昭和十九年十二月下旬、日本の大本営はレイテの放棄を決定した。太平洋戦争の「天王山」と位置づけられたレイテ決戦は失敗に終わった。第一四方面軍司令官・山下奉文大将は持久戦に入った。
昭和二十年二月末、マッカーサー元帥(昭和十九年十二月元帥に昇進)は、コレヒドール要塞奪回作戦を行った。陸海両面作戦で、パラシュート部隊を降下させ猛烈な攻撃を加えた。日本兵六〇〇〇人は、ほとんど捕虜も出さず、全滅した。
三月二日、マッカーサー元帥は脱出した時と同じく四隻の魚雷艇に幕僚たちを乗せ、脱出時と同じルートを逆行し、コレヒドール島に向かった。
マッカーサー元帥は始終上機嫌だった。要塞を奪回した部隊の指揮官が「将軍、コレヒドールを献上いたします」と言った。
マッカーサー元帥は彼に殊勲十字章を授け、国旗掲揚台が残されているのを見ると、星条旗を掲げるよう命じた。
日本の国策映画「東洋の凱歌」には、コレヒドール陥落直後、掲揚台から星条旗がひきずり降ろされ、日本兵がその旗を足であしらっているシーンがあったが、マッカーサー元帥はその雪辱を果たした。
昭和二十年八月十五日、終戦。その日、マッカーサー元帥は日本政府に対して、軍師をフィリピンのマニラに派遣し、降伏調印の手続きについて指示を受けるよう伝えた。
その際、マッカーサー元帥は「バターン」という合言葉を使えと命じた。日本政府側は「JPN」という文字を使いたいといったが、彼は絶対に「バターン」でなければならないと繰り返した。
マッカーサー元帥にとって「バターン」は唯一の負け戦の名であった。同時に雪辱を果たした栄誉の名でもあった。
マッカーサー元帥はマニラにやってきた日本の使節団に会わず、対応をサザランド参謀長に一任した。これ以降、彼は日本人の前に軽々しく姿を見せぬことで、威厳を保とうとした。
昭和二十年八月三十日、マッカーサー元帥は愛機「バターン」号で日本に飛び、厚木基地に降り立った。日本の記者団への第一声は「メルボルンから東京まで思えば長かった」だった。
九月二日、戦艦ミズーリー号で降伏調印式が行われた。マッカーサー元帥は、この場に、シンガポールで山下奉文中将に降伏したイギリスのパーシバル将軍と、コレヒドール脱出の際、後事を託したウェインライト将軍を連れてきた。
マッカーサー元帥は調印に当たって、四本の万年筆を使った。一本をトルーマン大統領に、一本はパーシバル将軍に、一本はウェインライト将軍に与えるため、そして一本は自身の記念のためだった。
「我々は不信と悪意、憎悪の精神をもって集まったのではない」という降伏調印式での演説とは裏腹に、マッカーサー元帥の執拗な復讐は実行されようとしていた。それはフィリピン決戦での、本間雅晴中将と、山下奉文大将に向けられた。
山下大将は九月三日、ルソン島北部のバギオで降伏調印式に臨んだ。フィリピンの戦いはマッカーサー元帥の勝利に終わった。
別冊歴史読本「秘史・太平洋戦争の指揮官たち」(新人物王来社)所収「悲劇の文人将軍・陸軍中将・本間雅晴」(村尾国士)によると、「バターン・デス・マーチ(死の行進)」は、「リメンバー・パールハーバー」と並んで、兵士の士気を鼓舞するためのアメリカ軍の二大キャッチフレーズだった。
世界に宣伝された「死の行進」は、勝者マッカーサーにとって、ぜひとも自分と戦った敵将の血で償わせる必要があった。それが山下奉文であり、本間雅晴であった。
さらに、マッカーサーにとっては、本間雅晴中将の指揮する第一四軍に追い上げられたフィリピン戦、バターン半島での敗戦とオーストラリアへの逃亡劇は、若かりし頃からの輝かしい軍歴の中で、最大の忌まわしい汚点だった。それが、マッカーサーの胸の中にわだかまりの影を落としていた。
この代償をマッカーサーは、本間雅晴中将に払わせることにした。マニラでの軍事裁判で、いかに本間中将の弁護が正当なものであっても、本間中将の妻、富士子夫人が裁判で「娘も夫のような人に嫁がせたいと思っています」と陳述しても、すべて無視された。
後日、三月十一日、富士子夫人はマッカーサー元帥に面会し「あなたが最後の判決をされるそうですが、裁判記録をよく読んで慎重にしていただきたい」と言った。
すると、マッカーサー元帥は「私の任務について、あなたがご心配される必要はありません」と返答している。マッカーサー元帥の裁判に対する決意は揺るがなかった。
昭和二十一年四月三日、山下奉文が絞首刑により処刑された同じ場所、フィリピン島ロスバニヨスで本間雅晴中将の銃殺刑が執行された。
マッカーサーは、その回想記に「これほど公正に行われた裁判はなく、これほど被告に完全な弁護の機会が与えられた例はこれまでになく、またこれほど偏見をともなわない審議が行われた例もない」と記している。
これは実際の裁判の進行状況から表面的には真実と言える。だが、現地から遠く離れたマッカーサーの心の奥底にある復讐心、それが消えることはなかった。これも真実である。
