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-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

赤い夕陽が~~を染めて~~

2022-11-29 13:53:48 | 近況報告

 山形でも、遠くの朝日山系、月山が白くなってきたのが見えるようになってきました。この時期、背炙り峠からの景色が気になります。昨年は11月30日にその年最後の峠越えをし、その際に絶景を撮影することができました。その快感が忘れられず、今年も最後の撮影に燃えました。

 令和4年11月25日、ところが、残念ながら雲が邪魔し、遠くの景色がよく見えません。微かに朝日山系が見えるのですが、いつものように「心の目」が必要です。撮影場所は中沢ビューポイントから少しだけ登った所です。

 

 同じ場所で左を向いて甑岳を見ました。もうとっくに紅葉は終わり、色のない寒々とした山肌を見せています。

 畑沢へ入って驚いたのは、またもや無人となった家屋が解体されていたことです。私がお世話になった幼馴染の家です。私よりも畑沢愛が強い先輩でしたので、無念のお気持ちだったと思います。

 次に驚いたのは、田んぼの中で我が物顔で落穂を拾っている猿の群れでした。キーキーと喚き散らす声がしたので、作業の手を休めて顔を上げ、田んぼを見ると猿でした。「キーキー」はボス猿が縄張を主張していたようです。私の前で縄張を主張しているのが気に食わず、対抗心がムラムラと湧きあがります。もう40年以上も前、飯豊山系の北股岳に向かっていた時に、猿の群れに会いました。ボス猿が木立を揺すりながら私に向かってキーキーと威嚇します。私は単独の心細さもあって、正直、かなり怯えました。その時の悔しさが畑沢で蘇りました。今回は手にフォークという農具も手にしています。リベンジの絶好の機会です。

 しかし、猿を威嚇する声とはどんなものか分かりません。分からないがどうにかなるだろうと、出した声はアマゾンに生息する「ホエザル(吠え猿)」のそれでした。ホモ・サピエンスが威嚇する声はホエザルと共通するのかと、妙に納得できました。威嚇された田んぼの猿は少しだけ顔を上げるなどしましたが、一向に逃げようとしません。ええい、奇襲攻撃とばかりに武器のフォークをかざしながら走り出すと、さすがに大抵の猿は逃げ出しました。ところが、体が大きいボス猿は逃げようとしません。むしろ無視したような不敵な態度です。悔しさは絶頂に達し、威嚇の声を多発しながら追いかけます。渋々、ボスもゆっくりと退散しました。

 

 「いろんな」作業を終えて、背炙り峠で夕日に出会いました。最近は峠で夕日を見る機会が減っています。折角の夕焼けのようなものでしたが、いま一つぱっとしません。でも貴重です。

 「赤い夕陽」は思いで多いものです。私が小学生のころ、ラジオから舟木一夫の「高校三年生」が毎日のように流れて、音痴の私でもしっかりと記憶されています。

赤い夕陽が校舎を染めて、楡の木陰に弾む声

そして、高校生になるとあの歌のようにロマン溢れる時代を迎えることができるものと夢を持ちました。ところが、私が入った高校は、ロマンの欠片もありませんでした。生徒は全部が男です。色気も何もあったものではありません。どこを赤い夕陽が染めるのでしょう。

 でも、私はその学校が大好きでした。「生徒の自主性を重んじ」る学校だったのです。即ち、「勉強を強制しない」「競争心を煽らない」「宿題も極端に少ないし、宿題を忘れても怒らない」。自宅で勉強するのが極端に苦手な私にはパラダイス。そして、周りにも私と似たような生徒が大多数です。当然、良き友人です。人生で最も友人に恵まれました。

 卒業してから約40年後のある時、他校の出身者から面白い話を聞きました。その人が我が母校の同窓生から聞いたそうです。

「我々の高校は放牧場だ」

 実にぴったりの表現です。鼻輪や首輪でも繋がれていない、放し飼いです。赤い夕陽は放し飼いされていた牧場を染めていたのです。夕日は赤く染めていたのです。

赤い夕陽が牧場を染めて、山に向かってモーと鳴く

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二ツ森、二鞍山、荷鞍山に登りました

2022-11-20 16:40:51 | 近況報告

 これまで、畑沢から眺められる山を次々と登って来ました。総ての山に登りたいのですが、登山は一週間に一回どころか一月に一回もままならなくなっています。一年に一回か二回がいいところです。

 今回は尾花沢市の二ツ森に行きました。実は昨年に登る決心をしたのですが、ようやく二年目に実現することができました。

 令和4年11月12日(土)、快晴です。登山口に来たのですが、失敗に気づきました。二ツ森の特徴である二つ並んだ峰(双耳峰 そうじほう)の片方の北峰しか見えません。撮影するには近づきすぎたのです。南峰は林によって遮られています。この状態が鞍部に近づくまで続きました。

