~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

3月1日

2013年02月28日 20時28分29秒 | 雑感

とうとう3月になってしまいました。

なんだかわけわかんないうちに2月が終了。そりゃたしかに2月はほかの月より2~3日短いですけど、今年はことさらに短かった。私だけでなく、私の複数の友人も、子供の受験かれこれ、親の病気や死、・・・・・・ほんとに大変な日々だったようです。でも、みな倒れずに進んでるもよう。

・・・・・がんばれ、おばさん!

さて、今日は朝から母の口座開設のため雨のなか一緒に出かけ、そのあと、某所にて夏のコンサートの初打ち合わせ。

初対面の方も2名おられ、楽しいひとときを過ごしました。演奏される曲そのものはよく知られた曲ばかりなのに、全然ふつうでない演奏会のプランがたちました(笑)。首謀者は私ではないですよ、念のため。

こういうことってやる側が楽しいのは当たり前ですけど、聴いてくださる方に楽しんでいただけるよう、これから練習したり詰めたりしていかないといけませんね。まだ自分担当の曲をきちんと決めてないんですよ、早くしないと(汗)。

 

楽器店で楽譜みたりうろうろして、さきほど帰宅。パソコンの電源を入れたとたん、プリンターが「ガッガッガッガッ」と動き出しました。

昨晩打ち込んだデータの印刷が途中になってたんだろうとあまり気にしてなかったのですが、なんかヘンな写真が出てくるんです。

・・・・な、なにこれ・・・・

なんと牛丼の写真。たしか昨年の夏、息子が宿題で作ってプリントアウトしようとしていてうまくいかなかったやつです。カメラを直接つないでいたはずで、私のピクチャーファイルには保存されてないはずの画像。

なんで今頃、しかも、パソコン電源いれたとたんに(まだ立ち上げてもいない状態)出てくる??わけわかんないです。

というわけで、3月は雨と怪奇現象でスタートです(汗)。 


あえて受けてみました

2013年02月25日 19時35分11秒 | レッスン&セミナー

ここのところ、基本的には「書類とハンコと役所と私」の日々です。

ハンコといってもシャチハタはダメですよ(笑)。・・・・ずっと以前から不思議でならないのですが、シャチハタは何でダメなんですかね??たとえ百円ショップで買った三文判と朱肉の組み合わせであっても、そちらは正式の書類に通用するわけです。だいたいハンコってなんなんだろう?ハンコがないと身動きできない国ってほかにもあるんでしょうか?

・・・というわけで、私48歳と9か月にして実印を作りました。これまでいらなかったのかときかれれば、一回も必要なかったと胸を張ってお答えします。銀行印はみんなその辺のハンコで済ませてましたし、印鑑登録証明書が必要なことは今の今まで一回もありませんでした。ですが、いよいよ要るわけです、まずはお墓の継承で。

だいたい実印作ってくれるハンコやさんってどこにあるんですか~から始まり、注文して受け取りに行ったのが今日。本日、郵便局、銀行の用もいろいろありました。

郵便局、しばらく使ってない口座だったもので、暗証番号がわからない。通帳ではじかれ、キャッシュカードではじかれ(汗)。「もう知らんし・・・時間もないし・・・」というわけで、楽器店に向かいました。試弾の時間を予約していたんですね。

そこで、30分弾いて、いったん外に出て銀行ATMで別件の入金。なにかちょっと食べて13時からレッスン。

もうこんな状況ですから、今回はお休みさせていただこうかと思ったのですけど(前回は1月26日)、こんな状況だけに、一日のなかに音楽に向かうきっかけがまったく無いわけです。ある日ふと気がついたら、父が亡くなってから丸2週間たってまして、その間なにやってたかというと「書類と役所とハンコと電話」。一年なんてこのままあっという間に過ぎてしまいそうだったのであえて入れていただきました。

 

レッスン曲は例のアレでしたけど(笑)、現代曲でもいや現代曲だからこそ、自分で「???」なところや、そもそも「自分的に引っかかりのないとこ」は聴いている人にも伝わらないし、そもそも聴く気にさせない。

そういうことは、私自身が生徒のレッスンをしたり、伴奏をしたりする中で感じてきたことなのですけど、やっぱり「なんとなく」流れたところは、バレるというか、・・・・いやバレバレです(笑)。

