陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

640.山本権兵衛海軍大将(20)私もまた『壬午の変』の惨状を見たくありません。貴方はこれをどう予想しますか

2018年06月29日 | 山本権兵衛海軍大将
 すると、袁世凱は、面会に応じた。袁世凱に会うと、山本大佐は挨拶し、次の様に折り目正しく述べた。

 「貴方にお目にかかり、親睦を頂いてから、三年の星霜を経ました。この度、私の艦が幸い済物浦(さいもつぽ=仁川)に寄港しましたので、修好を温めようと思い、お訪ねしました」

 「ところが、貴方が病床にあって、面接を謝絶されました。左右を顧みず、強いて再び面接を請いましたが、私の意を深く諒解され、面接を承認され、ここに旧交を温めることができました。これに過ぎる幸せはありません」。

 この言葉を聞いて、こわばっていた袁世凱の顔が和らぎ、喜びが浮かんだ。袁世凱は次の様に応じた。

 「先年は、はからずも、ご来訪を辱けなくし、さらにご高説をいただき、はなはだ幸福でありました。また今回は僅少の時日を惜しまず、再び来訪を辱けなくし、まことに恐懼(きょうく)に存じます」。

 これで、話がしやすくなったので、山本大佐は次の様に述べて、袁世凱の気を引いた。

 「貴方に是非一度、国産新鋭艦の『高雄』に来艦していただきたい。日清両海軍は一致して東アジア海域の安寧を保持すべきである。一昨年から昨年にかけて、樺山海軍次官に随行して欧米を巡視した」。

 そのあと、山本大佐は、肝心の件に踏み入って、次の様に述べた。

 「私は朝鮮政府の方針がいかなるものか知りませんが、今日のように我々各国の商業に自由を与え、その発達を妨害することがなければ幸いと思います。それが私のいささか気がかかりとするところなのです」。

 すると、袁世凱は、即座に応じて、次の様に語った。

 「まことに、その通りです。私はまた朝鮮政府の方針については、常に信が措けず、頭を痛めています。もし朝鮮政府が明確に方針を定め、我々各国の商業を自由に発達させるならば、私は貴方に、今日から三年後に、今日に十倍する進歩を必ずお目にかけましょう」。

 これに対し山本大佐が、「この度の撤桟事件は、はなはだよく順序を踏んでいます。その策略は、ただ朝鮮人民が企画したものではなく、起因となったものがあるはずです」と言うと、袁世凱は、「そうです。私もそのようなものがあったと信じます」と答えた。

 続いて、山本大佐が、「朝鮮政府が撤桟を実施するには、貴国をはじめ、各国と締結した条約を、談判によって変更させなければなりませんが、容易に合意することはできないと信じます。貴方の御意見はいかがです」と述べた。

 袁世凱は「たとえ、撤桟の要求が通っても、朝鮮側も各国側も、少しの利益もありません。ですからとうてい成功は望めません」と答えた。

 山本大佐は、「朝鮮政府はこの事件について、国書を携えた使節を二月二十三日に、貴国政府に発したそうですが、それは、貴方が了承したことですか」と尋ねた。

 袁世凱は「私は一つの相談も受けませんでしたが、一応の通知は受けました。しかし、この事件は、使節を発しようが、私に談判しようが、帰するところは一つです。その効用はさらになく、使節は清国見物をするだけに終わるといえましょう」と答えた。

 これに対して、山本大佐は、次の様に述べた。

 「朝鮮政府が貴国に使節を発したために、朝鮮商人たちは、はじめて業に就き、いったん平穏に帰ったようです。けれども、貴国がこの談判を承諾するわけがありません。貴国や各国が最終的にこの談判に応じなければ、その結果はどうなりますか。これは暴兵窮民が企てた事件ではなく、豪商富賈(ふか=裕福な実業家)が起こしたものですから、それ以上自分の財貨を消費する下策は取りますまい。私もまた『壬午の変』の惨状を見たくありません。貴方はこれをどう予想しますか」。

 この山本大佐の、問いかけに対して、袁世凱は次の様に答えた。

 「私は心配することはないと信じます。なぜかといえば、元来この事件には一人の教唆者がいて、陰に私を苦しめようと図ったものなのです。ですからその者がこの件と関係を断つことになれば、もはや再燃することはないはずです。しかし、朝鮮政府は朝令暮改で信を置けず、また将来を予言することができません」。