 

 しょうがないので後方を振り返って、パチリ。牧場のなだらかな地形が見えます。この場所の南方にも宝永牧場や尾花沢から銀山温泉へ向かう途中にもなだらかな地形があり、昔の地滑りがあった場所のようです。

 

 牧場の末端部になりました。北峰を遮って、奥に断崖絶壁の岩山が見えてきました。北峰と南峰の間に聳えている息子森だそうです。

 

 息子森に近づくと岩肌がはっきりします。典型的な柱状節理があります。柱状節理と言えば、尾花沢市の最高峰、御所山の麓にある層雲峡には、材木岩と呼ばれている広大な岩があります。私のちっぽけな脳みそでは、両者を同一にしてしまいますので、「山形県表層地質図」をネットで確認してみました。二ツ森の表層地質は「流紋岩~安山岩」、層雲峡のそれは「流紋岩」となっていました。二ツ森の地質の表現はどこか判然としない表記です。私には流紋岩と安山岩の区別ができませんが、成分的にはかなり近いもののようです。まあ、素人の私には、両者は似たようなものと解釈すれば十分かなと思います。

 因みに畑沢の大平山と立石山の上半分も流紋岩ですが、私の目では、二ッ森で見た流紋岩とは全くの別物です。畑沢の流紋岩には小さな長石のような結晶が散在しています。

 

 暫くして、石仏が見えました。「防火安全」「太陽不動大妙神」と刻んであるようです。珍しい石仏です。

 

 ここからは林の中に入り、木々の枝が頭上をも覆っています。もう少し早く来れば、きっと美しい紅葉に囲まれた登山道になっていたでしょう。 

 

 急な坂を息を切らしながらも頑張ったので、双耳峰の真ん中、鞍部に到着です。左が北峰です。その登り口に何方かが立っています。この日は快晴なうえに土曜日だったので、多くの登山客がいました。鐘も見えます。

 

 鞍部から遠くの葉山と月山が見えます。月山は既に雪化粧していましたが、この写真は「心の目」で見る必要があります。せめて偏光フィルターを使えば、いくらかはっきりするのですが、お金が惜しくてまだ買えません。

 

 鞍部からは北峰と南峰に登れます。低いのは写真の南峰。低い方にしました。

 

 南峰の山頂に近くなってから、北峰を仰ぎました。見るからに険しそうです。ガレ場もあります。北峰に登ってきた人の話によると、このガレ場の右側に登山道があるのだそうで、斜面があまりにも急なのでかなり長い区間をロープで伝う必要があるそうです。やっぱり、北峰に行かないでよかったと思いました。

 

 頂上に石仏がありました。いくつかの文字が見えにくいので、県立図書館から玉野歴史研究会が編集発行した「昭和からの玉野」を借りて参考にしました。石仏の表に「大正十三年」「二鞍山猿田彦大神」「新八月丗一日」であることが分かりました。裏には「玉ノ村粟生」「開山者 菅藤與次郎」とあります。

 何故「猿田彦」なのかが疑問に持ち、私の近所に住んでおられる尾花沢市出身の先輩に猿田彦についてお聞きしました。先輩は「猿田彦は道を安全に案内する神様」と教えてくださいました。新たに山頂に道を作って開山するにあたって猿田彦にすがって安全を祈願し、併せてその後に登山する人々の安全も祈願したということでしょうか。

 昭和2年に鈴木勇三郎氏が著した「玉野村史」によると、開山者の菅藤與次郎氏の記述がありました。当時、玉野地区の尋常小学校の職員や区長代理を務めていた、玉野村の有力者の一人だったようです。なお、鈴木勇三郎氏は、玉野尋常高等小学校の職員だったようです。そして、昭和2年とは、各地の学校が郷土の歴史や産物などを一斉に調査した時期のようです。この時に常盤村でも尋常高等小学校の畑沢の大先輩である青井法善氏が「郷土史之研究」を著しました。

 さて、もう既にお気づきと思いますが、石仏ではこの山を「二鞍山」としています。二ツ森ではありません。そもそも、二ッ森という山の名前は、私が小さい頃は耳にしたことがありません。「ニグラヤマ」の発音でした。文字にすると「荷鞍山」です。実際、この山を見ると、馬の背に荷物を載せるために装着する荷鞍そのもので、決して、二つの鞍ではありません。

 

