台湾総督・児玉源太郎陸軍中将は、辞職を思いとどまった三か月後の明治三十三年十二月二十三日、第四次伊藤博文内閣の陸軍大臣兼台湾総督となった。
陸軍大臣・桂太郎大将は、領袖の首相・山縣有朋元帥、伊藤博文と政治上で対立していたため、第四次伊藤内閣への協力を拒んだのである。このため、伊藤首相は、山本権兵衛の海軍寄りになっていったと言われている。
明治三十四年六月、桂太郎内閣(第一次)が発足した。山本権兵衛海軍大臣と児玉源太郎陸軍大臣(明治三十五年三月辞任)は留任した。
明治三十七年一月十二日午後一時から、御前会議が宮中で開かれた。緊迫する日露関係の中、ロシアと交渉を断絶し、自衛のため開戦に至る、聖断を仰ぐものだった。
桂太郎内閣総理大臣は、腹痛で病床についたため、山本権兵衛海軍大臣が桂内閣総理大臣に代わって、内閣を代表することになった。御前会議の列席者は、次の通り。
内閣側から、山本権兵衛海軍大臣、小村寿太郎外務大臣、寺内正毅陸軍大臣、曾禰荒助大蔵大臣。
元老側から、山縣有朋、松方正義、井上馨。
軍事参画当局として、大山巌陸軍参謀総長、児玉源太郎陸軍参謀次長、伊東祐亨海軍軍令部長、伊集院五郎海軍軍令部次長。
会議の劈頭、山本権兵衛海軍大臣は内閣を代表して一時間以上にわたる陳述を行った。日露協商談判開始以来の経過、ロシアと日本の提案内容の比較と、その間における折衝状況を詳述した。そして最後に次の様に述べた。
「以上申し述べた次第につき、ここに日露交渉を断絶し、あわせてその外交関係を絶ち、同時に帝国の侵迫された地位を鞏固にし、これを防衛するため、ならびに帝国の既得権および正当利益を擁護するため最良と思惟する独立の行動を取ることをロシアに対して通告する件、およびこれに関連して要すべき件などについて、謹んで聖断を仰ぎ奉る」。
次に、伊藤博文、山縣有朋、松方正義が発言、山本権兵衛海軍大臣の意見に賛同し、それぞれの立場から意見を述べた。
以上のほかに発言する者はなく、明治天皇からいろいろ御下問があり、山本海軍大臣がそれぞれについてご説明申し上げた。
最後に明治天皇から、「なお一度催促して見よ」との御言葉があり、山本海軍大臣が「このほどの交渉事項について、なお一度ロシアに対して回答を催促せよ」との聖旨であるかと、お聞きしたところ、御首肯になったので、山本海軍大臣は謹んで聖旨を奉ずるむねをお答え申し上げた。
その後、今日の会議は、これで閉会してよいかどうか言上、「よろしい」との御言葉を得た山本海軍大臣は、起立して閉会を宣言した。
ところが、明治天皇が御立ちになり、各員も、退下しようとした時、元老・井上馨が突如、明治天皇に近づき、「陛下、開戦……」と発言、なお、語を継いで、何事が奏上しようとした。
山本海軍大臣が、井上に「会議はすでに閉会を告げたのである。本日は、これで退下されたい」と言ったので、井上も止むを得ず、一同と共に、そのまま退下した。
控室に帰ってから、紛議があった。山本海軍大臣が勝手に閉会を宣したものと誤解した元老・井上馨は、山本海軍大臣の行動を違勅であるとして騒ぎ出した。
後から控室に来た、山本海軍大臣が、陛下の御承諾をえて閉会を宣したことを説明すると、やがて、井上はおさまり、山本海軍大臣に陳謝した。
その後、一月十三日、日本政府はロシア政府に向かって再考を求める申し入れを行ったが、一月三十一日になっても何の応答もなく、ロシアの軍事活動は活発になってきた。
そこで、二月四日、再び御前会議が開かれ、ロシアとの交渉を打ち切り、自衛のため必要な措置を執ること、並びに外交関係を断絶することを決定した。
宣戦の詔勅が二月十日に発せられ、日露戦争に突入した。激戦の末、日本はロシアを破り、大勝利した。
日露戦争後の、明治三十九年一月、山本権兵衛大将(日露戦争中の明治三十七年六月に進級)は、信頼する海軍次官・斎藤実中将に譲る形で海軍大臣を辞任した。
その後、山本権兵衛大将は軍事参議官、伯爵となり、海軍の重鎮として存在感を強めていった。同時に、伊藤博文の立憲政友会に好意的な立場を取り、護憲運動にも理解を示したことにより、総理大臣候補にも名が挙がるようになった。
大正二年、元老・大山巌の支持で、二月二十日、山本権兵衛は内閣総理大臣に就任した(第一次山本内閣)。
その十年後、加藤友三郎首相の急死に伴い、大正十二年九月二日、再び、山本権兵衛に組閣が命じられ、内閣総理大臣に就任した(第二次山本内閣)。
総理大臣を辞してから、山本権兵衛は政界から離れ、静かに余生を送った。
昭和八年三月三十日、登喜子夫人が七十四歳で死去したが、これは山本権兵衛にとっては大きな悲しみであり、心の支えを失った。
この頃、山本権兵衛は前立腺肥大症を起こして発熱し、臥するに至った。その後、治療により回復したこともあったが、十二月八日午後十時五十二分、山本権兵衛は東京、高輪台の自宅で亡くなった。享年八十一歳だった。
