陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

644.山本権兵衛海軍大将(24)西郷に『オハンは権兵衛ばかりを用いよる』とくってかかった

2018年07月27日 | 山本権兵衛海軍大将
 その中で、岡田啓介大将は、自分が人事局長(大正四年十二月~大正六年十一月)だった時のことを振り返って、当時の伯爵・山本権兵衛大将(首相辞任後海軍長老)の人事行政に対する対応について、次の様に回顧している。

 「海軍の進級会議が始まる前には、進級する資格を備えている人の考課表を、すっかり整頓するのであるが、山本伯はそれが整頓されると三日ほどもかかって、よく目を通された。そして進級会議席上で議論が紛糾してくると、山本伯は本人の考課表を読んで見よといわれる」

 「もちろん伯としては、読まなくてもちゃんと知っているのだが、みなを納得させるためであった。そして、その人物がよくわかるように書いてある考課表が読まれ、さしもの大議論もまとまるというわけである。私も、これには感心させられた。故伯が人事行政に深い注意を払われたことは、これでもよくわかると思う」。

 また、病気のため職を辞し、約三十年名古屋に病臥中の稲葉宗太郎中佐(愛知・海兵一四・少佐・砲艦「操江」艦長・中佐・予備役)も、次の様に語っている。

 「山本伯は軍務局長をやった大佐の時代から、権兵衛大臣で通ったほど、時の西郷海軍大臣に用いられたものである。あるとき、新橋の花月で陸海軍のえらい連中が集まったが、西郷に『オハンは権兵衛ばかりを用いよる』とくってかかった」

 「しかし西郷はとりあわず、『権兵衛とおまえらとは、値うちが違う』と笑ったそうである。したがって権兵衛伯の勢力はたいしたもの」

 「例のシーメンス事件を摘発した名古屋出身の故太田三次郎(おおた・さんじろう)大佐(愛知・海兵一三・捕獲審検所評定官・大佐・シーメンス事件で海軍の粛清を訴え山本権兵衛内閣を弾劾し勲位をうばわれ免官)が海軍大学時代のこと、校規に従わぬというので海軍をクビになりかけたが、権兵衛伯はその負けじ魂にほれこんで用いたという」

 「長の陸軍、薩の海軍と呼ばれていた時代に、伯は人材登用主義であった。私も太田と同じく大尉の時代に、水兵を募集する兵事官に推薦されたところから全国に海軍思想の宣伝演説にまわったのが、伯に認められる機会となり、後には副官や参謀などという位置にまわされたものだ。伯は藩閥をつくるような人ではなく、常に線の太い人だった」。

 また、明治四十三年、軍事参議官・山本権兵衛大将の副官(少佐)だった小林躋造(こばやし・せいぞう)大将(広島・海兵二六・三番・海大六首席・中佐・装甲巡洋艦「磐手」副長・海軍大学校教官・海軍技術本部副官・大佐・巡洋艦「平戸」艦長・海軍省副官・在英国大使館附武官・少将・第三戦隊司令官・軍務局長・中将・ジュネーヴ海軍軍縮会議全権随員・練習艦隊司令官・艦政本部長・海軍次官・連合艦隊司令長官・大将・予備役・台湾総督・貴族院議員・国務大臣・勲一等旭日大綬章)も、次の様に述べている。

 「一時薩摩海軍などといって、薩人でなければ海軍の要職にはつけないといわれ、その中心が大将であるかのように伝えられたものだが、そんなことはない。私にも時々人物評論を聞かせてくれたが、特に同郷の人を庇護されるようなことは毛頭なく、むしろ他郷の人材を推称されていた。伊藤博文公には最も推服されていたようである」

 「いま海軍部内に見ても、山本大将以後海軍大臣になった人は、財部大将を除いて、みな薩人ではない。軍令部長も伊集院元帥以後みな他郷の人である。そして、これらの人々は、多く山本大将が海軍大臣に在職していた八年間に頭角をあらわし、重用されてきたのだと見なければならない」。

 話は戻って、明治二十六年の人員整理で、海軍省主事・山本権兵衛大佐の思い切った人員整理案には、西郷従道海軍大臣もいささか驚いた。

 西郷海軍大臣「こんなに多数の士を淘汰して、万一の場合、すなわち一朝有事に際し、配員上支障をきたすおそれはないか?」。

 山本大佐は「いまや新教育を受けた士官が増加しているので、この程度の整理を行っても、一旦緩急の日第一線に配置すべき者は十分です。もし戦線が拡大したり、持久の状態になって予備役の者を要する場合が来た時は、あらためてこれを招集し、それぞれ担当の部署もあてればよいと思います」。

 この山本大佐の説明に西郷海軍大臣も納得し、諸制度改正案公布の際に、人員整理決行の手続きをとった。

 だが、この人員整理は、明治海軍創業以来、初めての大整理であり、しかも維新当時から功績を重ねて重要な地位に進んでいる者も多数含まれていたため、いざ諭旨退役の令書が発せられると、一時蜂の巣をつついたようになった。