陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

650.山本権兵衛海軍大将(30)山本少将は「殿下は、私をお叱りになるのでございますか」と言った

2018年09月07日 | 山本権兵衛海軍大将
 参考までに、鈴木と財部の進級年齢を比較してみると、次の様になる。

 海軍兵学校一四期の鈴木の進級は、少佐<三十一歳>、中佐<三十六歳>、大佐<四十歳>、少将<四十六歳>、中将<五十歳>、大将<五十六歳>。

 海軍兵学校一五期の財部の進級は、少佐<三十二歳>、中佐<三十六歳>、大佐<三十九歳>、少将<四十二歳>、中将<四十六歳>、大将<五十二歳>。

 昭和五年一月二十一日から四月二十二日まで開催されたロンドン海軍軍縮会議に、若槻礼次郎前首相とともに海相・財部彪大将は全権として出席していた。

 その時の、財部海相の優柔不断な態度と、観光旅行でも行くように妻いねを同伴した軟弱さへの批判が海軍部内に高まった。

 江田島の海軍兵学校にまで、その批判の空気が伝染し、生徒らの間に、「死して広瀬になるとも、生きて財部となるなかれ」という合言葉が流れていたという。

 山本権兵衛ほど傑出した海軍の将星はいなかったといわれるが、財部の超特急昇進の一点は、情に流れた不覚の失敗だった。

 明治三十年五月に、英国ビクトリア女王の即位六十年記念祝典がロンドンで開催されることになり、皇族である常備艦隊司令官・有栖川宮威仁親王少将が、天皇の名代として参列することになった。

 有栖川宮少将は、英国で建造された新鋭高速巡洋艦「吉野」に座乗して訪英することを熱望し、次の四人の内諾をとりつけた。

 松方正義(まつかた・まさよし)首相(鹿児島・薩摩藩士・御船奉行添役・御軍艦掛・維新後長崎裁判所参議・日田県知事・民部大丞・大蔵官僚・渡欧・参議兼大蔵卿・日本銀行創設・初代大蔵大臣・内閣総理大臣・麝香間祗候<じゃこうのましこう=華族または親任官であった官吏を優遇するための名誉職>・内閣総理大臣・元勲待遇<元老>・枢密顧問官・内大臣・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・イギリス帝国聖マイケル聖ジョージ勲章ナイトグランドクロス等)。

 大隈重信(おおくま・しげのぶ)外相(佐賀・佐賀藩士・弘道館教授・佐賀藩校英学塾教頭・維新後外国事務局判事・大蔵大輔・参議・大蔵卿・統計院初代院長・立憲改進党結成・東京専門学校<現・早稲田大学>開設・伯爵・外務大臣・憲政党結成・内閣総理大臣・早稲田大学総長・内閣総理大臣・侯爵・貴族院議員・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・ロシア帝国神聖アレキサンドルネウスキー勲章等)。

 西郷従道(さいごう・つぐみち)中将(鹿児島・戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いで重症・維新後渡欧し軍制調査・兵部権大丞・陸軍少将・陸軍中将・台湾出兵・藩地事務都督・陸軍卿代行・近衛都督・陸軍卿・農商務卿・兼開拓使長官・伯爵・海軍大臣・元老・枢密顧問官・海軍大将・侯爵・元帥・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)。

 伊東祐亨(いとう・すけゆき)軍令部長(鹿児島・薩摩藩士・開成所・戊辰戦争・維新後海軍大尉・コルベット「日進」艦長・中佐・装甲艦「扶桑」艦長・装甲艦「比叡」艦長・コルベット「筑波」艦長・大佐・装甲艦「龍驤」艦長・装甲艦「比叡」艦長・装甲艦「扶桑」艦長・横須賀造船所長・英国出張・防護巡洋艦「浪速」艦長・少将・常備小艦隊司令官・大域局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・軍令部長・子爵・功二級・大将・議定官・軍事参議官・元帥・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・ロシア帝国スタニスラス第一等勲章)。

 ところが、その後、海軍省から「吉野」は出すことができないと通知があり、有栖川宮少将は憤激した。

 有栖川宮少将が西郷従道海相に電話すると、「私は、異議はないのですが、海軍省の省議として「吉野」は出すことができないと決まりましたものですから」と、要領を得なかった。

 伊東祐亨軍令部長も「私は賛成なのですが、海軍省が不同意と申しますので、どうにもなりません」と、同様な返事だった。

 思い当たった有栖川宮少将は、軍務局長・山本権兵衛少将に来邸を求めた。
 
 有栖川宮少将の官邸を訪ねた、挨拶が終わると機先を制して、山本少将は「殿下は、私をお叱りになるのでございますか」と言った。

 出鼻を挫かれた有栖川宮少将は、「いや、そうではない。尋ねたいことがあって、よんだのだ」と言って、「吉野」の問題について、説明を求めた。


649.山本権兵衛海軍大将(29)海軍部内では、財部を「財部親王」と称し、不快に思う者が少なくなかった

2018年08月31日 | 山本権兵衛海軍大将
 また、同じく同期である兵学校一五期の岡田啓介(おかだ・けいすけ)中将(福井・海兵一五・七番・海大二期・一等戦艦「朝日」副長・水雷術練習所教官兼海軍大学校教官・大佐・海軍水雷学校校長・装甲巡洋艦「春日」艦長・戦艦「鹿島」艦長・少将・第二艦隊司令官・第一水雷戦隊司令官・海軍技術本部第二部長・海軍省人事局長・中将・佐世保工廠長・海軍艦政本部長・海軍次官・大将・連合艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・後備役・内閣総理大臣・従三位・旭日桐花大綬章・フランス国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)は、大正十三年二月三日に大将に進級している。

 日本海軍の海軍大将は、西郷従道から井上成美まで、七十七名出たが、財部彪のような超特急の進級は次の三名の大将、元帥を除いて、例がない(最初に、財部彪大将の軍歴を参考に記す)。

 財部彪(たからべ・たけし)大将(宮崎・海兵一五期首席・少佐<三十二歳>常備艦隊参謀・軍令部第二局局員・中佐<三十六歳>・軍令部参謀・大佐<三十九歳>・英国出張・巡洋艦「宗谷」艦長・一等戦艦「富士」艦長・第一艦隊参謀長・少将<四十二歳>・海軍次官・中将<四十六歳>・第三艦隊司令官・旅順警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・佐世保鎮守府司令長官・大将<五十二歳>・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・軍事参議官・海軍大臣・軍事参議官・海軍大臣・ロンドン会議全権・従二位・旭日桐花大綬章・功三級・オーストリア=ハンガリー帝国鉄冠第二等勲章等)。

