陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

642.山本権兵衛海軍大将(22)この二艦がなければ、日清戦争での黄海海戦の勝利はなかったかもしれない

2018年07月13日 | 山本権兵衛海軍大将
 西郷海相は、山本大佐の撤桟事件に関する綿密・的確な調査、難物の袁世凱から必要な情報の全てを引き出した外交的手腕、公使・領事・在留邦人の保護についての適切な対策、事件の結末に対する明察等々、改めて、感嘆、評価した。

 西郷海相は、山本大佐に対して、「何事も、この男に委せればよか」という思いを一層強くした。

 三月下旬、山本権兵衛大佐は参内し、山縣有朋首相以下閣僚が陪席する中で、明治天皇に対して、事件の真相、機宜(きぎ=時機にふさわしいこと)に応ずる措置等を、二時間余に渡って滔々(とうとう=水が勢いよく流れるさま)と報告した。

 大佐の地位で、このような参内、報告の例はほとんどなく、それだけ朝鮮問題が、天皇、閣僚にとって、重要事であったのだが、山本大佐の報告も、それに値するほど秀逸だったと言われている。

 当時、「定遠」「鎮遠」を主力とする清国海軍に対抗するため、速射砲多数を備える高速艦の建造が切望されていたが、すでに建艦の予算が底をついていた。

 これを深く憂慮した明治天皇は、明治二十三年三月、特に勅令を下し、軍艦建造に充てるため、宮廷費から三十万円を下付した。

 これが伝えられ広まり、多くの国民から「軍艦寄付金」の申し込みが続き、数か月間で二百三万八千余円が集まった。

 皇室からの三十万円、国民の寄付、それに公債によって、「速射砲を備える高速巡洋艦」である、「吉野」「秋津洲」の二艦が建造されることになった。この二艦がなければ、日清戦争での黄海海戦の勝利はなかったかもしれない。

 明治二十六年九月三十日、英国のアームストロング社で竣工した防護巡洋艦「吉野」は、四二一六トン、全長一〇九・七三メートル、蒸気レシプロ二基二軸、当時世界最高の速力二十三ノット(時速約四十三キロ)、全て速射砲の主砲十五センチ砲四門、副砲十二センチ砲八門、乗組員三六〇名の優秀艦だった。

 明治二十七年三月三十一日、横須賀工廠で竣工した防護巡洋艦「秋津洲」は、三一七二トン、全長九一・八メートル、蒸気レシプロ二基二軸、速力一九ノット(時速約三五キロ)、全て速射砲の主砲十五センチ砲四門、副砲十二センチ砲六門、乗組員三三〇名。設計から建造までの全てを初めて日本国内で行った、日本初の国産新鋭艦だった。

 明治二十四年四月、四十歳となった山本権兵衛は、分家して一家をかまえた。それまでは鹿児島士族の兄の山本盛英の家族の一員であったが、分家して東京府の平民、山本権兵衛となった。

 明治二十四年六月十七日、山本権兵衛大佐は、防護巡洋艦「高千穂」(三七〇九トン・乗組員三二五名)艦長から海軍大臣官房主事に補せられた。

 明治二十五年十一月二十九日、第四回帝国議会が開会された。政府(伊藤博文首相)提出の 明治二十六年度予算案は議会で修正されたが、その攻防で大混乱になったが、最終的に予算総額を経常・臨時あわせて二百六十万円削除することに決定された。

 予算の削減により、政府は行政整理断行が必要となり、明治二十六年三月二十三日、各省からの委員による行政整理取調委員会を設けた。

 山本権兵衛大佐は、海軍大臣官房主事に就いたとき、密かに考えていたことがあった。明治維新以来すでに二十数年を経て、その間海軍は、規模の上でも技術の上でも、めざましい進歩をとげた。

 その制度もそれにつれて変わってきてはいたが、今や根本的に改革すべき時期が来ていると考えた。

 山本大佐は、以前、樺山資紀(かばやま・すけのり)海軍次官(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後陸軍少佐・西南戦争・大佐・熊本鎮台参謀長・警視総監・陸軍少将・海軍大輔・海軍次官・海軍大臣・海軍軍令部長・日清戦争・大将・台湾総督・枢密顧問官・内務大臣・文部大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)に随従して外国の海軍の諸制度を見ていた。
 
 そこで、西郷従道海軍大臣の承認を得て、海軍諸制度の改革整理について研究調査に着手し、明治二十五年秋頃には、相当範囲に渡って成果を得ていた。