 山本大佐は、ここで、撤桟に対する自分の見解も明確に述べるべきだと思い、次の様に話した。

 「撤桟の件は、私は容易にこれを承諾できません。そもそも各国の商人が京城にいるのは、単に商業の目的だけではなく、政略上の目的によるもののようです。もしこれを撤去すれば、あるいは他日、東洋に一変動を起こす起因が芽生えかねません」。










639.山本権兵衛海軍大将(19)袁世凱は、風邪と称して、山本権兵衛大佐の面会を謝絶した

2018年06月22日 | 山本権兵衛海軍大将
 明治二十二年四月十二日、欧米先進国海軍視察から帰国してから半年後に、山本権兵衛少佐は中佐に進級し、まだ儀装中の国産初の新鋭巡洋艦「高雄」艦長心得に任命された。

 その後、同年八月二十六日、山本権兵衛中佐は大佐に進級し、巡洋艦「高雄」艦長となった。まだ、三十六歳だった。

 明治十九年十月、フランスで竣工した防護巡洋艦「畝傍」が日本への回航途中、同年十二月三日、シンガポールを出港後、消息不明となった。真相は永遠の謎となった。

 このことから、艦長・山本権兵衛大佐は、荒天航行特別試験を申請し、多数の造船士官を「高雄」に乗せて、延々四十日に渡る航海を実施した。

 相変わらず、思い切ったことを実行する人で、若い頃は「喧嘩権兵衛」と言われていた、山本大佐だが、意外なことに、士官が下士官兵を殴ることは認めなかった。

 明治二十三年一月、韓国の首都、京城で「撤桟事件」が発生した。京城の韓国商人らが、日本、清国、その他諸外国の商人全員の京城撤去を要求したのだ。

 韓国では、王族の一人が死去すると、その葬儀料の一切を京城の商人に負担させる慣例があった。

 たまたま、大王大妃(皇太后)が重態で、もし死去すれば、京城の韓国商人らは重税を課されることになる。

 ところが、この税は、韓国商人だけに課され、日本や清国、その他諸外国の居留商人には課されないことになっていた。

 憤慨した韓国商人たちは、結集して諸外国商人らの京城撤去を要求し、一月二十九日から、米店以外の全ての店がストライキに入った。

 この「撤桟事件」の実情調査と、在京城の日本公使、領事、在留邦人の保護対策の研究を、西郷従道海軍大臣から命じられたのは、新鋭巡洋艦「高雄」艦長の山本権兵衛大佐だった。

 明治二十三年二月二十三日、山本大佐は、巡洋艦「高雄」を率いて、横須賀港を出港、韓国の仁川に向かった。

 三月三日、山本権兵衛大佐は、京城の日本公使館で、近藤真鋤(こんどう・ますき)公使(滋賀・蘭学修習・医師・外務省入省・外務権大録・ロンドン勤務・外務権少書記官・初代釜山浦領事・京城在勤書記官・仁川領事・権大書記官・外務省記録局長・朝鮮臨時代理公使・正五位・勲三等)から事件の経緯を聞いた。それは次のようなものであった。

 「京城の韓国商人らが、課税の不平等に怒り、この挙に及んだことは事実だが、韓国政府顧問のアメリカ人、デニーが、清国代表の権謀的な袁世凱と、袁世凱と結ぶ大院君李是応の横暴を憎み、苦しめようとして、韓国商人らの撤桟運動を応援したことも、その一因になっている」

 「日本、清国、その他諸外国商人の京城居留通商は、各国が韓国政府と締結した条約に基づいて行われている。もし諸外国商人を京城から撤去させようとするならば、その条約を変更しなければならない」

 「それも、最初にこの条約を締結した外国は清国だから、韓国政府は清国政府と交渉して、条約の変更を承認させる必要がある」

 「ただ、諸外国が仮に自国商人の京城撤去を承認しても、商人らは立退き料を請求するに違いないし、また、韓国側はそれを支払う義務がある。しかし、韓国側はそれだけの費用を負担することは不可能のはずである」