 有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや・たけひとしんのう)元帥(京都・海軍兵学寮予科・英国グリニッジ海軍大学校・少佐<二十四歳>・海軍参謀本部・大勲位菊花大綬章・海軍参謀部・大佐<二十八歳>・コルベット「葛城」艦長・巡洋艦「高雄」艦長・横須賀鎮守府海兵団長・防護巡洋艦「松島」艦長・砲術練習所所長・少将<三十四歳>・常備艦隊司令官・遣英大使<女王即位六十年記念式典>・軍令部・中将<三十七歳>・大本営・大将<四十二歳>・軍事参議官・欧州差遣・元帥<五十一歳>・大勲位菊花章頸飾・功三級)。

 伏見宮博恭王(ふしみのみや・ひろやすおう)元帥(東京・海兵一六期退校・ドイツ海軍兵学校・ドイツ海軍大学校・大勲位菊花大綬章・防護巡洋艦「浪速」副長心得・中佐<三十一歳>・防護巡洋艦「浪速」副長・装甲巡洋艦「日進」副長・海軍大学校選科・英国駐在・軍令部・大佐<三十五歳>・一等戦艦「朝日」艦長・巡洋戦艦「伊吹」艦長・海軍大学校選科・少将<三十八歳>・横須賀鎮守府艦隊司令官・海軍大学校校長・第二戦隊司令官・中将<四十一歳>・第二艦隊司令長官・軍事参議官・大将<四十七歳>・佐世保鎮守府司令長官・軍令部長・元帥<五十七歳>・軍令部総長・大勲位菊花章頸飾・功一級)。

 山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)大将(鹿児島・海兵二期・一六番・少佐<三十三歳>・防護巡洋艦「浪速」副長・砲艦「天城」艦長・大臣伝令使・海軍次官欧米随行・大佐<三十七歳>・巡洋艦「高雄」艦長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・海軍省主事・少将<四十三歳>・軍務局長・中将<四十六歳>・海軍大臣・男爵・大将<五十二歳>・軍事参議官・伯爵・内閣総理大臣・予備役・内閣総理大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)。

 財部彪の能力が人より優れていたにしても、これほどの昇進は以上の三人を除いて例がなく、誰が見ても権勢並ぶ者のない山本権兵衛の七光り、依怙贔屓としか考えられない昇進だった。

 このために、海軍部内では、財部を「財部親王」と称し、不快に思う者が少なくなかった。太平洋戦争末期に首相になり、危機一髪のところで日本を救った、鈴木貫太郎も、その一人だった。

 財部より海軍兵学校一期上の鈴木貫太郎は、財部の超特急の昇進を目の当たりにして、さすがに海軍をいやになり、一時は本気で海軍をやめたくなったという。鈴木貫太郎の軍歴は次の通り。

 鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)大将(千葉・海兵一四・十三番・海大一期・少佐<三十一歳>・海軍省軍務局軍事課・陸軍大学校兵学教官・海軍大学校教官・教育本部部員・海軍大学校教官・ドイツ駐在・中佐<三十六歳>・装甲巡洋艦「春日」副長・第二艦隊駆逐隊司令・第四駆逐隊指令・海軍大学校教官・陸軍大学校兵学教官・教育本部部員・大佐<四十歳>・防護巡洋艦「明石」艦長・巡洋艦「宗谷」艦長・海軍水雷学校校長・一等戦艦「敷島」艦長・巡洋戦艦「筑波」艦長・少将<四十六歳>・舞鶴水雷隊司令官・第二艦隊司令官・舞鶴水雷隊司令官・海軍省人事局長・海軍次官・兼軍務局長・中将<五十歳>・練習艦隊司令官・海軍兵学校校長・第二艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将<五十六歳>・連合艦隊司令長官・軍令部長・予備役・侍従長・枢密顧問官・男爵・枢密院議長・内閣総理大臣・枢密院議長・男爵・従一位・旭日桐花大綬章・功三級・ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章)。



648.山本権兵衛海軍大将(28)兵学校一五期の財部彪中将は、第一二期の二人の中将とともに大将に進級した

2018年08月24日 | 山本権兵衛海軍大将
 財部少将と同期である第一五期の次の二人が中将に進級したのは、やはり四年後の大正六年だった。

 竹下勇(たけした・いさむ)少将(鹿児島・海兵一五期・三番・海大一期・在米大使館附武官・装甲巡洋艦「磐手」副長・大佐・第二艦隊参謀長・防護巡洋艦「須磨」艦長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・軍令部第四班長・巡洋戦艦「筑波」艦長・一等戦艦「敷島」艦長・第一艦隊参謀長・少将・軍令部第四班長・軍令部第一班長・第二戦隊司令官・中将・第一特務艦隊司令官・軍令部次長・国連海軍代表・連合艦隊司令長官・大将・呉鎮守府司令長官・正三位・勲一等旭日大綬章)。

 小栗孝三郎(おぐり・こうざぶろう)少将(石川・海兵一五期・五番・海大二期・水雷母艦「韓崎」艦長・大佐・情報艦「鈴谷」艦長・戦艦「香取」艦長・海軍艦政本部第一部長・少将・在英国大使館附武官・海軍省軍務局長・中将・第三艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・大将・正三位・フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)。

 大正八年十一月二十五日、兵学校一五期の財部彪中将は、第一二期の二人の中将とともに大将に進級した。二人の中将は次の通り。

 山屋他人(やまや・たにん)中将(岩手・皇太子妃雅子様<平成三〇年現在>は曾孫になる・海兵一二期・五番・海大将校科二期首席・海軍大学校教官・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・大佐・防護巡洋艦「笠置」艦長・第二艦隊参謀長・防護巡洋艦「千歳」艦長・軍令部第二班長兼海軍大学校教官・少将・海軍教育本部第一部長・海軍大学校校長・舞鶴予備艦隊司令官・海軍省人事局長・中将・海軍大学校校長・第一艦隊司令官・第一南遣枝隊司令官・第三戦隊司令官・軍令部次長・第二艦隊司令長官・大将・連合艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・従三位・勲一等旭日大綬章)。

