陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

337.岡田啓介海軍大将(17)重臣たちは東条首相一人を取り囲むように東条首相に迫った

2012年09月07日 | 岡田啓介海軍大将
 思案の末、木戸内大臣は次のように答えた。

 「内大臣というものは、鏡のようなものであって、つまり、世論や世間の情勢を映してそのまま陛下のお耳に入れる役目をするものです。自分自身の意見で動いてはならないし、世論を自分の感情でゆがめて陛下にお伝えすることもつつしまなければなりません」

 「しかし、もし、世論が東条内閣に反対だということになったら、その時は陛下にそのままお取次ぎをします。念のためですが私はあくまで東条内閣を支持するつもりはありません」。

 これに対し、迫水は次のように言った。

 「世論が大切だとおっしゃられるご高見もっともなことです。しかし、現実に今の世の中、世論の実態というのがつかみにくくなっています。新聞は検閲制度で口を封じられ、戦意高揚の記事ばかりのことは毎日ご覧の通りです」

 「議会だって翼賛政治で政府案はすべて満場一致で賛成。うかつに本当のことを言えばたちまち検束、たとい東条内閣に反対していても表に出せる状態ではありません。しかし、国民の心の中に、言わず語らずのうちに湧き上がっている気持ちを世論と見なすわけにはいきませんか」

 「事実、軍部内でも物資の需給、戦況の推移など確かな情報を持っている人たちは、日本が壊滅的な状態になる前に戦争を終結できないものかと考えています。しかし、仰せの通り現状では世論は形になりません。でもなんとかしなければ……」。

 迫水の言葉にしばらく目を閉じていたが、木戸内大臣はやがて、つぶやくように次のように言った。

 「世論というものは、そういう形ばかりではないでしょうな。たとえば、重臣たちが…、重臣とはその名の通り、日本の運命を支えてきた中枢の方々です。それらの人が一致してあることを考えたとする、それも一つの世論となりますよ」。

 迫水は木戸内大臣の含みのある言葉を反芻し、有馬邸を辞して、岡田大将に、木戸内大臣の言葉を報告した。

 昭和十八年十月、岡田大将は近衛文麿(東京帝国大学哲学科・京都帝国大学法学部卒・貴族院議員・貴族院議長・首相・公爵)、平沼騏一郎(東京帝国大学法学部卒・司法大臣・首相・男爵・法学博士)との三者連盟で、東条首相に対し、第一回重臣懇談会への招待状を出した。

 岡田大将の意図は、東条首相一人だけを呼んで、忌憚のない意見を彼に浴びせ、やりこめることにあった。重臣懇談会の場所は華族会館の貴賓室だった。

 他の重臣たちもこの際東条首相に遠慮のないところを言ってやろうと、七名全員が集まった。やがて東条首相がやってきたが、東条首相も重臣たちの魂胆を知ってか、なんと、大本営、政府連絡会議員などぞろぞろと手勢を引き連れてやって来たのだ。

 これでは、何のための会か分からなくなってしまい、誰もおざなりのことしか言わなかった。だが、これがきっかけとなって、月ごとに主催が交代して毎月例会となった。

 岡田啓介大将は、いつかは機会がくると考えて、若槻禮次郎(わかつき・れいじろう・東京帝国大学法学部首席卒・大蔵省主税局長・大蔵次官・貴族院勅撰議員・大蔵大臣・内務大臣・首相・勲一等旭日桐花大綬章・男爵)や近衛文麿としばしば会合して情報の交換をしていた。

 毎回、とりとめもない会合なので東条首相も安心したのか、五回目、年が明けての昭和十九年二月、一人でやって来た。チャンスが到来した。

 重臣たちは東条首相一人を取り囲むように東条首相に迫った。言葉こそ穏やかだったが、匕首のような鋭さがあった。

 中でも若槻禮次郎が一番熾烈だった。若槻は歴代政治家の中でも最高の頭脳明晰な人物とされ伝説的に語られる人である。

 若槻は現在の政治・経済の分析、また戦況に関する判断はきわめて明快であり、それを適切に指摘していった。東条首相の知らないことまであった。さらに次のように批判した。

 「政府は口では必勝を唱えているようだが、戦線の事実はこれと相反している。今は引き分けという形で戦争が済めばむしろいい方ではないか。ところがそれも危ない。こうなれば一刻も早く平和を考えなければならないはずだが、むやみに強がりばかり言って戦争終結の策を立てようともしない」

 「開戦直前の昭和十六年十一月十三日、十五日に決定された『対米英蘭蒋戦争終結促進に関する腹案』を見ると、まず方針の(一)に次のように書いてある。『速に極東における米英蘭の根拠地を覆滅して自存自衛を確立するとともに、更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し、独・伊と提携して先ず英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む』と」