陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

315.本間雅晴陸軍中将(15)本間雅晴軍司令官が敗北の恥辱に耐えかねて切腹したらしい

2012年04月06日 | 本間雅晴陸軍中将
 ダグラス・マッカーサーは一八八〇年一月二十六日生まれ。一九〇三年(二十三歳)ウェストポイント陸軍士官学校を首席で卒業、陸軍工兵少尉に任官した。一九〇四年(二十四歳)中尉。一九〇六年(二十六歳)ワシントン・バラックス応用工学技術学校学生、セオドア・ルーズベルト大統領副官。軍務学校・騎兵学校教官。

 一九一一年(三十一歳)大尉。一九一三年(三十三歳)参謀本部部員。一九一六年(三十六歳)少佐、陸軍長官付軍事補佐官・陸軍省広報課長。一九一七年(三十七歳)第一次世界大戦参戦、大佐に昇進、第四二師団参謀長。

 一九一八年(三十九歳)准将、旅団長旅団長第八四歩兵旅団長。一九一九年(四十歳)ウェスト・ポイント陸軍士官学校校長。一九二〇年(四十一歳)一月正規の陸軍准将に任官。一九二二年(四十二歳)二月結婚(八年後離婚)、春、陸軍士官学校校長辞任、フィリピンに派遣。

 一九二五年(四十五歳)一月陸軍少将、フィリピン師団長。米本国アトランタの第四軍団地区司令官。一九三〇年(五十歳)陸軍参謀総長(史上最年少)、陸軍大将。

 一九三五年(五十五歳)少将に戻り、フィリピン軍顧問。一九四一年(六十一歳)七月陸軍中将、アメリカ極東軍司令官。一九四二年(六十二歳)連合国軍南西太陽方面総司令官一九四四年(六十四歳)十二月元帥に昇進。

 一九四五年(六十五歳)連合国軍総司令官。一九五〇年(七十歳)朝鮮戦争勃発により国連軍最高司令官。一九五一年(七十一歳)トルーマン大統領と対立、解任される。一九五二年(七十二歳)大統領予備選で敗北。一九六四年四月五日死去。享年八十四歳。

 ちなみにダグラス・マッカーサーの父、アーサー・マッカーサー・ジュニアは、一八四五年生まれ。十六歳で南北戦争に従軍し、驚異的な戦功により、十九歳で北軍の大佐に昇進、連隊長として、戦った。

 南北戦争終結後、再び少尉として陸軍に入隊、中尉、大尉となった。その後昇進が遅く、大尉を二十三年間務めた後、少佐、中佐、大佐になった。一八九八年米西戦争のとき、准将に昇進、旅団長として、フィリピン・マニラを攻略、その後軍事総督となった。一九〇九退官、中将に昇進している。

 昭和十七年三月八日頃、バターン半島のアメリカ軍の間に、日本軍の本間雅晴軍司令官が敗北の恥辱に耐えかねて切腹したらしいという噂が広がった。

 本間軍司令官は、敵に対する不可思議な賞賛を表し、マニラホテル内の、以前マッカーサー大将が借りていた部屋で自決したというのである。

 だが、この噂はまったくのデマであり、出所不明のいかがわしい作り話だった。

 日本軍の第二次攻撃の準備が進んでいるとき、マッカーサー大将は、三月十二日、夜暗にまぎれて、夫人と子供、中国人の乳母、それに十七人の幕僚を連れ、四隻の水雷艇でコレヒドール島を脱出した。ルーズベルト大統領の命令とはいえ、屈辱の撤退だった。

 脱出の一行は夜間だけ航行し、三月十四日未明、ミンダナオ島中央北部のカガヤンに着き、十六日夜、デルモンテ飛行場から、B-17三機に分乗し飛び立ち、翌三月十七日朝、オーストラリアのパチュラーフィールドに到着した。

 マッカーサー司令官がコレヒドール島を去った後、ウェインライト中将(三月十九日中将昇進)がフィリピン最高指揮官に任命され、ルソン島最高指揮官にはキング少将が任命された。

 パチュラーフィールドに着いたとき、マッカーサーは記者団からインタビューを受けた。「マッカーサー回想記」によると、そのときマッカーサーは次のように述べた。

 「私は米大統領から、日本の戦線を突破してコレヒドールからオーストラリアへ行けと命令された。その目的は私の了解するところでは、日本に対する米国の攻撃を準備することで、その最大の目標はフィリピンの救援にある。私はやって来たが、また帰る」。

 このときの「私は帰る」は、マッカーサーは「I shall return(アイ・シャール・リターン)」と言い、「I will return(アイ・ウイル・リターン)」とは言わなかった。「will」は単純未来や意思で(でしょう・つもり)を表すが、一人称の主語に使用された「shall」は義務や強い決意で(間違いなく帰ってくる)という意味で、マッカーサーの悔しさが裏返った強い表現になった。

 だが、マッカーサーがフィリピンに「帰ってきた」のは、それから二年七ヶ月も後のことだった。

 「帝国陸軍の最後1進攻・決戦篇」(伊藤正徳・光人社)によると、参謀総長・杉山元大将はシンガポールや蘭印を視察した足で、本間雅晴中将の司令部、マニラに立ち寄った。

 杉山大将の眼には、シンガポールの様相が軍政の下に粛然としているのに対し、マニラのそれが冗漫に映じ、大戦時下において、いささか緊張を欠いている印象を受けた。

 そこで杉山参謀総長は、シンガポールの厳粛なる空気と、山下奉文中将の政策態度とを口をきわめて激賞し、大東亜共栄圏内の各首都の行政はかくありたい旨を述べて、暗に、本間中将のマニラでの放漫政策を警告した。

 だが、本間中将は、フィリピン作戦に関する参謀本部の指導に心中憤りを秘めていた。苦戦百日、大いに感謝されてしかるべきところを、逆に遠まわしの非難を聞いては、腹の虫が収まらなかった。