 有馬良橘(ありま・りょうきつ)中将(和歌山・海兵一二期・一六番・防護巡洋艦「音羽」艦長・大佐・防護巡洋艦「笠置」艦長・竹敷要港部参謀長・装甲巡洋艦「磐手」艦長・第二艦隊参謀長・海軍砲術学校校長・少将・軍令部第一班長・第一艦隊司令官・中将・海軍兵学校校長・海軍教育本部長・第三艦隊司令長官・大将・海軍教育本部長・予備役・明治神宮宮司・枢密顧問官・議定官・勲一等旭日桐花大綬章・功三級)。

 ちなみに、兵学校第一三期の次の三中将は、翌年の大正九年八月十六日に大将に進級している。

 黒井悌次郎(くろい・ていじろう)中将(山形・海兵一三期・四番・海大甲号五期・英国駐在・一等戦艦「敷島」副長・佐世保鎮守府参謀・大佐・旅順口工作廠長・在ロシア国公使館附武官・一等戦艦「敷島」艦長・少将・佐世保工廠長・舞鶴艦隊司令官・練習艦隊司令官・中将・横須賀工廠長・馬公警備府司令長官・旅順警備府司令長官・第三艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・大将・正三位・勲一等旭日大綬章・功三級・ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章等)。

 野間口兼雄(のまぐち・かねお)中将(鹿児島・海兵一三期・六番・海大選科・海軍大臣秘書官・大佐・防護巡洋艦「高千穂」艦長・装甲巡洋艦「浅間」艦長・軍務局局員・少将・第一艦隊参謀長・佐世保鎮守府参謀長・海軍砲術学校校長・呉鎮守府参謀長・軍務局長・呉工廠長・中将・第六戦隊司令官・海軍兵学校校長・舞鶴鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・大将・海軍教育本部長・横須賀鎮守府司令長官・従二位・勲三等旭日中綬章・功三級)。

 栃内曽次郎(とちない・そじろう)中将(岩手・海兵一三・二十二番・巡洋艦「宮古」艦長・コルベット「武蔵」艦長・大佐・防護巡洋艦「須磨」艦長・在英国大使館附武官・装甲巡洋艦「吾妻」艦長・少将・軍務局長・練習艦隊司令官・大湊警備府司令長官・横須賀工廠長・中将・第二艦隊司令官・第一艦隊司令官・第四戦隊司令官・第三戦隊司令官・海軍技術本部長・海軍次官・大将・連合艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・予備役・貴族院議員・正三位)。

 また、次の三中将は、大正十二年八月三日に大将に進級している。

 兵学校一四期の鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)中将(千葉・海兵一四・一三番・海大一期・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・防護巡洋艦「明石」艦長・巡洋艦「宗谷」艦長・海軍水雷学校校長・一等戦艦「敷島」艦長・巡洋戦艦「筑波」艦長・少将・舞鶴水雷隊司令官・第二艦隊司令官・海軍省人事局長・海軍次官・中将・練習艦隊司令官・海軍兵学校校長・第二艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・連合艦隊司令長官・軍令部長・予備役・侍従長・枢密顧問官・男爵・枢密院議長・内閣総理大臣・枢密院議長・男爵・従一位・旭日桐花大綬章・ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章等)。

 財部彪と同期である兵学校一五期の竹下勇中将と小栗孝三郎中将。

647.山本権兵衛海軍大将(27)財部彪大佐は、皇族の如く、特急で昇進を開始した

2018年08月17日 | 山本権兵衛海軍大将
 広瀬大尉は、山本少将の言葉に二言はあるまいと、納得して去った。山本少将は、義の為に権力に立ち向かう男がいることを知った。

 財部彪(たからべ・たけし)大尉(宮崎・海兵一五首席・海大丙号・大佐・軍令部参謀・巡洋艦「宗谷」艦長・戦艦「富士」艦長・第一艦隊参謀長・少将・海軍次官・中将・第三艦隊司令官・旅順警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・佐世保鎮守府司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・海軍ロンドン軍縮会議全権・従二位・旭日桐花大綬章・功三級・オーストリア=ハンガリー帝国鉄冠第二等勲章等)は、当時常備艦隊参謀だった。

 財部大尉と広瀬大尉は、明治二十二年四月、山本権兵衛中佐が、巡洋艦「高雄」艦長に任命された直後の頃、江田島の海軍兵学校を卒業した。

 財部大尉は、第一五期八十名中の首席で、広瀬大尉は体を悪くしたせいもあって、六十四番だった。

 山本権兵衛は後に、財部を眼にとめた時の事を、次の様に述べている。

 「我輩が財部を知ったのは、練習艦隊検閲の時だった。候補生の中に、小作りだが、キリッとした元気な奴がいた。左肩が上がっているので、『方はどうしたのか?』と聞いてみると、『親ゆずりでごわす』と言った。それが財部だった」。

 山本権兵衛は、さらに財部の身上を詳細に調べ、その後の勤務ぶり、素行などを見て、明治二十九年の末頃、縁談を進めたと思われる。

 財部彪はこの婚約について、次の様に述べている。

 「前に『高千穂』の航海士をしていた時、山本艦長に数か月仕えた(明治二十三年、四年の頃)が、それだけだった」。

 「軍務局長と私では身分が違うし、権勢につくのはよくないので、辞退しようと考えた。広瀬もそうだと言って奔走してくれた。しかし、親類縁者や家郷(宮崎県都城)の古老のとり裁きによって、縁談を受けることにした」。

 明治三十年五月十五日、三十歳の財部彪大尉と十七歳の山本いねの結婚式が、行われた。

 媒酌人は、財部の故郷の先輩、参謀本部第四部長・上原勇作(うえはら・ゆうさく)陸軍中佐(宮崎県都城・陸士旧三期・工兵大佐・参謀本部第三部長・少将・陸軍砲工学校長・第四軍参謀長・工兵監・中将・男爵・第七師団長・第一四師団長・陸軍大臣・第三師団長・教育総監・大将・参謀総長・子爵・元帥・議定官・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・フランスレジオンドヌール勲章グランクロワ等)夫妻だった。