 南峰の山頂から畑沢方向を写しました。写真の中央から少し右側に周囲の山々よりも幾分、高い二つのピークが見えます。そのうち左が甑岳(1,016m)、右が大平山(814m)です。畑沢の集落は大平山の右下になりますが、山々の下に埋もれています。つまり、畑沢の集落からは二ツ森は見えないのです。現道の背炙り峠や古道の背中炙り峠に登ると見ることができます。畑沢の集落は山々に囲まれているので、遠い山は、最上町の禿岳以外殆ど見えません。それでも、私がニグラヤマの記憶が強烈なのは、私の父が玉野地区に生まれ育ったので、父から何度も聞かされていたからかもしれません。玉野地区では二ツ森が間近に迫っていて、特徴的な双耳峰は印象深ったはずです。

 

 さて、元々は「荷鞍山」だったのに、何故「二ツ森」となったのでしょうか。同じ様な事が畑沢を流れる川の名前にも生じています。江戸時代から大正時代まで「畑沢川」だったのが、昭和の初めには「千鳥川」になっていました。畑沢川は秋田県、福島県、千葉県にも見られますが、どれも「畑沢」という地名か又は「畑沢」が含まれる地名が存在しています。尾花沢市畑沢の畑沢川を敢えて千鳥川にする理由があったとは思えません。一方、千鳥川の名称は長崎県雲仙市、兵庫県加東市、宮城県石巻市にありましたが、どの地域にも「千鳥」らしき地名は見当たりません。それらの千鳥川も突然に名称変更させられたものかと同情したくなります。

 二ツ森に話を戻します。「二ツ森」の山の名は、青森県と秋田県の境、岐阜県にありました。どちらも千m以上の高山で、山頂部だけが分かれた双耳峰です。尾花沢市玉野地区の二ツ森とは雰囲気が全く異なります。やはり荷鞍山には「荷鞍山」がぴったりです。荷鞍山を二ツ森に変更したときに、地元の要望があったとは思えません。国土地理院の前身であった旧陸軍参謀本部陸地測量部などによって、畑沢の千鳥川と同様に突然に変更させられたものと推察したくなります。

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今回はゆるり あちこちと

2022-11-08 13:15:51 | 近況報告

 令和4年11月7日(火)に尾花沢市尾花沢にある「芭蕉清風歴史資料館」に行ってきました。知人から「今、歴史資料館で荒町八幡神社で所蔵している絵馬が展示されている。素晴らしいものだから、是非とも見るべき」と勧められました。私は芸術的な物には関心が薄かったのですが、この人が勧めるのだからと話に乗ってみました。

 

 入館券は210円です。さらに管内の展示物を案内する二つの資料を頂戴しました。その資料の素晴らしいこと、資料だけでも210円以上の価値があります。特に絵馬の写真はどんな歴史資料にも載っていない迫力があります。著作権の問題がありますので、このブログではお見せできません。まだ閲覧していない方は、後日にでも入館して残部をお願いしてみてはいかがでしょうか。

 

 月曜日の早い時間帯でしたので、まだ誰も私の外に観覧者はいませんでした。お陰でゆっくりと展示物を見ることができました。いつもは私の悪い癖で、展示物があっても表面だけを見て先を急いでしまうのですが、今回は古文書など読んでみたりと珍しい行動をとってしまいました。ゆっくりは心を落ち着かせ、展示物の中身に入るような気分になります。

 さて、目当ての絵馬は一階の奥に展示されていました。私は絵馬と聞いて、学習机の天板程度の大きさで、永年で退色した姿を想像していたのですが、全く違いました。掛け軸に表具されていて、縦にした畳2枚を横に並べて、上を約40cm切った程度の中ほどに絵馬が納まっています。杭に繋がれている馬の姿は色鮮やかで、とても四百年近くも経っているとは思えません。戦国時代の西暦1600年、東西の勢力が激突した関ヶ原の戦いと出羽の地で展開した慶長出羽合戦があり、野邊沢軍が現在の山形市内で参戦しました。西軍の上杉軍が撤退して2年後、戦勝の感謝として野邊沢城主の満光が八幡神社に奉納したものだそうです。絵馬の左右両側に縦に文字が記されていますが、馬の勢いに押されて揺れています。その様子がさらに人の気配を感じさせてくれ、古の風が流れてきました。

 見事な絵馬なので写真を撮りたくなるのですが、当然、撮影は禁止でした。しかし、上述した見事な資料に絵馬の写真があります。

 

 歴史資料館で大満足して、畑沢へ向かいました。最近、御無沙汰の熊野神社へ登ることにしました。ところが、登る前に足もとの緑の美しさに見とれました。綺麗に明るい緑です。そこに秋の風情を添えた落ち葉が横たわっています。

