フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

4月7日(土) 晴れ

2007-04-08 03:05:27 | Weblog
  さて、例の話の「続き」をしましょうか。
  基礎演習のクラスは自動振り分けなので、他の科目よりも一足早く履修者が決まる。私が担当するのは基礎演習21というクラスであるが、履修者26名の氏名を見ていて「あれっ?」と思ったのは全員苗字がヤ行なのである。しかも同じ苗字が多い。「山口」が8名、「山崎」が5名、「矢野」が4名、「山田」が2名いるのである。つまり26名中、19名が自分と同じ苗字のクラスメートがいることになる。なぜこういうことになったのかというと、理由は簡単である。学籍番号順に上からクラスを決めていったからである。学籍番号は氏名のあいうえお順になっているから、そういう機械的なやり方をすれば、当然、こういうことになるのである。こうならないためにはランダムな方法(データベースの乱数機能)でクラス分けをすればよいのだが、その手順が抜け落ちてしまったのである。そして気づいたときには、すでに学生たちは割り当てられた基礎演習および語学授業の曜日・時限を既定事実として各自の科目登録を行っているところで、この時点でのクラス変更は科目登録の大きな混乱につながるため、初年度はこの学生番号順=あいうえお順のクラス分けでいかざるをえなくなった…というわけである。
  同じ苗字、似た苗字の学生がクラスに多いことのマイナス点は2つある。第一に、苗字によって学生を識別することが困難になること。人名に限らず、一般に名前の機能はその事物を他の事物と区別することにある。「南の島のハメハメハ大王」という有名な童謡をがあるが、その島では大王以下すべての島民がハメハメハという名前なので、「おぼえやすいがややこしい」のである。これほど極端ではないが、われわれの社会でも、小さな村に行くと同じ苗字の家がいくつもあるというのはみんな知っていることである。そう、基礎演習はこうした村的状況を呈しているのである。第二に、名前はその人のアイデンティティと深く結びついているから、同じクラスに自分と同じ苗字の者が何人もいるという状況は、一種のアイデンティティの危機(不安)を呼び起こすだろう。そして自分という本来唯一無二の存在がぞんざいに扱われているような気がするだろう。
  さて、どうするか。私はここ数日、ずっとこのことを考えていた。そして自分がつくづく社会学者であることを自覚した。つまり、こうした非常識というか脱常識的状況を、どこか楽しんでいる自分、わくわくしてしまっている自分を発見したのである。「困ったな」と思う一方で、「これは面白いことになった」と感じているのである。自分たちがあまりまえだと思っていること、その自明性を支えている暗黙の規範に気づくこと、それを相対化し、距離をおいて観察し考察すること、それは社会学的思考の基本である。今回の「実験」は社会学的思考を大いに刺激してくれるものである。
  実践的に考えるならば、苗字の個人識別の機能が大きく低下してしまった以上、下の名前(ファーストネーム)あるいは愛称を個人識別のために活用することはほとんど必然的なことではなかろうか。実際、学生同士は通常でも下の名前あるいは愛称でお互いを呼び合っている。自己紹介で自分のことを「○○と呼んでください」という学生(とくに女学生)は多い。ここはひとつ、そうした若者文化に教師も飛び込んでいこうではないか。最初はちょっと(かなりか?)抵抗があるだろうが、とにかく非常事態なのであるから、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、である。相互作用という観点からすれば、学生が教師を呼ぶときも、私の場合であれば、「大久保先生」ではなく「孝治(たかじ)先生」でお願いしたい。なんだったら「タッキー」という愛称で呼んでくれてもいい(実はここ数日の思案の大部分は自分自身の愛称を考案することに注がれていたのである)。フレンドリーなクラスになること請け合いである。
  教師と学生がファーストネームないし愛称で呼び合うという新しい文化を構想する…まさに文化構想学部の初年度に相応しいプロジェクトといえないだろうか(中島みゆきの「地上の星」がどこかから聞こえてくる)。このプロジェクトを成功させるためには、まず隗より始めよ、教師同士がファーストネームで呼び合うことである。実は、文学構想学部および文学部には「大久保先生」が私を含めて3人いる(専任に限定しての話)。他にも苗字の同じ教師は何組かいる。これでときどき混乱が生じる。その混乱を回避するために「社会学の大久保先生」なんて言い方が使われるわけだが、これからは「現代人間論系の大久保先生」になるのでチト長い。幸い「たかじ」という名前は他にいないので「たかじ先生」でお願いできないだろうか。廊下で会ったときだけでなく、教授会などのフォーマルな場でもそうしてほしい。もちろん「タッキー先生」でもよい。外国人の先生方には「たかじ」より「タッキー」の方が発音しやすいだろう。プリーズ・コール・ミー・タッキー。30歳ほど若返った気分になる(4月11日で23歳になりますが、なにか?)。教授会もなごやかな雰囲気になり、5時前には終わるのではないか。
  不手際を責めたり悔やんだりすることは誰にでもできる。アクシデントを好機に変換するにはエスプリとユーモアが必要である。幸い文化構想学部と文学部の教員にはそうした資質に恵まれている人が多い。よかった、他の学部じゃなくて。