 さて、山本権兵衛は、広瀬武夫大尉に、「俺は財部を特別扱いにはせん」と男の約束をした。

 ころが、広瀬少佐は、日露戦争中の明治三十七年三月二十七日、旅順港閉塞隊指揮官として、壮烈な戦死を遂げた。

 当時すでに中佐だった財部彪は、翌年の明治三十八年一月、大佐に進級した。三十八歳だった。

 さらに、明治三十八年九月、日露戦争が終わると、当時、軍令部参謀であった財部彪大佐は、皇族の如く、特急で昇進を開始したのである。

 明治四十二年十二月には、財部彪大佐は、海軍兵学校で二、三期上の先任者(同階級でも上位の優秀者)と同時に少将に進級した。四十二歳だった。同期の一五期の少将進級は、それから四年後だった。

 大正二年十二月には、財部少将より二期上である、第一三期の次の二人の少将を追い越して、中将に進級した。

 黒井悌次郎(くろい・ていじろう)少将(山形・海兵一三期・四番・海大甲号学生五期・英国駐在・一等戦艦「敷島」副長・大佐・在ロシア国公使館附武官・一等戦艦「敷島」艦長・少将・舞鶴艦隊司令官・練習艦隊司令官・中将・横須賀工廠長・馬公警備府司令長官・旅順警備府司令長官・第三艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・大将・正三位・勲一等旭日大綬章・功三級・ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章等)。

 栃内曽次郎(とちない・そじろう)少将(岩手・海兵一三期・二二番・巡洋艦「宮古」艦長・コルベット「武蔵」艦長・大佐・防護巡洋艦「須磨」艦長・在英国大使館附武官・装甲巡洋艦「吾妻」艦長・少将・軍務局長・練習艦隊司令官・大湊警備府司令長官・横須賀工廠長・中将・第二艦隊司令官・第一艦隊司令官・第四戦隊司令官・第三戦隊司令官・海軍技術本部長・海軍次官・大将・連合艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・貴族院議員・正三位)。







646.山本権兵衛海軍大将(26)今度は、山縣陸軍大将は苦虫を噛むような顔で聴き入っていた

2018年08月10日 | 山本権兵衛海軍大将
 そこで、山本大佐は、日頃考えているところの大筋を、あれやこれやと打ち明けた。見ると、今度は、山縣陸軍大将は苦虫を噛むような顔で聴き入っていた。一段落すると、山縣陸軍大将は、次の様に問うた。

 「このごろ、貴下が海軍本省に在って種々の改革を企て、何か術策を弄して事を誤る恐れがあると、何某からしきりに告げてきている。また、新聞などにも色々風説が出ているようである。もとより一方的な意見では判断のしようもないが、このことについてはどう思うか」。

 山本大佐は、このような非難攻撃にも、見にやましいところさえ無ければ、いちいち釈明する必要はないと思っていたので、次の様に答えた。

 「自分は何もやましいところがないから、一身上の蔭口などは少しも意に介せず、捨て置いてきた。しかし、何某らが貴下にまで告げ来たったとは、初めて聞くことではあり、このため海軍諸般の改革まで影響を及ぼすようなことがあっては遺憾なので、自分の真に意のあるところを申し上げる」。

 続いて、山本大佐は、それらの山縣陸軍大将の耳に届いている風評に、一つ一つ反証を挙げて説明をした。

 山縣陸軍大将は、大きくうなずいて、「よく事の真相は分かった。では、今回改革しようとする制度の大要を、ここで聞かせてもらえないか」と言った。

 山本大佐は、五年前、欧米各国視察の時調査した列国海軍制度の状態から、進んで現下の情勢に及び、我が国の将来に対する国防の大計からみて今回断行すべき海軍制度改革諸案の綱領を説明、この成案を得るまでは数か月の研究調査がなされていることを、述べた。

 じっくり聞いていた、山縣陸軍大将は、「諒解した。あんたなら海軍整理はやれるだろう」と言った。

 この会談後、枢密院議長・山縣陸軍大将は、内閣に出て、各大臣に次の様に語ったと言われている。

 「自分は、山縣権兵衛の人となりについて、これまで巷間に伝えられている話や人々の情報を聞き、実は大いに疑惑を抱いていた。大奸物なのではないかと想像していたのだが、今回親しく会見して色々語り合い、よく観察したところ、自分の疑惑は氷解し、世間の風評も全く根拠がないことを悟って、案に相違の感があった」

 「また識見力量にも富み、幾多の経験を有することが想見される。自分はこの会見により、かねて同氏に対する予の抱懐せる暗雲を釈然一掃することができ、大いに満足した」。

 山本大佐について、よく知らなかった閣僚も、この山縣陸軍大将の言明を聞いて、その人格の概要を知った。

 明治二十八年三月八日、山本権兵衛大佐は少将に進級し、海軍省軍務局長に就任した。

 明治三十年一月のある夜、砲艦「磐城」航海長である青年士官が、海軍省軍務局長・山本権兵衛少将の自宅に、突然現れた。

 彼は、広瀬武夫(ひろせ・たけお)大尉(鹿児島・一五期・六四番・コルベット「比叡」で遠洋航海・少尉・測量艦「海門」甲板士官・日清戦争・大尉・ロシア留学・ロシア駐在武官・少佐・日露戦争で戦死・中佐・従六位・軍神)と名乗った。

 身長一七〇センチ、筋骨隆々とした、ごつい髭面の男だった。何事かと、いぶかる山本権兵衛少将の鋭い眼を直視しながら、広瀬大尉は次の様に言った。

 「私は財部彪と同期(海軍兵学校一五期)です。財部は閣下のお嬢さんとの婚約について、権勢につくのはよくない、と悩んでおります。あいつは自力でも必ず大成する男です」

 「それが閣下の女婿になれば、たとえ自力で昇進しても、七光りのせいだと言われます。そうなれば、我々同期の者も残念至極です。どうか、この縁談は破談にしてください。お願いします」。

 広瀬大尉の態度は真摯で、情理もあった。山本少将も、怒鳴りつけるわけにもいかなかった。しかし、長女いねの、またと無い良縁を放棄することもできなかった。山本少将は気を落ち着けて、次の様に答えた。

 「その心配は無用だ。この縁談がまとまっても、俺は財部を特別扱いにはせん。世間の噂など気にするな。しかし、君の心配ももっともだ。この問題は財部自身の気持ちをよく聞いた上で善処しよう」。






