フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

4月28日(土) 曇りのち荒れ模様

2007-04-29 09:48:51 | Weblog
  8時、起床。朝食は鱈子の佃煮でお茶漬け。医者からもらっている薬が切れたので、耳鼻科に行く。咳はひんやりした空気にあたるとまだ出るのだが、だいぶ回復してはきているので、抗生剤はもう必要ないでしょうということで、毎食後に4錠(咳止め、去痰剤、総合感冒薬、胃薬)となった。一週間分処方してもらう。昼食に炒飯を食べてから、大学へ出る。土曜は授業のない日だが、研究室の片付けをしたくなったのである。私はこれでもきれい好きで、連休明けに大学に出たとき、研究室がきれいに片付いていた方が気分がいいに違いないと考えたのである。片づけを始めて、途中、休憩がてら生協戸山店に行って以下の本を購入。

  アラン・コルバン『空と海』(藤原書店)
  マルティン・フロイト『父フロイトとその時代』(白水社)
  北山修『劇的な精神分析入門』(みすず書房)
  J.ブルーナー『ストーリーの心理学』(ミネルヴァ書房)
  吉見俊哉・北田暁大編『路上のエスノグラフィー』(せりか書房)
  キャロル・グラック『歴史で考える』(岩波書店)
  土井博文ほか編『はじめて学ぶ社会学』(ミネルヴァ書房)
  碓井『社会学』(ミネルヴァ書房)

  店内にいるとき、空が急に暗くなって、雷と強風のとんでもない天候になった。まるでこの世の終わりのようだった。

  行き帰りの電車の中で、昨日購入した沢木耕太郎『246』(スイッチ・パブリッシング)を読む。出たのは最近だが、元々は雑誌「SWITCH」に1986年に連載された日記形式のエッセーである。神楽坂の新潮クラブに缶詰になって小説『血の味』に取りかかるあたりの記述。

  「まず最初に片付けておかなければならない問題は、人称をどうするかということだ。「ぼく」とするか「かれ」とするか。一人称にも三人称にも一長一短があり、どちらにするか決めかねている。
  だが、そんなごく初歩的なところで行きづまってしまうのは、私にこの小説の全体がまだ見えていないからなのだろう。私には、ノンフィクションを書く場合にも、書こうとしている作品の全体、極端に言えば最後の一行まで見えていないと書き出せないというところがある。どうやらその癖が小説を書く場合にも抜けないらしいのだ。しかし、たとえ人称をどのようにしたとしても、小説としての力を獲得するためには、虚構のバネによって思いもかけないほどの遠くに飛ばされる必要があり、そうである以上、この「血の味」の行く末にも、見透うそうとして見透せない、深い霧の中に包まれているような未知の部分が残ってしまうことに変わりはないはずなのだ。しかし、それがわかっていながら、私にはどうしても全体を掴み切ってから書き出したいという強い思いがある。曖昧なまま見切り発車することができない。あるいは、それは言葉を換えれば、未知のものに向かっていく勇気がない、というだけのことなのかもしれないのだが。」(2月12日)

  私は彼のノンフィクションやエッセーのファンだが(小説はあまり評価していない)、「書こうとしている作品の全体、極端に言えば最後の一行まで見えていないと書き出せない」というのは凄いなと思った。彼とはジャンルが違うから、比較は意味がないのかもしれないが、もし彼と同じ態度で執筆に臨んでいたら私は今日まで一本の論文もエッセーも書けなかっただろう。8割程度の見透しが立てば書き始める。あとの2割は書きながら考える。それが私の流儀だ。だから構想を立ててから書き始めるまではそれほど時間はかからない。その代わり、当初2割と見積もっていた不透明な部分がいざそのあたりにさしかかると思いのほか大きく重い代物で、つまり目算を誤っていたことが判明して、二進も三進もいかなくなるということがたまにある。そういうときは一からやり直すか(時間に余裕がある場合)、難所を避けて迂回路を進むかのどちらかだが(時間に余裕がない場合=急がば回れ)、気分としてつらいのは後者である。かなり自尊心が傷つく。沢木は「未知のものに向かっていく勇気がない」と自己分析をしているが、私の場合は、未知のものを甘く見る(甘く見ることによって不安から逃避する)癖があるのだろう。
  夕食はピーマンの肉詰め、サラダ、味噌汁、ご飯。菊川怜主演の「病院のチカラ~星空ホスピタル」を観てから、昨日の「現代人の精神構造」の講義要旨を作成し、現代人間論系の先生方に配信。本当は今日からなのだろうが、気分としては明日からGWだ。