陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

303.本間雅晴陸軍中将(3)本間は「西洋かぶれ」「親英派」「腰抜け将軍」など悪評を被った

2012年01月13日 | 本間雅晴陸軍中将
 ところで、陸軍士官学校の外国語教育は英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、支那語の中から一科目選択するものだったが、中学卒業者にはすでに基礎のできている英語を習得させ、幼年学校出身者には他の外国語を学ばせた。

 後に本間雅晴が、駐英武官となり、ことさらに親英派と目されて、親独派から感情的な非難攻撃を受けるようになった遠因はこの制度にもあった。

 昭和二十一年、マニラの軍事法廷で、本間の証人の一人であった陸士同期生、舞伝男(まい・でんお)中将(陸士一九・陸大三一・第三六師団長・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)は、本間雅晴と東條英機の確執について次のように述べている。

 「陸軍内部で、中学出と幼年学校出はとかく反目しがちだった。東條が幼年学校出身、本間が中学出身であったことも、二人の不仲の原因の一つ」。

 マニラ軍事法廷でのこの証言について「日本陸軍内部の恥をさらすものだ」との批判があったが、舞元中将は「日本破れ、陸軍も消滅した今となって、その名誉にこだわる必要があろうか。真実を述べることで、本間が有利になるならば……」と答えている。

 明治三十八年十二月陸軍士官学校に十九期生として入校した当時の本間雅晴の手記が、富士子夫人の手許に保存されている。

 字画の正しい達筆のペン字で、彼は「なんたる光栄……」と書き出し、感激に震えて、天皇への忠誠、国家への奉仕を誓い、入校の覚悟をうながしている。

 軍人勅諭の中の「朕は汝等軍人の大元帥なるそ されは朕は汝等股肱と頼み 汝等は朕を頭首と仰きてそ 其親は特に深かるへき」の一節に、本間ははるか遠い存在であった天皇と、いま軍人となった自分が直結していることを知った。

 この一体感は本間にとって青天の霹靂であった。その驚きと感激から、手記の「なんたる光栄……」がひきだされた。十八歳の本間に雷撃のように響いた“誠心”は、彼の一生を貫くことになる。

 のちに本間は「西洋かぶれ」「親英派」「腰抜け将軍」など悪評を被った。知識と思考を持った人間のなまぬるさの一面を批判されたのだが、本間は最後まで和平工作に努力を注いだ。

 指輪をはめ、長髪をポマードで光らせ、子供たちに「パパ」と呼ばせるなど、三十代までの本間には軍人らしからぬ時代があった。

 だが、そうした私生活上の好みは、本間の信条である「天皇への忠誠、国家への奉仕」を、何らさまたげるものではなかった。

 後年、日独伊三国同盟に反対し、戦争の早期終結を願った本間は、東條英機をはじめ強硬派の指導層に嫌われたが、彼は一身上の不利を承知の上で最後まで信念を貫いた。

 “文化将軍”と呼ばれ、表面は軍人らしからぬ点の多かった本間だが、奥底は、純粋で真正直な性格から、軍人勅諭のゆるぎない信奉者であった。

 陸士同期で本間と親友だった舞伝男元中将の話によれば、卒業間近に、同期生の一人が何か間違いを起こして処罰されることになった。

 本間はその男がかわいそうでたまらず、舞のところに「なんとかかばってやろう」と相談に来た。だが、舞は、その男の行為は罰を受けて当然と思っていたので断った。

 その後、本間と舞は陸軍大学校に入るまで疎遠になった。本間は舞が温情を示さなかったことが、ひどく不満だった。それほど本間は情に厚い男だった。

 舞は回想して「本間は能力の高い立派な男だったが、どちらかといえば、武より文の方面に進むべきではなかったか。とにかく軍人向きの生まれつきとはいえなかった」と述べている。
 
 明治四十五年五月、本間雅晴は陸軍士官学校を卒業した。入校以来一年六ヶ月の間に、百十五人が落伍していた。

 「マサハル二バン 三〇ニチシキ」という母・マツあての電報が、佐渡の生家に保存されている。同期生はみな本間が一番であろうと予測していたが、“目から鼻に抜けるような才子”と評された高野重治(のち柳下と改姓)が首席だった。

 本間は区隊長に売り込んで好印象を与えようなどということは一切しなかった。世渡りの下手さ、不器用さは彼の一生に付きまとっている。