自分としてもだいぶ曲が入ってきた感じがあり、かなり面白くなってきたところで、そうなると、レッスンも俄然面白くなるので、やっぱりレッスン受けてよかったですよ。

「その音は少し高めに」とか「その音列は狭く」など、「これってピアノのレッスンですか?」みたいな注意もありましたけど、そう言われるとすごくよくわかるというか、ほかの表現ないよねえ・・というくらいピンとくるところがまた面白い。

帰ってから楽譜を見てみたら「(##)いくいく和声」と読める書き込みがあって、「なんだこれ??いくいく和声ってなんだろう??」と思い、主人に見せたら「<開いていく和声>だよっ!」と言われました(汗)。・・・・スンマセン・・・・

 

そうそう、郵便局の通帳ですが、レッスンのあと窓口にいき「あとワンチャンスあります。これかもと思う暗証番号を入れてみてください」とバクチのようなことを言われ、こちらもバクチで入れてみたら・・・・なんと通りました(汗)。びっくりした~~~

 


二分の一成人式

2013年02月23日 01時12分26秒 | 家族・友人等

今週は、娘は体調がいまひとつで、火曜木曜と学校を欠席。今日(金曜)はどうなるんだ~と思っていたところ、なんとか行ってくれました。4年生最後の授業参観(二分の一成人式)があるとのことでしたので、出席できてなにより。

息子の方は、22日(金)から25日(月)まで沖縄へ修学旅行。こちらも、忌引きやらインフルエンザやらと重ならなくてほんとによかった(泣)。

木曜の夜に娘が、二分の一成人式(学校での10歳のお祝い)がどうとかこうとか言っておりましたら、息子が「俺なんかもうすぐ10分の9成人式だ」と。・・・・言われてみればそりゃそうなんですけど、息子はいつもこちらがまったく丸腰、無防備なときにボソッと一言カマしますので、食事中なんかひどい目に遭ったりします(笑)。

息子が4年のときは、一学年全部が体育館に集まり、PTC活動(先生と生徒と親が一緒にやるもの)のひとつとして、それなりのかまえで開催されましたが、本日娘たちは、各クラスでの実施。「4年生になってできるようになったことと周囲への感謝」をひとりずつ発表し、間にリコーダーの演奏をはさんで、またひとりずつ「将来なりたいもの」を言うという構成。

おかあさんたちも担任の先生も、涙ぐみながらきいておられました。私はどちらかというと「ちゃんとマトモなことを言ってくれるだろうか・・・」という心配がさきだち、それどころではない気分でしたが(汗)。

いろいろ指導が入ったであろうことは想像に難くありませんでしたけど、多くの子どもたちはちゃんと文章を練り、「できないと思っていたことも努力すればできるようになりました。先生や親や友だちに励まされたりやさしくしてもらってがんばれました」という内容のものをしっかり発表してました。・・・・わが子はたしか、「授業中に手をあげて発表するようになった」ということと「片付けができるようになった」というふたつのことを言ってましたけど、残念ながら誰にも感謝の言葉は述べてなかったです(笑)。いや、いいんです。両方ともおそらく自分ひとりで勝手にできるようになった(少なくとも自分ではそう思っているはず)ことだと思うので、感謝感謝なんかまだよろしいです。心からありがたいと思ったときにすればよろしい。

将来なりたいものについては、ときどき「安定した生活をしたいので会社員になりたいです」とか、「親にいろいろ買ってもらってうれしいので、自分も大金持ちになって親にいろいろ買ってあげたいです」といったことをいう男の子がおりましたけど、ほかは、けっこう「サッカー選手」「野球選手」「バレー選手」「テニスの選手」「水泳の選手」といったスポーツ系、「医者」「学校の先生」「パティシエ」など、なかなかいいバランスでした。

で、うちの娘は・・・・・小説家・・だそうな。そういえば、息子も小学校を卒業するころは、小説家になりたいといっていたような気がします。自慢じゃないですけど、私はそれはそれは進路(希望)に変更があった人間ですけど、小説家になりたいと思ったことはないですねえ。評論家になりたいと思ったことはありますが(笑)。

ところで、二分の一成人をほほえましく参観しながらも、前日に見ききしたあれこれが、ちらちらと頭をよぎるんですよ・・・。それはなにかといいますと、21日朝に死刑執行された3人のうち、通り魔殺傷事件を起こした某青年のこと。