645.山本権兵衛海軍大将(25)山本大佐は、山縣陸軍大将に会うことにした。まさに「乗り込んで行く」意気込みだった

2018年08月03日 | 山本権兵衛海軍大将
 自分はこのような功績をおさめているのに、なぜ辞めなければならないのか、という個人的な理由を上げる者もあれば、かように有能な者を多数辞めさせることは、国策を危うくするという者まであり、あるいは背面で、あるいは口頭で、強硬に詰め寄ってきた。

 また、「海軍省主事の山本権兵衛は、我が物顔にふるまっておる」そういう世評も強まってきた。次のような声も上がった。

 「山本主事は横暴である」「ロシアも清国も海軍拡張に血道を上げておるのに、山本主事は日本海軍の屋台骨を削ろうとしておる。時代逆行もはなはだしい」。

 そんなある日、西郷従道海相から、「山縣さんが会いたいと言っておるが、どうするかね」と海軍省主事・山本権兵衛大佐に打診があった。

 当時、伯爵・山縣有朋(やまがた・ありとも)陸軍大将(山口・奇兵隊総管・戊辰戦争・維新後陸軍大輔・中将・陸軍卿・近衛都督・西南の役・征討参軍・陸軍卿・参謀本部長・伯爵・内務大臣・農商務大臣・内閣総理大臣・大将・司法大臣・枢密院議長・日清戦争・第一軍司令官・監軍・陸軍大臣・侯爵・元帥・内閣総理大臣・参謀総長・枢密院議長・公爵・枢密顧問官・枢密院議長・公爵・従一位・菊花章頸飾・功一級・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)は軍部、政官界に人脈を築き、山縣閥を形成していた。

 山縣陸軍大将は伊藤博文とならぶ長州閥の超大物で、三代目の内閣総理大臣を経験していた。ちなみに、日本国初代内閣総理大臣と二代内閣総理大臣は次の通り。

 初代・伊藤博文(いとうひろふみ・山口・英国留学・維新後外国事務局判事・初代兵庫県知事・初代工部卿・宮内卿・岩倉使節団副使・内務卿・憲法調査で渡欧・初代内閣総理大臣・初代枢密院議長・内閣総理大臣<二次>・内閣総理大臣<三次>・貴族院議長・初代韓国統監・安重根により暗殺される・公爵・従一位・菊花章頸飾・大英帝国バス勲章勲一等など)。
 
 二代・黒田清隆(くろだ・きよたか・鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後開拓次官・欧米旅行・開拓使長官・陸軍中将・北海道屯田憲兵事務総理・全権弁理大臣として日朝修好条規締結・西南戦争で征討参軍・開拓長官・内閣顧問・農商務大臣・第二代内閣総理大臣・枢密顧問官・逓信大臣・枢密院議長・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・ロシア帝国白鷲勲章など)。

 当時、山縣陸軍大将は枢密院議長で、海軍整理取調委員長でもあった。山本大佐の直接の上司ではないが、内閣において海軍整理を担当する最高責任者だった。

 山本大佐は、山縣陸軍大将に会うことにした。まさに「乗り込んで行く」意気込みだった。山縣陸軍大将は、気軽に訪問できる相手ではなかったのだ。

 山本権兵衛大佐が、目白の枢密院議長・山縣陸軍大将の自宅を訪ねると、山本大佐が挨拶するのを待ちかねたというように、山縣陸軍大将は「官位や身分をはぎとり、ただの山本権兵衛と山縣有朋の対面、そういうことでゆこうと思うが、どうかな?」と、勇ましく切り込んできた。

 山本大佐は、『痩身で眼光は鋭い。だが、背中のあたりに弱気の部分があるのを隠そうとして虚勢をはっている』と、山縣陸軍大将の印象を受けた。

 「結構ですな」と山本大佐が返答すると、山縣陸軍大将は「国防とは何か、日本の国防はいかにあるべきか……ご意見をうかがおう」と言った。

 ここは高飛車に出るのがよかろうと、山本大佐は、咄嗟に判断した。相手が“聴く耳で構えている”のだから、こちらとしては、“聞かせてやる口”で対応すべきだと思った。

 つまらぬ謙遜をして機嫌を損ねるのは得策ではない。とはいえ、さすがに経歴と身分の差は越えられないので、山本大佐は、次の様に下手に出た。

 「維新の時、閣下は参謀として一方の軍を指揮なされ、私は小銃を担いで従軍しました。それを思い出せば、今ここで閣下を相手に軍事を談ずるに躊躇せざるを得ないところが無いとは……」。

 以上のように、とりあえず、謙遜をしておき、山本大佐は、山縣陸軍大将に口を挟む暇を与えずに、一気に次の様にまくしたてた。
 
「維新のあとは兵学校で最新の軍事学を研鑽した上で、欧米各国の海軍事情の視察に相当の経験を積みました。閣下のお相手を務めるに足る、いささかの知識と抱負は持ち合わせているつもりであります」。

 ふむふむと、穏やかな表情で山縣陸軍大将は聴き入っていた。高い身分にかかわらず、他者の意見には謙虚に耳を傾ける人物……そういう評判に包まれたいのが、山縣陸軍大将の欲なのだと山本大佐は判断した。





644.山本権兵衛海軍大将(24)西郷に『オハンは権兵衛ばかりを用いよる』とくってかかった

2018年07月27日 | 山本権兵衛海軍大将
 その中で、岡田啓介大将は、自分が人事局長(大正四年十二月~大正六年十一月)だった時のことを振り返って、当時の伯爵・山本権兵衛大将(首相辞任後海軍長老)の人事行政に対する対応について、次の様に回顧している。

 「海軍の進級会議が始まる前には、進級する資格を備えている人の考課表を、すっかり整頓するのであるが、山本伯はそれが整頓されると三日ほどもかかって、よく目を通された。そして進級会議席上で議論が紛糾してくると、山本伯は本人の考課表を読んで見よといわれる」

 「もちろん伯としては、読まなくてもちゃんと知っているのだが、みなを納得させるためであった。そして、その人物がよくわかるように書いてある考課表が読まれ、さしもの大議論もまとまるというわけである。私も、これには感心させられた。故伯が人事行政に深い注意を払われたことは、これでもよくわかると思う」。