(「本間雅晴陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「岡田啓介海軍大将」が始まります)
昭和二十年二月末、マッカーサー元帥(昭和十九年十二月元帥に昇進)は、コレヒドール要塞奪回作戦を行った。陸海両面作戦で、パラシュート部隊を降下させ猛烈な攻撃を加えた。日本兵六〇〇〇人は、ほとんど捕虜も出さず、全滅した。
三月二日、マッカーサー元帥は脱出した時と同じく四隻の魚雷艇に幕僚たちを乗せ、脱出時と同じルートを逆行し、コレヒドール島に向かった。
マッカーサー元帥は始終上機嫌だった。要塞を奪回した部隊の指揮官が「将軍、コレヒドールを献上いたします」と言った。
マッカーサー元帥は彼に殊勲十字章を授け、国旗掲揚台が残されているのを見ると、星条旗を掲げるよう命じた。
日本の国策映画「東洋の凱歌」には、コレヒドール陥落直後、掲揚台から星条旗がひきずり降ろされ、日本兵がその旗を足であしらっているシーンがあったが、マッカーサー元帥はその雪辱を果たした。
昭和二十年八月十五日、終戦。その日、マッカーサー元帥は日本政府に対して、軍師をフィリピンのマニラに派遣し、降伏調印の手続きについて指示を受けるよう伝えた。
その際、マッカーサー元帥は「バターン」という合言葉を使えと命じた。日本政府側は「JPN」という文字を使いたいといったが、彼は絶対に「バターン」でなければならないと繰り返した。
マッカーサー元帥にとって「バターン」は唯一の負け戦の名であった。同時に雪辱を果たした栄誉の名でもあった。
マッカーサー元帥はマニラにやってきた日本の使節団に会わず、対応をサザランド参謀長に一任した。これ以降、彼は日本人の前に軽々しく姿を見せぬことで、威厳を保とうとした。
昭和二十年八月三十日、マッカーサー元帥は愛機「バターン」号で日本に飛び、厚木基地に降り立った。日本の記者団への第一声は「メルボルンから東京まで思えば長かった」だった。
九月二日、戦艦ミズーリー号で降伏調印式が行われた。マッカーサー元帥は、この場に、シンガポールで山下奉文中将に降伏したイギリスのパーシバル将軍と、コレヒドール脱出の際、後事を託したウェインライト将軍を連れてきた。
マッカーサー元帥は調印に当たって、四本の万年筆を使った。一本をトルーマン大統領に、一本はパーシバル将軍に、一本はウェインライト将軍に与えるため、そして一本は自身の記念のためだった。
「我々は不信と悪意、憎悪の精神をもって集まったのではない」という降伏調印式での演説とは裏腹に、マッカーサー元帥の執拗な復讐は実行されようとしていた。それはフィリピン決戦での、本間雅晴中将と、山下奉文大将に向けられた。
山下大将は九月三日、ルソン島北部のバギオで降伏調印式に臨んだ。フィリピンの戦いはマッカーサー元帥の勝利に終わった。
別冊歴史読本「秘史・太平洋戦争の指揮官たち」(新人物王来社)所収「悲劇の文人将軍・陸軍中将・本間雅晴」(村尾国士)によると、「バターン・デス・マーチ(死の行進)」は、「リメンバー・パールハーバー」と並んで、兵士の士気を鼓舞するためのアメリカ軍の二大キャッチフレーズだった。
世界に宣伝された「死の行進」は、勝者マッカーサーにとって、ぜひとも自分と戦った敵将の血で償わせる必要があった。それが山下奉文であり、本間雅晴であった。
さらに、マッカーサーにとっては、本間雅晴中将の指揮する第一四軍に追い上げられたフィリピン戦、バターン半島での敗戦とオーストラリアへの逃亡劇は、若かりし頃からの輝かしい軍歴の中で、最大の忌まわしい汚点だった。それが、マッカーサーの胸の中にわだかまりの影を落としていた。
この代償をマッカーサーは、本間雅晴中将に払わせることにした。マニラでの軍事裁判で、いかに本間中将の弁護が正当なものであっても、本間中将の妻、富士子夫人が裁判で「娘も夫のような人に嫁がせたいと思っています」と陳述しても、すべて無視された。
後日、三月十一日、富士子夫人はマッカーサー元帥に面会し「あなたが最後の判決をされるそうですが、裁判記録をよく読んで慎重にしていただきたい」と言った。
すると、マッカーサー元帥は「私の任務について、あなたがご心配される必要はありません」と返答している。マッカーサー元帥の裁判に対する決意は揺るがなかった。
昭和二十一年四月三日、山下奉文が絞首刑により処刑された同じ場所、フィリピン島ロスバニヨスで本間雅晴中将の銃殺刑が執行された。
マッカーサーは、その回想記に「これほど公正に行われた裁判はなく、これほど被告に完全な弁護の機会が与えられた例はこれまでになく、またこれほど偏見をともなわない審議が行われた例もない」と記している。
これは実際の裁判の進行状況から表面的には真実と言える。だが、現地から遠く離れたマッカーサーの心の奥底にある復讐心、それが消えることはなかった。これも真実である。
(「本間雅晴陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「岡田啓介海軍大将」が始まります)