私、学生時代、それこそ「あれにもなりたいこれにもなりたい」のひとつとして家裁の調査官を目指していたことがあったせいか、凶悪な事件を起こしてしまった犯人(とくに青少年)とそれをとりまく環境のことを知りたい、というか、知らねばならない、というような変な義務感がまだ少しばかり残っております。今回についてはすでに死刑が執行されたあとで、しかもネット上の資料ではありますが、できる範囲で読んでみました。

あくまでも狭い範囲の資料ですから、事実かどうかわかりませんが、親子のコミュニケーションの掛け違いみたいなものが埋めがたい溝となってどんどんひろがっていき修復不能になり、ついに大事件をひきおこすひとつの原因となったであろう・・ことがわかりました。

こう書くと抽象的で「よくそういうことあるよね」という感じなんですけど、具体的には、「親子なのに筆談だけだった(犯人の妹と母親の関係)」とか、「息子の携帯番号を家族のだれも知らなかった」とか、外からはおそらく普通にみえたご家庭の内部の、一種異様なあれこれがあるんですよね。

この事件についての考察も少し読みましたけど、なるほどと思うものもあって、親として大人として、このような事件の被害者にならないように子供を守らなければならないのはもちろんですが、加害者にしない責任も重いものだ・・・・とつくづく思う事でした。

わが子だけではなく、この教室にいる子、地域の子、がしっかりと自分自身をはぐくんでいけるよう、祈るだけではなく、およばずながら力になりたい・・・と思う「二分の一成人式」の日でした。


こんな夢をみた

2013年02月19日 20時41分40秒 | 家族・友人等

こんなときに限って・・なのか、こんなときだから・・なのか、娘が熱を出して休み。

娘のクラスはインフルエンザが蔓延していて、クラスの同じ班の両隣の子がすでにインフルエンザで欠席。

「つぎは自分だ、リーチだ」と土日騒いでおりましたが、けさ咳と8度台の熱。

その後どうも熱は上がらないし、ただたただ昏々と寝ておりますので、もしかしたらただの風邪かもしれないですし、予防接種がちょっとは効いているのかもしれません。

私自身は午前中に実に実にひさしぶりにピアノの練習をしたせいか、夕方あたりにどっと疲労しましてついソファで寝てました。いつも思うのですが、楽器の練習ってものすごく疲れます。「こんなの気分転換にもストレス解消にもならないじゃん」って思うのはぜいたくなグチですよね(笑)。だれに頼まれたわけでもないことなので、疲れると思うならしなきゃいいわけで。

夜7時くらいに娘の担任からの電話で起き、「先生方はこんな時間まで学校で仕事しておられるのか」と思い、<こんな時間>に寝ていた自分を反省。

その後あれこれやっているときに、夕方なにか夢を見ていたことを思い出しました。

なんだっけ・・どんな夢だっけ・・・・

たしか、どこかの道を枯れ木のように軽くなった父を背負って歩いていたんですね。で、入院していた病院に行こうとするんですが、通い慣れた道なのにどういうわけかいつまでも着かない。これは、どうやら道を間違ってしまったようだ、と道にいた人(これがなぜかナース)にきくと、「あ、それはもう一回トンネルの向こうまで戻って、そこの3つに分かれている路のところからやり直さないといけないです」と言われました。「あ、そうだったのか」とそこまで戻ったら、やっといつもの道に入れて、そこから山を登っていくと、道に植わっているサクラの樹になぜか芙蓉(フヨウ)のような大きなピンクの花が咲いていて、どう見ても偽物っぽい。これはOヘンリーの「最後の一葉」ではないけど、だれかが偽物の花を描いたかくっつけたに違いない・・とそばに寄ってみてみたら、実は本物。「サクラにこんな花が咲くんだね。ヘンなの」と背中の父にいうと、「おかあさんに見せたかったねえ。見ないで逝っちゃったねえ」と父が答えた・・・

