陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

319.本間雅晴陸軍中将(19)本間中将は終戦まで第一線に復帰することはなかった

2012年05月04日 | 本間雅晴陸軍中将
 さらに、藤田相吉大尉は次の様に述べている。

 「しかしそれは裁判の誤りである。米比軍がこの捕虜の移動を“死の行軍”というならば、戦勝国たる日本軍の移動は“超死の行軍”だ」

 「いったい米比軍は持てる弾を撃ちつくし、持てる食糧を食い尽くすまでは頑強に抵抗し、これが尽きれば平然として手を上げる。降伏すれば、その時から日本軍はわれわれを給養する義務があるとうそぶく」

 「虫のよい考えである。国際条約があったにしても、日本軍はかくも多数の捕虜がジャングルの中から出るとは予想もしていない。したがって、糧食や医療の材料も輸送の機関も収容所の準備もない。なぜ糧食の余裕のあるうちに降伏しないのか、と言いたい」

 「コレヒドールの敵はまだ降伏していないではないか。しかも現に捕虜と並列して進む日本軍の姿を見よ。重い装具をつけて、あえぎながら進んでいるではないか。貴様らにさんざん撃たれ、肉体的にも精神的にも言語に絶する苦難に耐えた日本軍だ。できれば背負える背嚢も貴様らに負わせてやりたいぐらいだ」

 「貴様らを軽装で行軍させるのが、むしろ慈悲だと思え、と言いたい。勝った軍が、負けた軍以上の苦しみを味わねばならん理由はないのだ」。

 昭和十七年五月六日、コレヒドールがついに陥落した。「ふみにじられた南の島」(NHK取材班・角川書店)によると、その翌日、ウェインライト中将は、極東アメリカ陸軍全軍に対し、降伏するようラジオで放送した。

 この放送を聴いた、ビザヤ地区とミンダナオ地区の司令官だったシャープ少将は、マッカーサー大将の指示を仰いだ。

 オーストラリアのメルボルンにいたマッカーサー大将は次のように返電した。

 「ウェインライトの命令は無効である。可能ならば、貴官の兵力を小兵力に分割して、ゲリラ作戦を展開せよ。……貴官は緊急事態に際して自己裁量権を有する」。

 シャープ少将はマッカーサー大将の指示に基づき、武器を持って故郷に帰り、抵抗を続けるように部下に命令した。

 アメリカ政府が、マッカーサー大将の極東アメリカ陸軍に対する指揮権を停止した後、ようやくウェインライト中将の降伏命令を伝えたが、すでに解散した軍隊には行き渡らなかった。

 日本軍はバターン攻略にかかりっきりで、ビザヤ・ミンダナオ地区はほとんど手付かずの状態だった。指揮の混乱の中、帰郷した武装将兵たちは、同地区における抗日ゲリラ勢力の核となり、やがて日本軍を苦しめることになる。

 昭和十七年八月三十一日、本間雅晴中将は、バターン攻撃の際、その指揮が消極的で、大本営や南方軍の意図に添わなかったとしてとがめられ、第一四軍司令官を解任され、予備役編入となった。

 その後本間中将は終戦まで第一線に復帰することはなかった。

 本間中将の後の第一四軍司令官は、昭和十七年八月一日から田中静壱中将(陸士一九・陸大二八恩賜・大将・第一二方面軍司令官兼東部軍管区司令官)、昭和十八年五月十九日から黒田重徳中将(陸士二一・陸大二八・第一四方面軍司令官)が就任した。

 第一四方面軍司令官としては、昭和十九年九月二十六日に、山下奉文大将(陸士一八・陸大二八恩賜)が就任し、終戦まで指揮官だった。

 昭和十九年十月二十日、レイテ島にアメリカ軍は上陸した。マッカーサー大将はアメリカ軍の第一陣が上陸した四時間後に上陸した。

 上陸した最初の日、マッカーサー大将は上機嫌で、砲手たちに「日本軍の具合はどうだ」と聞き、殺されたばかりの日本兵の死体を見かけると、濡れた足先でひっくり返して記章を調べた。そして満足気に「第一六師団だ。バターンでひどいことをやったのはこいつらだ」と言った。

 それから移動放送局のマイクに向かってラジオ用に演説した。その肉声のテープが、マッカーサー記念館に残されていた。それは、本間中将の第一四軍により、敗退させられたマッカーサーの報復の絶叫で、次の様のものだった。

 「フィリピンの皆さん。私は帰ってきた。全能の神の恵みにより、我らの部隊はフィリピンの国土に立っている。米比両国民の血によって贖われた国土である」

 「私のもとに結集せよ。バターンとコレヒドールの不屈の精神で進もうではないか。戦闘地域に入ったら立ち上がって撃て! 機会を逃さず、立ち上がって撃て! 皆の家族のために撃て! 息子や娘のために撃て! 戦死者のために撃て!」

 「アイ・ハブ・リターンド」(私は帰ってきた)。あの「アイ・シャール・リターン」の約束から、二年七ヶ月ぶりのフィリピンだった。