 

 鳥居は既に冬支度がなされています。角隠しのようです。

 

 熊野神社と樹齢四百年近い大杉です。今回の主役は大杉にしました。

 

 畑沢は周囲が山で、全方向が錦に飾られています。スマホで撮ると、より一層に鮮やかになるようです。

 

 紅葉を拡大してみました。

 

 今回の畑沢での作業は、先週に続いて池の漏水工事でした。前回の作業が完全ではなかったようで、まだ漏水がありました。それでも再工事でしたので、まあまあ無事に終えました。近くの耕作放棄地を見ると、耕したような痕跡が見えました。イノシシの仕業と分かりました。実に徹底的に、実に丁寧にイノシシは頑張ったようです。どう見ても、人が耕したように見えます。余程、お腹が空いたのでしょうか。

 

 山形への帰りは、背炙り峠を越えることにしました。峠には午後4時を過ぎたばかリ、まだ夕焼けを見ることができません。太陽が沈むにはまだ時間がかかりそうです。最近、峠で夕焼けを見る機会がありませんでしたので、ここでしばらく待つことにしましたが、その前に村山盆地に広がり始めた夕靄(ゆうもや)が地表面に広がり始めている風景をパチリ。表現が難しいのですが、閲覧者の想像力にお任せします。

 

 それから30分後、日は沈み、峠から少し下った棚田のビューポイントから大倉地区を入れて撮影しました。

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稲刈を終えてから1カ月あまり、秋は深まつて

2022-10-28 14:51:55 | 近況報告

 今よりも少し前の状況です。稲刈が終わってから一月以上も経った令和4年10月23日に畑沢へ行きました。太陽が出ている状態でしたが、降雨が何度もあったので植物は濡れていました。濡れた葉や花が瑞々しいです。

 できれば山に入って花などの姿を写したいのですが、この日も時間がありませんでした。でも、山に入らなくても美しく感じるものが周囲に沢山ありました。

 まだ、開いていませんが食用菊の蕾です。やがて花を開けば、さぞかし美味しくなるだろうという目で眺めました。私の視点は食欲がかなりを占めています。

 

 次も食用菊で先の食用菊とは品種が異なり、花が開いています。満開状態で美味しそうな香りがしそうです。

 

 今度は食用菊ではありません。背が高くて私が手を伸ばしても花に届きません。実家の庭があった場所です。昔からあったようななかったような、思い出せません。

 

 秀明菊(シュウメイギク)です。私は普段のこの花を好みません。でもこの日の花は珍しくも美しいと感じました。背景が良かったのかもしれません。

 

 最後に花ではありませんが、秋を感じさせる美しさがあります。朴の木から落ちる間近の葉です。まだ完全に脱色しないで、所々に色を残しています。それが好きです。そして、何となく下手な撮影でも芸術的な感じもあるでしょうか。

 

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背炙り峠の空に秋を見ました。そして…

2022-09-07 11:46:19 | 近況報告

 今年は6月から暑い日が続きました。しかし、ようやく暑さが去り、この時期としては近年にはなく涼しくなっています。

 令和4年8月29日、2週間ぶりに畑沢へ行ってきました。今回は草刈と昨年までに猪が掻きまわして崩した池の岸の修理です。泥揚げが主体の作業になります。山形で作業の手順をあれこれ頭に描いているときは、仕事は順調に進むはずでした。ところが、暑い日が続いて大事をとって体を休めていましたので、体力がありません。スコップで2、3回掻き揚げるだけで、息ははあはあ。自分でも情けなくなります。それでも、まあまあ仕事をこなした気分になって夕方近くになって畑沢を離れました。

 背炙り峠の夕焼けを楽しみにしているのですが、最近は畑沢を早めに切り上げていますので、お天道様は頭上にあります。お天道様が葉山に沈むまで待つこともできません。家では今年生まれのお腹を空かした水槽の小魚たちが待っています。

 時間的には早いながらも、峠から見る空は秋らしい雰囲気がありました。空は透き通っているような青さがあり、雲の輪郭はくっきりしています。

 

 甑岳の山頂部も冷たい水で顔を洗ったようなきりっとした姿で、聳えていました。「登りたい」ですが、今年も無理でしょう。

 

 空から目を離して地面を見下ろすと、夏の傷痕が各所に残っていました。8月13、14日に大雨が降りました。その後も何度か短時間に強い雨がありました。どの程度の雨が何時ごろ降ったのかを知るために、気象庁の記録から降水があった日を抜き出してみました。それに私が畑沢へ行った11日と29日も、降水がありませんでしたが、参考までに載せました。