・・・・・あれ、母まだ生きてるって(汗)。

まあいいですけど。父と母が逆になって出てきたんですかねえ。なんだか漱石の「夢十夜」もどきの感じも(笑)。


二月も半ば過ぎ

2013年02月17日 11時57分37秒 | 家族・友人等

うっかりしているうちにこんなに日が経ってしまいました(汗)。

mixiやFBにはちょろちょろ書いているのですが、こちらには書いてなかったので、もしかしてご心配くださった方もいらっしゃったかも・・・すみません。

別に倒れていたわけでもなんでもなく、父の入院中の荷物の引き取り、お葬式関係の整理、五十日祭の予約、実家の処分(予定)にあたっての手配、お墓の継承の手続きなどなどで、あっという間に時間がたってしまいました。

上記のどれもまだちゃんと片付いてはおらず、むしろあとからあとから湧いてくる感じ(これから銀行関係の手続きもありますし)。某友人が、かつて「はてしない物語」(だったかな?)と題してブログを次から次へと更新していたのを思い出しました。

もちろん15日にはピアノ関係のセミナーを聴講に行きましたし、16日には呉まで行って3月の室内楽セミナーの打ち合わせをしてまいりました。だんだん日常に戻りつつあります。

そろそろピアノの練習でも始めようか、というところです。


神葬祭

2013年02月12日 14時04分40秒 | 家族・友人等

昨晩、自宅に帰ってまいりました。

今朝起きたら、さすがに少々筋肉痛。かなりの荷物を背負って帰ってきたせいでしょう。

以下、自分の記憶の整理。

2月8日・・・朝9時台の新幹線で母と鹿児島へ。昼ごろに着いて、母は銀行、私は実家へ。家じゅうの雨戸を開け、掃除機をかけ、ふとんを出しておく。遺影は、8年くらい前に父自身が用意していたのだが、ちょっと時間がたったのと、その後の叙勲のときの写真があったので、そちらも用意する。14時から、葬儀社の担当さん、新聞広告の方と打ち合わせ、約2時間。

2月9日・・・昼くらいから、以前母がお世話になった病院、父がお世話になった病院へごあいさつ回り。翌日の納骨に備えて、霊苑の方と打ち合わせ、お墓の清掃。15時くらいに子供たち(新幹線にて到着)と合流。16時から実家で客人。夕方から母と私、子供ふたりとデパートへ。息子の服などの買い物と夕食。親戚夫婦と主人は夜遅くホテル着。

2月10日・・・9時半に葬儀社。母の着付け、式次第や祭壇の確認、玉串奉奠の練習。11時~12時 式。12時30分~14時 親族会食(直会-なおらい)。14時半~15時過ぎ墓地にて納骨。息子と主人は新幹線で帰宅。15時半~ご近所の方にごあいさつ、実家にて親戚夫婦と食事ほか。

2月11日・・・・書類やうちの片付け、荷作り。親戚は昼ごろに帰り、私と母と娘は17時台の新幹線に乗る。

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一連のことをやっているうちに「なにかに似ている・・・なにかに似ている・・・」と思ったんですが、基本的にはコンサートなんかと同じような手順なんですね(汗)。

参列者の数はわからないので、だいたいのカンでそれなりの広さの会場をおさえ、受付の方を頼み、弔辞や代表玉串奉奠の方を決める。着付け・お礼・車代などの各経費を無地の袋に分けて用意しておく。式後に残ってくれる親族の数をよんで昼食を手配する。・・・今回担当の方のほれぼれするようなアシストにより、準備から納骨、うちの神棚に位牌(正しくは「霊璽」でしょうか?)を収めるまで、ほぼカンペキという感じでした。実に感謝です。名刺には「厚生労働省認定1級葬祭ディレクター」とありました。ほんとに大変なお仕事だと思います。

参列くださった数も部屋の広さにぴったりというか、あとから少々椅子を足すくらいで、ほんとにありがたかったです。私が予想していたより大きなお葬式になりました。遺族・親族を代表してごあいさつをさせていただきましたが、終わってから考えてみたら、ご出席くださったかたは元校長先生、元国語の先生がほとんど。・・・あとからどっと冷や汗の出る思い。

葬儀は神道式でしたので、果物や魚や野菜が供えられてましたが、生の鯛はインパクト強し。線香の香りならぬお魚の匂いが時々いたしました。神主さまが魂を位牌(霊璽)に遷すときに会場の照明を落とし、遺影だけが浮かび上がるという演出(?)があり、その薄明りのなかで「・・・おおお~」という祝詞が始まりました。私、これまで何回か神葬祭には出ておりますけど、このようなものは初めて見ました。