(今回で「山本権兵衛海軍大将」は終わりです。次回からは「梅津美治郎陸軍大将」が始まります)
陸軍大臣・桂太郎大将は、領袖の首相・山縣有朋元帥、伊藤博文と政治上で対立していたため、第四次伊藤内閣への協力を拒んだのである。このため、伊藤首相は、山本権兵衛の海軍寄りになっていったと言われている。
明治三十四年六月、桂太郎内閣(第一次)が発足した。山本権兵衛海軍大臣と児玉源太郎陸軍大臣(明治三十五年三月辞任)は留任した。
明治三十七年一月十二日午後一時から、御前会議が宮中で開かれた。緊迫する日露関係の中、ロシアと交渉を断絶し、自衛のため開戦に至る、聖断を仰ぐものだった。
桂太郎内閣総理大臣は、腹痛で病床についたため、山本権兵衛海軍大臣が桂内閣総理大臣に代わって、内閣を代表することになった。御前会議の列席者は、次の通り。
内閣側から、山本権兵衛海軍大臣、小村寿太郎外務大臣、寺内正毅陸軍大臣、曾禰荒助大蔵大臣。
元老側から、山縣有朋、松方正義、井上馨。
軍事参画当局として、大山巌陸軍参謀総長、児玉源太郎陸軍参謀次長、伊東祐亨海軍軍令部長、伊集院五郎海軍軍令部次長。
会議の劈頭、山本権兵衛海軍大臣は内閣を代表して一時間以上にわたる陳述を行った。日露協商談判開始以来の経過、ロシアと日本の提案内容の比較と、その間における折衝状況を詳述した。そして最後に次の様に述べた。
「以上申し述べた次第につき、ここに日露交渉を断絶し、あわせてその外交関係を絶ち、同時に帝国の侵迫された地位を鞏固にし、これを防衛するため、ならびに帝国の既得権および正当利益を擁護するため最良と思惟する独立の行動を取ることをロシアに対して通告する件、およびこれに関連して要すべき件などについて、謹んで聖断を仰ぎ奉る」。
次に、伊藤博文、山縣有朋、松方正義が発言、山本権兵衛海軍大臣の意見に賛同し、それぞれの立場から意見を述べた。
以上のほかに発言する者はなく、明治天皇からいろいろ御下問があり、山本海軍大臣がそれぞれについてご説明申し上げた。
最後に明治天皇から、「なお一度催促して見よ」との御言葉があり、山本海軍大臣が「このほどの交渉事項について、なお一度ロシアに対して回答を催促せよ」との聖旨であるかと、お聞きしたところ、御首肯になったので、山本海軍大臣は謹んで聖旨を奉ずるむねをお答え申し上げた。
その後、今日の会議は、これで閉会してよいかどうか言上、「よろしい」との御言葉を得た山本海軍大臣は、起立して閉会を宣言した。
ところが、明治天皇が御立ちになり、各員も、退下しようとした時、元老・井上馨が突如、明治天皇に近づき、「陛下、開戦……」と発言、なお、語を継いで、何事が奏上しようとした。
山本海軍大臣が、井上に「会議はすでに閉会を告げたのである。本日は、これで退下されたい」と言ったので、井上も止むを得ず、一同と共に、そのまま退下した。
控室に帰ってから、紛議があった。山本海軍大臣が勝手に閉会を宣したものと誤解した元老・井上馨は、山本海軍大臣の行動を違勅であるとして騒ぎ出した。
後から控室に来た、山本海軍大臣が、陛下の御承諾をえて閉会を宣したことを説明すると、やがて、井上はおさまり、山本海軍大臣に陳謝した。
その後、一月十三日、日本政府はロシア政府に向かって再考を求める申し入れを行ったが、一月三十一日になっても何の応答もなく、ロシアの軍事活動は活発になってきた。
そこで、二月四日、再び御前会議が開かれ、ロシアとの交渉を打ち切り、自衛のため必要な措置を執ること、並びに外交関係を断絶することを決定した。
宣戦の詔勅が二月十日に発せられ、日露戦争に突入した。激戦の末、日本はロシアを破り、大勝利した。
日露戦争後の、明治三十九年一月、山本権兵衛大将(日露戦争中の明治三十七年六月に進級)は、信頼する海軍次官・斎藤実中将に譲る形で海軍大臣を辞任した。
その後、山本権兵衛大将は軍事参議官、伯爵となり、海軍の重鎮として存在感を強めていった。同時に、伊藤博文の立憲政友会に好意的な立場を取り、護憲運動にも理解を示したことにより、総理大臣候補にも名が挙がるようになった。
大正二年、元老・大山巌の支持で、二月二十日、山本権兵衛は内閣総理大臣に就任した(第一次山本内閣)。
その十年後、加藤友三郎首相の急死に伴い、大正十二年九月二日、再び、山本権兵衛に組閣が命じられ、内閣総理大臣に就任した(第二次山本内閣)。
総理大臣を辞してから、山本権兵衛は政界から離れ、静かに余生を送った。
昭和八年三月三十日、登喜子夫人が七十四歳で死去したが、これは山本権兵衛にとっては大きな悲しみであり、心の支えを失った。
この頃、山本権兵衛は前立腺肥大症を起こして発熱し、臥するに至った。その後、治療により回復したこともあったが、十二月八日午後十時五十二分、山本権兵衛は東京、高輪台の自宅で亡くなった。享年八十一歳だった。
(今回で「山本権兵衛海軍大将」は終わりです。次回からは「梅津美治郎陸軍大将」が始まります)