陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

312.本間雅晴陸軍中将(12)君は陸大の優等生でありながら、妙なことを言うね

2012年03月16日 | 本間雅晴陸軍中将
 第四八師団長・土橋勇逸中将の昭和十七年一月一日の「土橋日記」に、マニラ市への一番乗りなどよりも、バターン半島へ米比軍を逃した第一四軍の処置を不満とした内容の記述が見られる。

 一月一日の「土橋日記」には第一四軍から派遣されて来た軍の作戦主任参謀・牧達夫中佐(陸士三六・陸大四五首席・大佐・第四軍高級参謀)とのやり取りが次の様に克明に描かれている。

 「十七時ごろ、牧軍参謀来たり、一六師団と同時入城せしめたいから、師団のマニラ入城を待つようにという軍司令官(本間雅晴中将)の意図を伝えた。一番乗りなど別に眼中にないから快諾した。が自由に前進を許していたら、師団はこの正月にマニラに入城できたのであった」

 「私は牧参謀に対し、あれほど度々意見を具申したのに、軍が一顧も与えなかったため、遂に敵をバターンに逃がしたではないか、となじったところ、牧君は『いや閣下、ご心配は無用です。バターンに逃げ込んでも永く抵抗などできません。全く袋のねずみ同様に、わけなく潰せます』と答えた」

 「私は『君は陸大の優等生でありながら、妙なことを言うね。あるいは袋のねずみでわけなくたたけるかもしれぬが、戦術というものは機会を求めて殲滅を図るべきではないか。パンパンガ河の東でたたき得る絶好の機会があるのを、何の処置もせず、みすみす逃しておいて、いや、バターンでやりますからとは何事だ』と大渇した。隣室に集まっていた新聞記者連中が驚いたそうである」。

 土橋中将は翌一月二日にも、第十四軍参謀長・前田正実中将(陸士二五・陸大三四)に対しても同じような苦言を呈している。一月二日の「土橋日記」は次の通り。

 「早朝、前田軍参謀長が新年のちいさなモチを持って来てくれた。私は前田君にも、軍が敵をバターンに逃がしたことを非難し、『軍はなぜ私をバターンへ行けと命令しないのか』と問うた」

 「前田君いわく、『いや軍司令官はそのことを望んでいるのですが、師団の任務はマニラ占領であり、またジャワ作戦の準備(四八師団はマニラ占領後、ジャワに転進することに決定していた)をせねばならぬから、土橋に要求しても承知せんだろう、と言っている』と」

 「私は驚いた。いやしくも戦場である。必要ならば、そんな下らぬことを言っている場合ではなかろう。『よろしい、私は直ぐ命令を下してバターンへ行く。が次の作戦準備もあるから永くは無理だ。一週間という約束で押せるところまで押してあげよう』と答えた。そして即座にバターンへの転進を命じた」。

 だが、第四八師団のバターン総攻撃は成功しなかった。マニラを占領したことで士気が十分ではなかったとも言われている。

 この状況は、「指揮官」(児島襄・文藝春秋)・「本間雅晴」の章に詳細が述べられている。それによると、昭和十七年一月二日、マニラ市は陥落した。

 すでにオープン・シティ(無防備都市)が宣言され、陥落というよりも、明け渡された感じだった。市内は無秩序状態で、無頼の徒が横行し、キャバレーは騒々しく営業を続けていた。

 第十四軍司令官・本間雅晴中将(陸士一九次席・陸大二七恩賜)は、参謀長・前田正実中将(陸士二五・陸大三四)の献言に従い、参謀副長・林義秀少将(陸士二六・陸大三五・第五三師団長・中将)、高級参謀(情報)・高津利光大佐(陸士三二・陸大四〇・第二三師団参謀長・少将)、参謀(作戦)・牧達夫中佐(陸士三六・陸大四五首席・大佐・第四軍高級参謀)、参謀(情報主任)・中島義雄中佐(陸士三六・陸大四四恩賜・大佐・参謀本部教育課長)らに、軍政担当を命じた。

 マニラ占領で一応の作戦は終わり、あとは占領行政でフィリピン市民の対日協力を確保すべきだ、という前田参謀長の意見は、広い視野を持つ本間中将の意にかなった。

 また、前田参謀長は、「バターンの敵は封鎖により自滅させるべきだ」と述べたが、近く第四八師団を転用され、兵力が不足する第十四軍にとっては、適切であると本間中将は最終的に判断した。

 第四八師団長・土橋中将からは、しきりに「戦いの目的は敵軍の撃滅にある、不動産(土地)の確保ではない」といった進言がよせられるが、本間中将は、前田参謀長に次のように言ったという。

 「『海』(第四八師団の暗号名)はジャワ行きの準備もある。追撃は必要だが、実際に命令しては『海』も良い気持ちはしないのでは、ないかな」。

 この意向が伝えられると、土橋師団長は、心外の思いにかられ、次の様に述べた。

 「何という遠慮だ。いやしくも戦場ではないか。必要とあれば、どんな命令でも出すべきであろう。よろしい、私はすぐバターンに行く」。

 だが、第四八師団は、確かにジャワ行きの準備があり、バターン半島入り口付近で数日間の戦闘をしたにとどまり、本格的なバターン攻撃は、第六十五旅団に命ぜられた。