参列の方の玉串奉奠の間はずっと神主さまが笙を吹いておられましたが、これまた初めて。横笛は見たことありましたけど。

ヘンな話なんですけど、こういうことを一番私と一緒になって面白がってくれるのが父だったな・・・としみじみ思うことでありました。

 


無事に

2013年02月12日 01時49分25秒 | 雑感

2月10日(日)、鹿児島で無事に父の葬儀・納骨を終えました。

それなりの規模の葬儀になり、初めてお会いする父の仕事関係の方がた、あと「私はあなたのお父さん(お母さん)のなんとかのなんとかのなんとかです」といって話しかけてくださる親族へのご挨拶などなど、初めてのこととはいえ、なかなか濃い体験でした。

ひとさまに語るようなことでもないかもしれませんが、それなりに記しておきたいこともありますので、またいずれ。

 


48時間

2013年02月06日 19時40分02秒 | 雑感

ただいま19:40。

月曜夜、病院から「急変」の報をきいてから48時間たちましたが、長かったような短かかったような・・・。

月曜夜22時前、うちの近所の葬儀社に搬送し、安置。ほんとうは一晩付き添うべきなのですが、母も休ませないとならないのでうちに帰りました。

火曜午前、葬儀社に私一人行って打ち合わせ。あとはそのまま部屋のなかであちこち電話をしたり、近所に住む友人が寄ってくれてとりとめのない話をしたり。

火曜午後は、母とうちの家族も葬儀社の部屋(・・・これがすごい部屋で、ホテルのスイートルーム並み。ベッド3つ、マッサージ器、風呂、台所、冷蔵庫、乾燥機、テレビなどなどあり。いったいなんなんだ~という設備。なにも知らずにきたのでびっくり)に来て、親戚夫婦の到着を待つ。私と男ふたりはいったん外に出ましたが、娘は母とビデオ(発表会などの)みたり、CDを聴いたりしていたもよう。

火曜夕は買い物に出て、父に供える酒や焼酎も調達。夜は、親戚夫婦と娘が葬儀社に泊まり、母、私、息子は帰宅。主人は仕事へ。

水曜(つまり本日)は、朝9時に出て、息子と母はそのまま葬儀社へ、私は銀行などに寄ってから行く。9時45分くらいからお別れタイム。父の読んでいた英語のペーパーバック、私の自筆譜、文房具カタログ、焼酎、チョコレートを棺に納めました。

火葬場には10時20分くらいに着きましたか・・・約1時間ののち収骨。母のうちによってお骨を置き、みんなで昼食へ。

昼食後、私は親戚夫婦を送りがてら区役所に行き、いろいろな手続き。とりあえずこちらでのあれこれは終わりました。

金曜からは鹿児島に行って、日曜の告別式の準備をせねば。

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今回とても助かったのは、葬儀社の部屋にパソコンもちこんでネットが使えたこと。鹿児島の葬儀社、ホテル、新聞社、と次から次へと調べものが生じる状況においては実に実に助かりました。あと、手持無沙汰なときに孫のビデオを見せるとか、故人の好きだった曲を流す、などなど。パソコンってほんとに重宝。

また今回びっくりしたのは、こういう現場における声のトーン。

父が亡くなった直後に葬儀社に電話したら、えらい明るい声で出られて、こちらが一瞬掛け間違ったかと思いました(汗)。迎えにきてほしい旨伝えると、恐縮して「悪うございました・・」と謝ってましたが。葬儀社って基本的に元気に電話に出てはいかんのでは??(笑)

火葬場では、さすがにこれ以上はないという暗い声でアナウンスがなされてましたが、事務所に手続きに行くと、暗いことは暗いのだけれど、すごい気合の入った暗さで、「立ち向かえ同士よ!」みたいに背中おされた感じがしました(逃)。

「接客用の暗い声」ってなかなか難しいですよね。自分だったらできるかなあ、と考えてしまいました。


送る曲

2013年02月05日 23時49分51秒 | その他音楽

たくさんの方からお悔やみをいただき、大変ありがたく、また恐縮しております。

「ラストコンサート」、父も私も共に好きな映画だったので、大人になってからサントラ盤を探しだし、買いました。

超甘々の曲ですが、病床でも2回ほど聴かせ、その時だけはっきりした目をしてました。

「いい曲だ」と言ったのが一度は聞き取れたほど。