 「また、デニーは、三月に満期解雇となり、アメリカに帰るという。そうなれば、撤桟問題も立ち消えになるのではないか」。

 以上の報告を受けた、山本権兵衛大佐は、三月六日、日本公使館通訳・鄭永邦を従えて、清国公使館に行き、袁世凱に面会を申し込んだ。

 袁世凱は、風邪と称して、山本権兵衛大佐の面会を謝絶した。だが、山本大佐は「先年の旧交を温めたく、また後日を期し難い」と、重ねて面会を申し入れた。

638.山本権兵衛海軍大将(18)山本さん、あなたは初め、おいを嫌いでごわしたな。どこが嫌いでごわしたか

2018年06月15日 | 山本権兵衛海軍大将
 清国政府は、日本政府に賠償金五十万元を支払い、日本軍は台湾から撤兵するというのが主な内容である。西郷従道は参謀らを従えて、十二月二十七日、横浜港に凱旋し、参内して明治天皇に復命して、その勲労を賞された。

 再び西郷海相は、山本伝令使に対して、次の様に話を続けた。

 「兄は、そいまでしばしばおいについて、種々の風説を聞いちょいもしたが、信ずべき根拠もないため、誤解されるこつはいささかもあいもはんでした」。

 この西郷海相の答えは、第一、第二問の答えと違い、不十分としかいえるものではなかった。しかし、山本伝令使は西郷海相の心中(隆盛を衷心から敬愛し、その死を誰よりも悲しむ)を察し、これを深く追求することは、この際為すべきことではないと思い、それ以上責めることは止めにした。

 しかし、山本伝令使にとっては、全体的には、予想よりはるかに満足できる答えであった。

 何年か後のことである。あるとき、西郷従道が、山本権兵衛に「山本さん、あなたは初め、おいを嫌いでごわしたな。どこが嫌いでごわしたか」と尋ねた。
 
 すると、山本は「奸物と思めもした。貴方のしたことが、横着者の所業に見えもした」と答えた。「そうでごわしたか」。西郷は、愉快そうにカラカラと笑った。

 山本権兵衛は、この、明治二十年八月半ば、長崎、丸山の『宝亭』で西郷従道海相から聞いた談話について、晩年の大正十五年十月、雅号「鶴堂」の署名で、手記にしている。山本の生涯で、よほど印象が強く、忘れられない出来事だったのだろう。

 その手記は、「伯爵山本権兵衛伝・上・下」(故伯爵山本海軍大将伝記編纂会編・原書房)に所収されている。その中で、山本は次の様に記している。

 「予は南洲翁に対しては、常に絶大の尊敬を払いしも、西郷従道氏には深く親炙(しんしゃ=その人に近づき親しんで感化を受けること)するの機会少なく、又他より伝聞するところを総合判断するに、従道氏は翁とは違い、才子風にして能く人と交わり、殊に征韓論勃発に際しても、大山(巌)氏と同じく翁と進退を共にせず、却って大久保氏の意志に従い、高島(鞆之助陸軍中佐、のちに陸軍中将、陸相)・野津(野津鎮雄陸軍少将と野津道貫陸軍中佐の兄弟、鎮雄はのちに中将、道貫は後に大将、元帥)其他有力の人々を引き留めたる挙動に考え、実に不満に堪えざりしなり」

 「故に予は帰省の際(明治七年二月)、翁(隆盛)に向かい、左京の薩人中、知名の諸士に関し批評を加えたるとき、従道氏に及びたることありき」

 「……南洲翁の云わるるには、信吾(慎吾と二つ使っていた、従道のこと)は吉次郎(隆盛のすぐ下の弟、戊辰戦争の長岡城攻撃で戦死)と違い、少々小知恵がある故、或いはお咄しのようなこともありしならんか」

 「されど苟も君国の為め一意専心御奉公為すの大義は決して忘れては居らぬ筈と確信する、とのことなりき。蓋し翁の従道氏を思うの真情亦察するに余りありというべし」。

 以上が、山本権兵衛が、丸山の『宝亭』で西郷従道海相から談話を聞く前までの、西郷従道への批判的評価だが、談話を聞き終わった後では、次のように述べて、評価が全く変わっている。

 「之由観之(これによってこれをみるに)、予(山本権兵衛)が従来西郷従道氏に対し、世上の伝聞等を根拠として抱きつつありたる想念は大いに誤れるものあるを識ることを得、それよりは相信じ相頼り、常に隔意なく、諸般の事につき所見を交換することとのれり」。

 明治二十年十月十日、海軍次官・樺山資紀(かばやま・すけのり)中将(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後陸軍少佐・西南戦争では熊本鎮台参謀長・警視総監兼陸軍少将・海軍大輔・海軍少将・中将・軍務局長・次官・海軍大臣・軍令部長・日清戦争・大将・初代台湾総督・枢密顧問官・内務大臣・文部大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級・フランス国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)は欧米先進国海軍の視察に日本を出発した。

