陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

335.岡田啓介海軍大将(15)五・一五事件の陰の張本人は君だ

2012年08月24日 | 岡田啓介海軍大将
 岡田大将は、東郷元帥に、その難しい事情を説明して、「なお、軍令部ではすでに補充計画もできておりますので、もし元帥の御承認がなければ、谷口もまた辞めなければならなくなります」と言って、その日は元帥邸から帰ってきた。

 後日、岡田大将は再び元帥邸を訪れ、東郷元帥に「御批准の前に、全権たる海軍大臣が辞めては、海軍が政治問題の渦中に入ることになります。それにどんな理由にせよ、今大臣が辞めては、世間では、海軍が大臣に詰め腹を切らせたように見られ、海軍は一部の人士からうらみを買うことにあります」と言った。

 すると、東郷元帥は「そうではないだろう。私が財部に辞めろ、と口に出して言えば政治問題に関係したことになるが、財部が自発的に辞めるのに、どうして政治上の問題になるんだ。このごろ私に色々言って来る者がいるが、私は取り合わんようにしている。ただ聞いているだけだ。軍人が政治に関係してはならんから、その点私も大いに注意している」と言った。

 岡田大将も「どうぞ御自重くださるように」と言った。

 このような曲折があり、九月に枢密院が御批准のことを決議し、昭和五年十月二日、濱口総理はロンドン条約御批准のことを上奏し、御裁可を得る運びになった。

 だが、濱口総理は十一月十四日、東京駅で愛国社社員の佐郷屋留雄に銃撃され倒れた。その後濱口総理は翌年の昭和六年三月に無理をして衆議院に登院したが、その年の八月二十六日亡くなった。

 このロンドン軍縮条約を契機に、海軍では、ロンドン条約に賛成する「条約派」(海軍省側)と、反対する「艦隊派」(軍令部側)というものが現れてきた。

 昭和七年頃、後に末次信正海軍中将(海兵二七・海大七首席)が第二艦隊司令長官で鎮海に入港した。その時、酒の上で、米内光政中将(海兵二九・海大一二)と末次中将が口論となった。

 日頃おとなしい米内中将が、「五・一五事件の陰の張本人は君だ。ロンドン会議以来、若い者を炊きつけてああいうことを言わせたり、やらせたり、甚だけしからん」と二期先輩の末次中将の胸ぐらをつかんで詰め寄った。

 末次中将は憤然としていたが一言も言葉を返さなかったという。以後米内と末次は、会っても口もきかない犬猿の仲になった。昭和八年の海軍の定期異動で末次中将は連合艦隊司令長官、米内中将は佐世保鎮守府司令長官に補された。

 昭和七年五月十五日、海軍の青年将校らにより、五・一五事件が起こり、犬養毅(いぬかい・つよし)首相(岡山・慶應義塾大学・記者・衆議院議員・文部大臣・逓信大臣・首相・勲一等旭日桐花大綬章)が暗殺された。

 そのあと、海軍出身の斎藤実海軍大将に組閣の大命が下った。岡田啓介海軍大将は、斎藤実大将から呼ばれ、昭和七年五月二十六日海軍大臣に就任した。

 その後昭和九年七月八日、斎藤実の後を受けて、岡田大将は内閣総理大臣兼拓務大臣に就任した。

 昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が起こり、岡田首相は三月に辞任、謹慎生活に入り、昭和十三年一月二十一日海軍を退役した。

 「自伝的日本海軍始末記」(高木惣吉・光人社)によると、昭和十九年二月十五日、当時海軍大学校研究部部員だった高木惣吉(たかぎ・そうきち)海軍少将(海兵四三・海大二五首席・教育局長・内閣副書記官長)は、淀橋角筈(新宿区)の岡田啓介大将(海兵一五・海大二)を訪ねた。

 高木少将は、戦局の現状から、東条英機首相(陸士一七・陸大二七)、嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)海軍大臣(海兵三二・海大一三)のコンビでは、この難局を救うことはとても不可能と思う旨を述べた。

 岡田大将も戦局の前途を深く憂慮し、米内光政大将(海兵二九・海大一二)の現役復帰に賛成で、その前提として嶋田海相を支持している伏見宮博恭王(ふしみのみや・ひろやすおう)元帥(ドイツ海軍兵学校卒・ドイツ海軍大学校卒・海軍大学校長・第二艦隊司令官・佐世保鎮守府司令長官・軍令部総長など歴任)を説得する必要があるとの意見だった。

 また、二月十九日には、密かに上京していた連合艦隊司令長官・古賀峯一(こが・みねいち)大将(海兵三四・海大一五・殉職・元帥)を高木少将は訪ね、会談を行った。

 高木少将は、古賀長官から嶋田海相、永野修身(ながの・おさみ)軍令部総長(海兵二八)に強硬な要求を提言し、これが満たされねば作戦上の責任がとれないと、ひざ詰め談判をするよう求めた。

 だが、古賀長官の返答は高木少将を失望させるもので、直訴は空振りに終わった。