 また、病気のため職を辞し、約三十年名古屋に病臥中の稲葉宗太郎中佐(愛知・海兵一四・少佐・砲艦「操江」艦長・中佐・予備役)も、次の様に語っている。

 「山本伯は軍務局長をやった大佐の時代から、権兵衛大臣で通ったほど、時の西郷海軍大臣に用いられたものである。あるとき、新橋の花月で陸海軍のえらい連中が集まったが、西郷に『オハンは権兵衛ばかりを用いよる』とくってかかった」

 「しかし西郷はとりあわず、『権兵衛とおまえらとは、値うちが違う』と笑ったそうである。したがって権兵衛伯の勢力はたいしたもの」

 「例のシーメンス事件を摘発した名古屋出身の故太田三次郎(おおた・さんじろう)大佐(愛知・海兵一三・捕獲審検所評定官・大佐・シーメンス事件で海軍の粛清を訴え山本権兵衛内閣を弾劾し勲位をうばわれ免官)が海軍大学時代のこと、校規に従わぬというので海軍をクビになりかけたが、権兵衛伯はその負けじ魂にほれこんで用いたという」

 「長の陸軍、薩の海軍と呼ばれていた時代に、伯は人材登用主義であった。私も太田と同じく大尉の時代に、水兵を募集する兵事官に推薦されたところから全国に海軍思想の宣伝演説にまわったのが、伯に認められる機会となり、後には副官や参謀などという位置にまわされたものだ。伯は藩閥をつくるような人ではなく、常に線の太い人だった」。

 また、明治四十三年、軍事参議官・山本権兵衛大将の副官(少佐)だった小林躋造(こばやし・せいぞう)大将(広島・海兵二六・三番・海大六首席・中佐・装甲巡洋艦「磐手」副長・海軍大学校教官・海軍技術本部副官・大佐・巡洋艦「平戸」艦長・海軍省副官・在英国大使館附武官・少将・第三戦隊司令官・軍務局長・中将・ジュネーヴ海軍軍縮会議全権随員・練習艦隊司令官・艦政本部長・海軍次官・連合艦隊司令長官・大将・予備役・台湾総督・貴族院議員・国務大臣・勲一等旭日大綬章)も、次の様に述べている。

 「一時薩摩海軍などといって、薩人でなければ海軍の要職にはつけないといわれ、その中心が大将であるかのように伝えられたものだが、そんなことはない。私にも時々人物評論を聞かせてくれたが、特に同郷の人を庇護されるようなことは毛頭なく、むしろ他郷の人材を推称されていた。伊藤博文公には最も推服されていたようである」

 「いま海軍部内に見ても、山本大将以後海軍大臣になった人は、財部大将を除いて、みな薩人ではない。軍令部長も伊集院元帥以後みな他郷の人である。そして、これらの人々は、多く山本大将が海軍大臣に在職していた八年間に頭角をあらわし、重用されてきたのだと見なければならない」。

 話は戻って、明治二十六年の人員整理で、海軍省主事・山本権兵衛大佐の思い切った人員整理案には、西郷従道海軍大臣もいささか驚いた。

 西郷海軍大臣「こんなに多数の士を淘汰して、万一の場合、すなわち一朝有事に際し、配員上支障をきたすおそれはないか?」。

 山本大佐は「いまや新教育を受けた士官が増加しているので、この程度の整理を行っても、一旦緩急の日第一線に配置すべき者は十分です。もし戦線が拡大したり、持久の状態になって予備役の者を要する場合が来た時は、あらためてこれを招集し、それぞれ担当の部署もあてればよいと思います」。

 この山本大佐の説明に西郷海軍大臣も納得し、諸制度改正案公布の際に、人員整理決行の手続きをとった。

 だが、この人員整理は、明治海軍創業以来、初めての大整理であり、しかも維新当時から功績を重ねて重要な地位に進んでいる者も多数含まれていたため、いざ諭旨退役の令書が発せられると、一時蜂の巣をつついたようになった。


643.山本権兵衛海軍大将(23)海軍の将来を考えた場合、淘汰する必要があると認めた者は断じて整理した

2018年07月20日 | 山本権兵衛海軍大将
 丁度そんな時に、行政整理が始まった。海軍としても、山本大佐の成案に基づいて、思い切った改革を断行することにした。

 海軍における改革案件は、明治二十六年五月から十二月にかけて逐次公布実施されたが、その中でも特記すべきは、海軍軍令部条例の制定であった。

 当時、参謀事項は、陸軍ではすでに陸軍参謀本部という独立機関になっていたが、海軍では海軍参謀部の名で、海軍大臣の下にあった。

 つまり、海軍大臣は、各省官制に掲げる所管事項のほかに、いわゆる参謀官の職務をも担当していた。

 それが、今回、海軍軍令部条例の制定によって改められ、海軍参謀機関は本省と離れて、海軍軍令部という名のもとに、陸軍参謀本部と同様、独立部門となった。

 また、予算の削減で、どうしても人員を大幅に減らさねばならなかったが、現役を退かされたものは、将官八名、佐官・尉官八十九名という、これまでにない多数となった。

 海軍省主事(明治二十六年に官房主事は廃され海軍省主事となった)である山本大佐は、海軍諸制度の改革にともない、人事行政も刷新することを考慮していたので、その淘汰すべき人員を調査して、名簿を作製、西郷海軍大臣に提出した。

 この調査は、山本大佐は公平無私の態度で終始した。たとえ、同郷出身の先輩で維新当時から勲功を積み将官に地位に在る者でも、あるいは、自分と親しく交わっていた者でも、海軍の将来を考えた場合、淘汰する必要があると認めた者は断じて整理した。

 自分に反対して悪口を放つ者であっても、将来国家有用の材であると認めた時は、かえってこれを推薦した。

 例えば、この機会に用いられ、後に宰相、将軍となった次の人々は、山本大佐とはまったく他郷の人々だった。

 斎藤実(さいとう・まこと)大将(岩手・海軍兵学寮六期・三番・少佐・侍従武官・中佐・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・海軍次官・少将・臨時海軍建築部長・中将・艦政本部長・海軍大臣・大将・予備役・朝鮮総督・ジュネーヴ海軍軍縮会議全権・枢密顧問官・朝鮮総督・内閣総理大臣・文部大臣・日本ボーイスカウト連盟総長・内大臣・二二六事件で暗殺される・子爵・従一位・大勲位菊花大綬章・ロシア帝国白鷲勲章・イギリス帝国バス勲章グランドクロスなど多数)。