 山本権兵衛少佐は、日高壮之丞少佐(のち海軍大将)らと共に、海軍次官・樺山資紀中将の欧米先進国海軍の視察に随行した。

 防護巡洋艦「浪速」の回航委員として一年、さらに、この一年余りの欧米先進国海軍視察旅行で、山本少佐は、日本海軍建設の基礎知識を身につけた。



637.山本権兵衛海軍大将(17)おいのような者まで兄と共に進退しては、陛下に対し奉り忠誠を欠く

2018年06月08日 | 山本権兵衛海軍大将
 西郷隆盛が遣韓使節として朝鮮に渡ることを主張(これが『征韓論』といわれる)し、岩倉具視、大久保利通らの自重論に敗れて鹿児島に帰ったのは、明治六年十月末だった。

 台湾征討は、船が難破して台湾南部に漂着した宮古島島民六十六名のうち五十四名が、明治四年十一月、台湾原住民のアミ族に惨殺されたことが原因だった。
 
 日本政府は、明治五年十月、台湾を領有する清国政府に対して、琉球人民を殺害した台湾原住民犯人の処分を要求した。

 だが、清国側は、「生藩(せいばん=台湾原住民)はすでに、化外(教化の外)にある。生藩の罪を問う、問わぬは貴国の裁断に従えばよかろう」と答えた。

 日本政府は、明治七年四月四日、陸軍中将・西郷従道を台湾藩地事務都督とする台湾征討軍の派遣を決定した。

 ところが、パークス英国公使とデロング米国公使が、日本に対して局外中立を宣言し、両国籍輸送船の使用を拒絶した。

 台湾征討に対して、列強が干渉し、清国に味方することを恐れた日本政府は、結局出兵中止に決定を変更した。

 だが、西郷従道中将は、すでに天皇の大命も四月六日に下っていると反論し、四月二十七日に先発隊が出発していた後、五月二日、後発隊も出発させた。

 以上の事実について、山本伝令使は、西郷海相に質したのだ。山本伝令使の問いは、西郷海相にとっては痛いはずだが、西郷海相は嫌な顔はせず、次の様に率直に答えた。

 「第一の問いについては、深く話しとうごわはん。おいは大山(巌)と同様に欧州に留学(西郷従道は明治二年から三年にかけフランスに留学して、兵制を研究した。大山は明治四年から七年にかけジュネーブを根拠地として欧州各国を回り、大砲・小銃等の兵器を研究した)し、政治、教育、軍事その他を研究しもしたが、帰国してからも、いかにして維新の大業の基礎を確立すべきか、解決案を得ることができもはんでした」

 「その当時、岩倉(具視)公一行が帰朝すっと(明治六年九月)、まず内政を改革し、財政を整理し、その後朝鮮問題を処理すべし、ちゅう方針を提議しもした。こいは当を得たものかもしれんと、おいは思めもうした」

 「ことに兄を朝鮮に派遣すっちゅうは、死地に送ると同様じゃから、あくまでそいを阻止すっが国家のため適当と信じもした」

 「しかし、いくら兄に見識があっても、岩倉公が政府の首席代理では、とうてい満足な結果が得られるはずがなか。そいで辞職して帰国するにしかずと決心したのでごわず」

 「征韓論に関しては、その見方は二つあいもす。兄はその一つを採り、他の者は別の一つを採ったまででごわす。そいを、おいのような者まで兄と共に進退しては、陛下に対し奉り忠誠を欠くと痛感し、踏みとどまったのみで、兄もこいをよく諒解しちょいもした」。

 西郷海相は、盃を干した。山本伝令使は、黙して聞いていた。
  
 「第二の問いに答えもそ。大隈(重信・参議)氏から、『大久保氏長崎着まで待たれたし』ちゅう電報を受領しもしたが、先発隊はすでに出発後で、いかんともできもはん。後発部隊も出発させんければ、国家の面目に関する重大問題にないもすから、おいは全責任を負い、断乎として出発させもした」

 「おいは大久保氏の長崎着(五月四日)を待ち、熟議のうえ、乗船して征台の途に就きもしたのでごわす」。

 このように述べた、西郷海相は、悪びれた様子もなく、次の様に続けて言った。

 「第三の問いについては、こげなことがあいもした。台湾問題終了後、おいは鹿児島に帰省し、兄(隆盛)に会い、兄の政府引退後の世情、政務について詳細に説明し、十分に諒解を得もした」。