 気象庁の観測地点は次の観測所です。(峠に観測所がありません。)

   村山市大久保字寄込 峠から西南方向に約10kmの距離。

   尾花沢市新町 峠から少し西に傾き加減に約10kmの距離。

 降水量が多かったデータは黄色に着色し、さらに強い降水は赤に着色しました。また、短時間での強い降水量は、※①と※②に赤で示されています。例えば「最大10分間降水量」が15mmは、1時間当たりにすると、90mmの「強さ」になります。1時間当たり50mmの強さの降水は、自動車のワイパーの効果がないほどになるそうですから、90mmならとんでもないことになりそうです。最近は短時間での極端に強い雨が多くなりました。

 それでは「多い降水量」とか「さらに強い降水」の尺度は、何を基準にしているかと言うと、それは私の経験からの感覚です。それを聞くと、途端に信用ならないと思うかもしれませんが、意外と的を射っているかもしれません。8月29日の前の日まで雨が降っていたようです。

 背炙り峠を通る県道29号線は、村山市側の各所に素掘りの側溝が残っています。素掘り側溝の幅は場所によって違いますが、広いところでは120cmを超え、深さは50cmを超えていました。常識では考えられない広さと深さです。そのような素掘り側溝から開渠(上部に蓋がない。)又は暗渠(上部に蓋がある。)のコンクリート製の側溝への接続部には大量のゴミと土砂がつかえて、道路面へ溢れた様子が残っていました。

 幅広の素掘り側溝を大量の水、落葉などが流れ下り、狭いコンクリート側溝にぶつかって流れがせき止められて、黒い印を付けた範囲から道路に溢れました。溢れた大量の水は道路向かいの谷側の路肩から谷へ向かって流れ落ちたようです。その際にコンクリート擁壁を覆っていた盛土法面が崩れ落ちてしまいました。せっかく頑張って盛土して下さったのに残念です。急傾斜地で道路工事をする場合は、谷側路肩の法面に改変を施すと土の締りが弱くなってしまい、降雨により簡単に侵食されやすくなります。盛土の後でネットを被せてさらに緑化をするのでしょうが、コンクリート擁壁の壁面からは容易に剥離してしまいます。

 

 素掘り側溝を流れ下った大量の土砂を撮影したのが次の写真です。これはこの山から生じたものではありません。他の場所から持ってきた機械で砕いて作成した砂のようです。

 

 それでは、側溝に流れ込んだ土砂を探すと、直ぐに分かりました。アスファルト舗装がされずに剥き出しになっている路肩が、侵食されて側溝へ流れたものでした。粒の小さい土砂が路肩から側溝へ移動しています。

 

 素掘り側溝とコンクリート側溝の繋ぎ目での溢流は、この外にも3ヶ所ありました。

 先ずは開渠のコンクリート側溝です。溢流はありましたが、幸い、ここの向かい側は急斜面ではないので、先のような侵食はありません。

 

 次は暗渠のコンクリート側溝です。大量の土砂と落葉などが開渠の入り口に溜まっていますが、かろうじて完全には塞がらなかったようです。この場所は道路の幅が極端に狭くなっていますので、かえって素掘り側溝に自動車が脱輪しても、怪我しないように安全度が増したくらいです。

 

 次も暗渠の側溝です。完全に入口をせき止めてしまいました。ここは、今回のような大雨でなくても、しばしばせき止められています。当然、溢流を起こして路面を下ったようです。でも、この向かいの谷側の路肩は、侵食されてはいませんでした。谷側の路肩に10cmほど小さな擁壁が造られています。でも、このような小さな擁壁を造らずとも、もっと上流で小まめに安全な谷側へ雨水を処理していればよかったと思います。排水に適した地形が直ぐ上にあります。工事用車両を停車する場所もあります。

 沢などを別にすれば、元々、道路が作られる以前は、山の斜面に降った雨は何処かに集められことなく、至る所で流れ落ちていたはずです。それが山の自然な雨水の流れです。ところが、斜面を横断する道路が切られると、雨水の流れが道路で遮られて道路に集中してしまいます。山の水は集めてしまうと、途轍もない破壊力を持ってしまいます。水が集まる前に、なるべく土砂崩れを起こさない安全な谷側へ雨水を小まめに排水する工夫が必要です。

 畑沢と五十沢の山中を通るアスファルト道路は、不完全ながらも工夫がなされています。街の中と山の中では道路の作り方は違うものです。街の中の側溝は、原則として路面に降った雨水の処理が目的ですが、山中の側溝には路面とは比べものにならないほどの面積を有する山の斜面の雨水も流れ込みます。街の常識は通用しません。

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