陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

336.岡田啓介海軍大将(16)東条が戦争遂行に邁進できるように参謀総長に転出させることだ

2012年08月31日 | 岡田啓介海軍大将
 「東条英機暗殺計画」(工藤美知尋・PHP研究所)によると、この会談で、古賀長官の話を注意深く聞いていた高木少将は、長官の立場とか海軍の伝統とかいうことに固執して官僚的体質を抜け出ることのできない古賀長官に、ある種の失望感を感じた。

 それでも会談の最後に古賀長官は憤懣をこめて「世の中にもしも陸軍なかりせば人の心はのどけからまし」という「絶えて桜のなかりせば」をもじった歌を口にした。

 高木少将は嶋田海相更迭を実現するため、嶋田海相の後援者である伏見宮元帥を嶋田海相から引き離す工作を、元首相で重臣の一人である岡田啓介海軍大将を通じて行うことにした。

 岡田大将は、昭和五年、ロンドン海軍軍縮条約が締結されたとき、統帥権干犯問題で分裂した海軍部内の抗争を調整した手腕で、宮中方面の信頼を集めており、艦隊派、条約派のいずれにも重しのきく人物だった。

 太平洋戦争当時、東条首相兼陸相は、内政、外政、戦局の情報を一手に握っており、重臣たちは戦局の実相を何も知らないのが普通だった。

 だが、岡田大将の周囲には、まず長男の大本営参謀・岡田貞外茂中佐(海兵五五次席・軍令部作戦課・対米作戦主任・昭和十九年フィリピン方面で戦死)がいた。

 また、義弟(二・二六事件で岡田首相と見誤られて死亡した松尾伝蔵陸軍大佐)の娘婿は瀬島龍三陸軍少佐(陸士四四次席・陸大五一首席・軍令部部員・大本営参謀・中佐・関東軍参謀・戦後伊藤忠商事会長・土光臨調委員・従三位)だった。

 さらに、岡田大将の娘婿には内閣参事官・迫水久常(東京帝国大学卒・大蔵省・理財局金融課長・総務局長・銀行保険局長・鈴木貫太郎内閣書記官長・貴族院議員・戦後衆議院議員・池田内閣郵政大臣・勲一等旭日大綬章)もいた。

 彼らは、岡田大将にとって、各方面の事情に精通した近親者であり、月に一回程度、会食をするということで、定期的に岡田大将の自宅に集まっていた。

 そのようなわけで、当時戦争の最高機密をなかなか伺い知ることができなかった重臣たちの中で、岡田大将は比較的詳しく戦況を知り得る立場にあった。

 岡田大将は昭和十八年に入ると、戦局の前途にまったく悲観的になっていた。終戦に推し進めるためには、まず東条内閣を倒すことだと考えた。

 「宰相岡田啓介の生涯」(上坂紀夫・東京新聞出版局)によると、岡田大将は、東条首相を辞めさせるには、まず東条を推薦した思慮深い宮廷官僚である内大臣・木戸幸一(京都帝国大学法学部卒・農商務省・産業合理局部長・内大臣府秘書官長・内務大臣・内大臣・侯爵)に東条首相の進退を考えさせることにあると思った。

 だが、憲兵に監視されている岡田大将が直接木戸内大臣に会うことは極めて危険だった。そこで、娘婿の内閣参事官・迫水久常にその方策を説明し、木戸内大臣に面会させることにした。

 岡田大将は「東条だってむざむざ内閣は投げ出さない。そこで東条が面目を損なわないで首相の地位を去るようにしむける。その方法は、東条が戦争遂行に邁進できるように参謀総長に転出させることだ」と迫水に説明した。

 水にも憲兵が付きまとって危険だったので、木戸と親しい有馬頼寧(ありま・よりやす)伯爵(東京帝国大学農学科卒・同大学助教授・衆議院議員・農林大臣・戦後日本中央競馬会理事長・勲一等瑞宝章・久留米藩主第十五代当主)に仲介を頼んだ。

 こうして昭和十八年八月八日、友人の美濃部洋次(東京帝国大学法学部卒・商工省・企画院課長・商工省機械局長・戦後日本評論新社社長・元東京都知事美濃部亮吉の従兄弟)と一緒に荻窪の有馬邸で木戸内大臣と昼食会を持った。

 迫水は木戸内大臣に次のように言った。

 「戦局がますます不利になって参りました今日、もっとも重大なことは国内の政治よりむしろ軍の作戦指導にあると思われます。極端に申しますと、首相は誰でもよい、むしろ作戦指導に直接当たる参謀長に立派な人を得なければなりません」

 「その点、東条首相は智謀きわめてすぐれ、しかも機敏。この際、東条閣下を参謀総長に据えて、戦争のことを専門にやっていただき、国内政治のことは適当な方にお願いしたらいかがでしょう」。

 木戸内大臣は黙って迫水の提案を聞いていた。確かにその通りだが、迫水の更迭案を鵜呑みもできない。さてどうすべきか。