 出羽重遠(でわ・しげとお)大将(福島・戊辰戦争で白虎隊・海軍兵学寮五期・六番・少佐・巡洋艦「高雄」副長・海軍省第一局第一課長・海軍省大臣官房人事課長・砲艦「赤城」艦長・通報艦「龍田」艦長・英国出張・警備艦隊参謀長心得・大佐・西海艦隊参謀長・海軍省軍務局第一課長・海軍省軍務局軍事課長・装甲巡洋艦「常磐」艦長・少将・常備艦隊司令官・横須賀鎮守府艦政部長・海軍省軍務局長・軍令部次長・常備艦隊司令官・第一艦隊司令官・中将・第四艦隊司令長官・第二艦隊司令長官・海軍教育本部長・第二艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・大将・シーメンス事件査問委員長・男爵・正二位・旭日桐花大綬章・ロシア帝国神聖スタニスラス第一等勲章等)。

 岡田啓介(おかだ・けいすけ)大将(福井・海兵一五・七番・海大二・中佐・海軍水雷学校教官・大佐・海軍水雷学校校長・装甲巡洋艦「春日」艦長・戦艦「鹿島」艦長・少将・海軍省人事局長・中将・艦政本部長・海軍次官・大将・連合艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・後備役・内閣総理大臣・従三位・旭日菊花大綬章・功三級・フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)。

 名和又八郎(なわ・またはちろう)大将(福井・海兵一〇・一七番・少佐・コルベット「金剛」分隊長・中佐・コルベット「金剛」副長・海軍省副官・海軍大臣秘書官・舞鶴鎮守府参謀・大佐・海軍省人事局第二課長・海軍省人事局第一課長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・防護巡洋艦「厳島」艦長・軍令部第四班長・少将・呉鎮守府参謀長・第三艦隊司令官・中将・海軍教育本部長・第二艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・従二位・勲一等旭日大綬章・功四級)。

 佐藤鉄太郎(さとう・てつたろう)中将(山形・海兵一四・五番・少佐・在英国日本公使館附駐在武官・在米国日本公使館附駐在武官・海軍大学校教官・通報艦「宮古」副長・中佐・防護巡洋艦「厳島」副長・装甲巡洋艦「出雲」副長・常備艦隊参謀・第二艦隊参謀・戦艦「朝日」副長・通報艦「龍田」艦長・海軍大学校選科学生・海軍大学校教官・大佐・防護巡洋艦「宗谷」艦長・装甲巡洋艦「阿蘇」艦長・海軍大学校教官・海軍大学校教頭・少将・海軍省軍令部第一班長兼海軍大学校教官・海軍省軍令部次長・中将・舞鶴鎮守府司令長官・予備役・学習院教授・勅選貴族院議員・正三位・勲一等瑞宝章・功三級)。

 上泉徳弥(かみいずみ・とくや)中将(山形・海兵一二・一三番・海大将校科一・少佐・装甲艦「鎮遠」水雷長・巡洋艦「八重山」副長・戦艦「敷島」水雷長・防護巡洋艦「秋津洲」副長・中佐・装甲巡洋艦「千代田」副長・佐世保海兵団副長・竹要第二水雷敷設隊司令・防護巡洋艦「高砂」副長・軍令部副官・軍令部参謀・大佐・防護巡洋艦「浪速」艦長・装甲巡洋艦「吾妻」艦長・巡洋戦艦「生駒」艦長・戦艦「薩摩」艦長・少将・大湊要港部司令官・鎮海防備隊司令官・横須賀水雷団長・横須賀水雷隊司令官・第一艦隊司令官・佐世保水雷隊司令官・中将・予備役・国風会会長・従四位・勲四等旭日小綬章・功四級・シャム国王冠三等勲章)。




642.山本権兵衛海軍大将(22)この二艦がなければ、日清戦争での黄海海戦の勝利はなかったかもしれない

2018年07月13日 | 山本権兵衛海軍大将
 西郷海相は、山本大佐の撤桟事件に関する綿密・的確な調査、難物の袁世凱から必要な情報の全てを引き出した外交的手腕、公使・領事・在留邦人の保護についての適切な対策、事件の結末に対する明察等々、改めて、感嘆、評価した。

 西郷海相は、山本大佐に対して、「何事も、この男に委せればよか」という思いを一層強くした。

 三月下旬、山本権兵衛大佐は参内し、山縣有朋首相以下閣僚が陪席する中で、明治天皇に対して、事件の真相、機宜(きぎ=時機にふさわしいこと)に応ずる措置等を、二時間余に渡って滔々(とうとう=水が勢いよく流れるさま)と報告した。

 大佐の地位で、このような参内、報告の例はほとんどなく、それだけ朝鮮問題が、天皇、閣僚にとって、重要事であったのだが、山本大佐の報告も、それに値するほど秀逸だったと言われている。

 当時、「定遠」「鎮遠」を主力とする清国海軍に対抗するため、速射砲多数を備える高速艦の建造が切望されていたが、すでに建艦の予算が底をついていた。

 これを深く憂慮した明治天皇は、明治二十三年三月、特に勅令を下し、軍艦建造に充てるため、宮廷費から三十万円を下付した。

 これが伝えられ広まり、多くの国民から「軍艦寄付金」の申し込みが続き、数か月間で二百三万八千余円が集まった。

 皇室からの三十万円、国民の寄付、それに公債によって、「速射砲を備える高速巡洋艦」である、「吉野」「秋津洲」の二艦が建造されることになった。この二艦がなければ、日清戦争での黄海海戦の勝利はなかったかもしれない。

 明治二十六年九月三十日、英国のアームストロング社で竣工した防護巡洋艦「吉野」は、四二一六トン、全長一〇九・七三メートル、蒸気レシプロ二基二軸、当時世界最高の速力二十三ノット(時速約四十三キロ)、全て速射砲の主砲十五センチ砲四門、副砲十二センチ砲八門、乗組員三六〇名の優秀艦だった。

 明治二十七年三月三十一日、横須賀工廠で竣工した防護巡洋艦「秋津洲」は、三一七二トン、全長九一・八メートル、蒸気レシプロ二基二軸、速力一九ノット(時速約三五キロ)、全て速射砲の主砲十五センチ砲四門、副砲十二センチ砲六門、乗組員三三〇名。設計から建造までの全てを初めて日本国内で行った、日本初の国産新鋭艦だった。

