を続けられる「つなぎ」を考えておきました(爆)。それは使わずに済みましたが・・。
でもまあ、想像もつかないような和音や転調は出てこない曲なので、そうバクバクせずに弾けたわけではありますが、これが後期のソナタになるとどうなっちゃうのかな~と思います。


それにしても「ハンマークラヴィア」ってすごい曲ですね。
私は全楽章ちゃんと聴いたのは実は初めてだったのですけど、第九交響曲を聴いた時のような、
なにかに押しつぶされそうな感じと、
気力がみなぎる感じと、
祈り・頭を垂れる感じ、
頭を上げて前に進んでいく感じ、
を40数分のうちに味わいました。
H先生には「あなた、今から弾きはじめて10年後を目指したらいいわ」と言われましたけど、とてもそんな・・・・・畏れ多すぎます。


さて、来年は何番を弾こうかな・・・と考え中。
だんだん先生や学生さんの占める割合が高くなってきたのですけど、ぜひ趣味のピアノ弾きの方々もご参加くださいませ。



アクセス数にびっくり

2010年11月22日 22時11分58秒 | ピアノ
金曜からの麻未ちゃんフィーバーのおかげで、
当ブログへのアクセス数が、これまで有り得なかった数字となり、
本日やっと落ち着いてまいりましたけれど、それでもまだふだんの2~3倍はあります。

連日ニュース・新聞・ワイドショー、その他いろいろメディアで取り上げられてますが、
こちらへも「萩原麻未 所属」などの検索をかけて来られる方がありまして、
いやそんな検索かけられても、残念ながらこちらでは何もわからないわけですけど・・・・。
仕方なく(?)、演奏会評などご覧いただいたのかしら・・・と思っております。
もしかすると、最初のころはお名前を出さずにコンサート評を書かせていただいているかもしれないのですけれど(探して実名に訂正することは可能ではありますが)、
それはそれでそっとしておこう(笑)と思っております。

ついこの間の8月、リサイタルのチケットを「お預かりしますよ~!」とお母様に申し出、
知り合いに声をかけて一枚、また一枚とさばかせていただいたのが、遠い日のように感じられます。
もっとも、麻未ちゃんのリサイタルはいつも大変な人気で、当日券がなかったりは以前から当たり前の話だったと伺っておりますが・・・。


麻未ちゃん、これからも、ここでじっと地味(?)に応援してますね♪




日帰りで

2010年11月20日 22時17分12秒 | 雑感
朝8時少し前の新幹線で上京しました。


13時からの恩師の葬儀・告別式と、
18時からの友人(とそのお嬢さん)のお通夜に参列するため。

どちらも大学関係で、ほんとに不義理に不義理を重ねた挙げ句の今日という日になってしまいました。


恩師の遺影は、髪は白くなっていらしたものの、笑顔で煙草をくゆらすお姿は、記憶にある恩師そのもの。
現学長による弔辞には、在りし日の恩師のあたたかさを思いだして胸がつまり、
初期の教え子で今は同じ道を歩かれている方(男性)の弔辞には、私の知りえなかった研究者としての厳しさを垣間見た気がいたしました。

教え子には平等に接し、親身になってくださる先生でしたが、ましてご家族のことは大変案じておられたようで、喪主であるご長男によると、さまざまなことが書き残されていたそうです。

悲しみの中にも笑いを誘ったのは、(喪主の)挨拶についての「亡者の見解」が残されていたこと。
「まずは、『本日はご多忙中のところを~』という」をはじめとして、
「自分も親の葬儀のとき(の挨拶)は失敗もあったが、こういうことは回数を重ねればうまくなるものだ」(笑)などなど。

ご長男がそれをそのまま語られるさまが、なにか明治の文豪の書簡を朗読しているかのような味わいで、
最終講義に接したような懐かしさと同時に、ああやはり先生は逝かれてしまったのだ、という思いも押し寄せてきました。


同じクラスだった友人三人と20年ぶりくらいに話をしましたが、長く会ってなくても話題ってあるものなんだ、話って尽きないものなんだ~とちょっと驚き。


18時からは駅にして、2~3しか離れてないところでの友人のお通夜。
参列者がほんとに多く、驚くばかり。
でもそのなかで、知人数人に奇跡的に会えました。こちらも20年以上は会ってませんので、お互いよくわかったなあ、と思うのですが…、やはり故人のなにか意思によるものでしょう。

のこされたご家族にご挨拶するのは本当につらかったですが、一度しかお会いしたことのないご主人が、私の名前を(それも下の名前で)呼び掛けてくださり、やはりきてよかったのだ、……でもほんとにこんな形での再会って……
とただただ思うばかり。


今は帰りの新幹線です。