陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

654.山本権兵衛海軍大将(34)海軍では鹿児島人でないと出世できないそうではないか。不公平と評判がよくないよ

2018年10月05日 | 山本権兵衛海軍大将
 次に山本海軍大臣は、四十六歳の伊集院五郎(いじゅういん・ごろう)大佐(鹿児島・海兵五期・英国王立海軍大学卒・大本営参謀・大佐・軍令部第二局長・軍令部第一局長・軍令部次長心得・少将・軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・艦政本部長・功一級・第二艦隊司令長官・男爵・連合艦隊司令長官・軍令部長・大将・軍事参議官・元帥・正二位・旭日桐花大綬章・イタリア王国王冠第一等勲章等)を海軍軍令部次長心得に登用した。

 当時の軍令部長は、伊東祐亨(いとう・すけゆき)大将(鹿児島・薩摩藩士・開成所・戊辰戦争・維新後海軍大尉・コルベット「日進」艦長・中佐・装甲艦「扶桑」艦長・装甲艦「比叡」艦長・コルベット「筑波」艦長・大佐・装甲艦「龍驤」艦長・装甲艦「比叡」艦長・装甲艦「扶桑」艦長・横須賀造船所長・英国出張・防護巡洋艦「浪速」艦長・少将・常備小艦隊司令官・大域局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・軍令部長・子爵・功二級・大将・議定官・軍事参議官・元帥・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・ロシア帝国スタニスラス第一等勲章)だった。

 伊集院五郎大佐は、科学的頭脳を持ち、明治十五年から三年余にわたり英国に留学して、兵器、術科(航海・砲術・水雷術)、戦略・戦術などを研究した有望な軍人だった。

 また、明治十九年二月、英国アームストロング社で竣工した、新鋭の防護巡洋艦「浪速」を日本へ回航する時の艦長は伊東祐亨大佐、副長が山本権兵衛少佐、水雷長が伊集院五郎大尉だった。

 回航の途中、スエズ運河北端のポートサイドで、弾薬の爆発により重傷を負った伊集院大尉を、山本少佐が救助したことがあった。伊東、山本、伊集院の三人は因縁浅からぬ関係だった。

 明治三十二年九月、軍令部次長心得・伊集院五郎大佐は、少将に進級し、名実ともに軍令部次長になった。

 また、翌年の明治三十三年には、伊集院少将は、砲弾爆破力を著しく増大させる「伊集院信管」を発明し、海軍に貢献をした。

 ところで、明治二十八年三月に、山本権兵衛大佐は少将に進級し、海軍省軍務局長に就任したのだが、その翌年の明治二十九年の秋、次のような出来事があった。

 慶應四年に慶応義塾を開校した福沢諭吉(大阪・中津藩士・慶應義塾創設・蘭学者・啓蒙思想家・教育者・著述家)は、明治十五年から「時事新報」を発行していた。

 軍令部諜報課員・木村浩吉(きむら・こうきち)大尉(東京・海兵九期・三番・装甲艦「扶桑」艦長・横須賀水雷団長心得兼水雷術練習所長心得兼砲術練習所長心得・特務艦「日光丸」艦長・大佐・呉水雷団長・水雷術練習所長・海軍水雷学校長・佐世保水雷団長・少将・舞鶴水雷団長・従四位・勲三等・功四級)は、福沢諭吉から次のような質問を受けた。

 「海軍では鹿児島人でないと出世できないそうではないか。不公平と評判がよくないよ。不公平は進歩を妨げる。いつ不公平がなくなるかね」。

 木村大尉は、「五十年もたてばと言われていますが、そんなに長くかからないでしょう」と答えた。すると、福沢諭吉は「なぜ?」とたたみかけた。木村大尉は次の様に答えた。

 「軍務局長ですが、『権兵衛大臣』とあだ名されている山本少将がいます。あの人が大臣になれば不公平はなくなります」。

 すると、福沢諭吉は、「そうかね、一度会ってみたいね」と言ったので、木村大尉は、その旨を山本権兵衛少将に伝えた。

 数日後、福沢諭吉宅に出向いた、山本権兵衛少将は、午前九時ころから、昼食をはさみ、午後四時頃まで、福沢諭吉と語り合った。

 福沢諭吉は六十一歳、山本権兵衛少将は四十四歳だった。会見後、山本少将は木村大尉に次の様に言った。

 「福沢先生はさすがに先が見える。海軍の必要をよく知っている。ただ、予算のために海軍の計画がなかなか思うようにいかないことは、よく判らないらしい」。

 一方、福沢諭吉は、木村大尉に次の様に感想を述べた。

 「山本少将は、一人で海軍を背負っているような男だが、信頼できそうだ。『時事新報』で助力することにしよう」。