 明治二十四年四月、四十歳となった山本権兵衛は、分家して一家をかまえた。それまでは鹿児島士族の兄の山本盛英の家族の一員であったが、分家して東京府の平民、山本権兵衛となった。

 明治二十四年六月十七日、山本権兵衛大佐は、防護巡洋艦「高千穂」(三七〇九トン・乗組員三二五名)艦長から海軍大臣官房主事に補せられた。

 明治二十五年十一月二十九日、第四回帝国議会が開会された。政府(伊藤博文首相)提出の 明治二十六年度予算案は議会で修正されたが、その攻防で大混乱になったが、最終的に予算総額を経常・臨時あわせて二百六十万円削除することに決定された。

 予算の削減により、政府は行政整理断行が必要となり、明治二十六年三月二十三日、各省からの委員による行政整理取調委員会を設けた。

 山本権兵衛大佐は、海軍大臣官房主事に就いたとき、密かに考えていたことがあった。明治維新以来すでに二十数年を経て、その間海軍は、規模の上でも技術の上でも、めざましい進歩をとげた。

 その制度もそれにつれて変わってきてはいたが、今や根本的に改革すべき時期が来ていると考えた。

 山本大佐は、以前、樺山資紀(かばやま・すけのり)海軍次官(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後陸軍少佐・西南戦争・大佐・熊本鎮台参謀長・警視総監・陸軍少将・海軍大輔・海軍次官・海軍大臣・海軍軍令部長・日清戦争・大将・台湾総督・枢密顧問官・内務大臣・文部大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)に随従して外国の海軍の諸制度を見ていた。
 
 そこで、西郷従道海軍大臣の承認を得て、海軍諸制度の改革整理について研究調査に着手し、明治二十五年秋頃には、相当範囲に渡って成果を得ていた。



641.山本権兵衛海軍大将(21)朝鮮政府も大院君側も、くるくる変わり、当てになりません

2018年07月06日 | 山本権兵衛海軍大将
 山本大佐の言葉に、袁世凱はうなずき、次の様に言った。

 「まさしくお言葉の通りです。また各国の商人が京城に在って朝鮮商人とともに競争し、互いに通商の道を発達させることは、朝鮮商人の不利ではなく、間接的な利益になることが夥(おびただ)しくあります」

 「たとえ居留商人をことごとく城外に移転させても、朝鮮商人はこのために少しも利益は得られず、ただ冗費を支出させられる(立退料の負担も含む)に過ぎません」。

 これに対して、山本大佐は次のように述べた。

 「今年中に我が国は、また二、三艘の新艦を得ることになりましょう。願わくは、数年を出ないうちに貴国の艦隊と連合し、一大連合艦隊を組成して、太平洋に運動を試みるように至らせたいものです」。

 袁世凱も、次の様に応じた。

 「私もそれを期待して待ちます。もし我々が将来そのようにできれば、他の国の軍艦をシンガポールの関門から東に入らせるものではありません」。

 山本大佐は椅子から離れ、別れの言葉を述べた。

 「あなたの御病気を冒し、強いて面接を申し入れ、はなはだ失礼しました。しかし、あなたが面接を許して下さり、旧交を温め、一層の友好を加えることができました」。

 これに対し、袁世凱は次のように答えた。

 「遠くまで来訪を辱(かたじ)けなくし、またご高説をいただき、幸甚というほかありません。私もいつかあなたの艦に乗せていただくことがありましょう。これからもしばしば尋ね合い、交際を厚くし、なお一層の親睦を保つことを望みます」。

 会談はこうして終わった。日本公使館に帰った山本大佐は、会談の内容を近藤公使に詳しく説明し、次の様に意見を述べた。

 「朝鮮政府は、一定の方針がなく、内外の政事全て一時の姑息に出て、確たる信用を措くことはできない。撤桟事件は、今日の情勢から推測すれば、再び騒擾(そうじょう)を生じる(一時全韓国商店のストライキが起こり、嫌悪な空気が広がった)ことはないであろう」

 「袁世凱は朝鮮政府の独立を計ろうとしているのか、朝鮮政府を属国視してその独立を希望しないのか、真意は不明だが、彼が朝鮮政府の外務督弁(外務大臣)などに接する様子を見ると、あたかも臣僕(家来としもべ)を見るようである。これに自分は大きな疑念を抱いている」

 「もし事変が発生したら、なるべく兵力に頼らずに防衛鎮圧うることを図り、朝鮮政府、各国公使と十分協議し、日本の既定方針に従って目的を達成するよう処置すべきである」。

 山本大佐の見解に、近藤公使も全面的に賛成した。

 その夜、近藤公使が、山本大佐以下のため、夜会を催してくれた。その夜会で、山本大佐は、近藤公使から別室に引き込まれた。近藤公使は、次の様に言った。

 「大院君が、『現政府の要人五人を殺し、甲申の変で日本に亡命した独立党の金玉均・朴泳孝を政府に入れ、自分が政治を行えば、弊政は変革される。手を貸してくれないか』と言っているのだよ」。

 これに対して、山本大佐は、明解に次の様に返答した。

 「それは我々を籠絡(ろうらく=手なずけて思い通りに操る)し、彼らの陰謀(閔派を潰滅させて大院君が政治の実権を握る)にあずからしめ、その結果、我々にその責任をかぶせようというものでしょう。軽々しく応ずべきではありません」

 「朝鮮政府も大院君側も、くるくる変わり、当てになりません。日本政府を代表してこの局面に当たる者は、一定の方針を確定して、どのような事変に遭遇しても、断然その方針を貫くべきです」。

 任務を終えた山本大佐は、仁川の巡洋艦「高雄」(一七七四トン・乗組員二二〇名)に戻って、帰途に着いた。巡洋艦「高雄」は、明治二十三年三月十日、品川沖に帰着した。

 帰国した山本権兵衛大佐は直ちに海軍省に出頭し、西郷従道海相に口頭で復命し、文書も提出した。
その中で、特に、「警備艦の増強が急務である。多数の警備艦を韓国の沿岸に配置し、韓国に異常事態が発生した場合、即座に東京に連絡が取れるようにするのが必要だ」と強調した。