陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

339.岡田啓介海軍大将(19)それは大変だ!年寄りもこうしてはおれん!

2012年09月21日 | 岡田啓介海軍大将
 「いったいこの内閣は温かみがない、と一般が言っております。東条は地方長官会議で、国民に対し親切に扱えと訓示しましたが、官吏は力ずくで国民を圧迫して、民心は政府を離れています。これでは、何が起こるかわかりません」

 「一時混乱状態になることもありうることで、そういう際には、海軍の事情をよく知っている者が局に当たることが必要だと思います。それには人望の比較的多くある米内大将を現役に復帰せしむる必要ありと思われます」。

 低姿勢ながらも、嶋田に対する支持を断念するように迫る岡田大将の言葉に、伏見宮元帥はたじろいだ。伏見宮元帥は次のように答えた。

 「準備がなくていくさをすれば、こういうことになるのは明らかだ。大東亜戦の前に陛下から御下問があった際、この戦いはとうてい免かるることはできませぬ。免かるることはできぬとすれば、早くやった方がよろしいと申し上げた」

 「すると陛下は、『それにしても今少し待ちたい。結局やらなければならぬだろう。私もその覚悟はいたしている』と仰せられたが、準備はなかったが仕掛けられたいくさだから、これはやむを得なかった」

 「嶋田は一部長としても、次長としても、二回下におって、人となりはよくわかっている。あれは腹も据わっているし、言葉少なで実行力が大だ。及川が辞めるとき、そのあとに豊田を持ってきたが、豊田は口数が多く実行力が少ない。陸軍との間には、どうしても(協調して)行けない関係がある」

 「それゆえ私は嶋田を推した。今でも最も適任の海軍大臣と思っている。……米内を現役に列してどうしようとするのか」。

 この言葉を待っていたように、岡田大将は身を乗り出して、次のように述べた。

 「軍事参議官としておけばよろしいと思います。嶋田を助け、内情を承知しておれば、何かあったときにも、現役でないと予備ではどうすることもできません」。

 これに対し、伏見宮元帥は次のように話した。

 「それはそうだ。予備では何もできない。米内が総理大臣になるとき、私は米内がこれを辞して軍務に専念してくれたらよいと考えておった。米内が受けたものだから、はなはだ遺憾に思ったのだ」

 「それでも米内を現役に置きたかったが、米内が現役の方を辞したからやむを得なかった。岡田大将の米内を現役にするという考えは一応道理があると思う」。

 岡田大将の必死の説得により、伏見宮元帥の嶋田支持もだいぶ崩れてきた。それを見た岡田大将は、次のように述べ、最後の詰めをした。

 「私がこのことを嶋田に申してもよろしゅうございますが、さよういたしますと、これがもつれると非常に厄介でありますから、殿下の御内意を御附武官にでもお含め下さって嶋田にお伝え願えますれば、実にありがたいと存じます……」。

 すると、伏見宮元帥は次のように答えた。

 「それは岡田大将が言ったのではいかん。私が二十日か二十一日、卒業式のために東京に行くときに嶋田に言うのがいちばんよい。そして早い方がよいと思う。しかし、私にもなお考えさせてくれ」。

  以上でこの会見は終わった。当初岡田大将としては、海相・米内光政大将、次長・末次信正(すえつぐ・のぶまさ)大将(海兵二七・海大七恩賜・連合艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・内務大臣)の腹案で米内の現役復帰を図りたいと思っていたが、伏見宮元帥の嶋田支持が相当に強いのを感じたため、米内の軍事参議官就任という線で妥協し、説得したのだった。

昭和十九年三月三十一日、パラオからフィリピンのダバオへ航空機で移動中の連合艦隊司令長官・古賀峯一大将(海兵三四・海大一五・元帥)が低気圧に遭遇し墜落、殉職した(海軍乙事件)。

 「自伝的日本海軍始末記」(高木惣吉・光人社)によると、古賀司令長官行方不明後、後任の連合艦隊司令長官に豊田副武大将(海兵三三・海大一五首席・軍令部総長)の親任式が四月四日午後に済んでいた。

 四月八日、当時教育局長であった高木惣吉少将がこの古賀司令長官殉職の悲報を、岡田大将を訪ね伝えると、岡田大将は「それは大変だ!年寄りもこうしてはおれん!いったいどうすればいいと思うか?」とたたみかけて、真剣な質問をした。