 この経緯について次の様に説明してある。

 明治七年八月、参議・大久保利通は全権弁理大臣として北京に赴き、清国代表・李鴻章と交渉を重ねた。十月三十一日に至り、双方は台湾藩地に関する条約に調印し、ようやく和議が成立した。


636.山本権兵衛海軍大将(16)今まで問い質したいと思っていたことを、この際全て聞いてやろう

2018年06月01日 | 山本権兵衛海軍大将
 袁世凱は、傾聴していたが、袁世凱の心中までは判らなかった。だが、袁世凱は山本少佐を「先生」と敬意を込めて呼び、あくまで懇切丁寧に応対をした。

 山本少佐が帰る時、袁世凱はわざわざ公使館の門外まで出てきて、見送った。この時、袁世凱は、山本少佐より七歳年下の二十七歳だった。

 袁世凱は、大人物だったのである。袁世凱は中国では名家の出で、官僚を志し、科挙に二度挑戦したが、どうしても合格せず、軍人になることにした。

 明治十四年、清王朝の重臣・李鴻章率いる淮軍(わいぐん=地方軍)に入隊し、朝鮮に渡った。その後、壬午事変(明治十五年七月二十三日)、甲申政変(明治十七年十二月四日)では、閔妃の要請の下で、巧みな駆け引きで鎮圧に貢献し、情勢を清国に有利に導いた。

 その功績で、袁世凱は、李鴻章の監督の下で、朝鮮公使として、内政にも干渉できるほどの、大きな権限を持った。袁世凱はまだ二十五歳の若さだった。

 だが、明治二十七年七月~明治二十八年三月の日清戦争で、李鴻章は責任を問われ、失脚した。袁世凱は軍隊の近代化を痛感した。その後、袁世凱は、新国軍の洋式化の職務に就任し、大きな成果を挙げた。当時の袁世凱の改革した軍は新建陸軍と呼ばれた。

 その後、西太后の信頼を得た袁世凱は、義和団の乱(明治三十三年六月二十日~明治三十四年九月七日)の功績で、力をつけ、明治三十四年に清国の北洋通商大臣兼直隷総督に就任した。

 日露戦争(明治三十七年二月八日~明治三十八年九月五日)では、袁世凱は、部下の優秀な将校を多数蒙古の奥深く潜入させ、諜報活動をさせ、日本軍に協力した。

 辛亥革命(明治四十四年十月十日~明治四十五年二月十二日)では、袁世凱は、清王朝から内閣総理大臣に任命され、革命の鎮圧を命じられたが、革命派と極秘に連絡を取り、清王朝を滅亡させた。

 明治四十五年二月十二日、清王朝最後の皇帝・宣統帝が退位して清王朝は滅亡した。袁世凱は、新生中華民国の臨時大総統に就任した。

 中華民国の大総統に就任した袁世凱は、その後、大正四年に帝政を復活させ、中華帝国の皇帝に即位した。だが、国民の反発や日本の非難により、大正五年三月に退位、六月に死去した。

 以上が袁世凱の、清王国から中華民国、さらに中華帝国までの生涯の概要である。

 明治二十年七月十一日、山本権兵衛少佐は、スループ「天城」艦長から、海軍大臣伝令使に転任となった。伝令使は後の秘書官である。

 当時の海軍大臣は、西郷従道(さいごう・つぐみち)中将(鹿児島・戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いで重症・維新後渡欧し軍制調査・兵部権大丞<二十六歳>・陸軍少将<二十八歳>・陸軍中将<三十一歳>・台湾出兵・藩地事務都督・陸軍卿代行・近衛都督・陸軍卿<三十五歳>・農商務卿・兼開拓使長官・伯爵・海軍大臣<四十二歳>・元老・枢密顧問官・海軍大将<五十一歳>・侯爵・元帥<五十五歳>・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)だった。

 海軍大臣・西郷従道中将と伝令使・山本権兵衛少佐は、建設中の呉と佐世保の鎮守府地域を視察するため、七月二十九日、東京を出発した。

 視察後、二人は、八月半ば、長崎へ行って、数日滞在した。ある日、西郷海相が「今日は暇ができた。朝から丸山の『宝亭』に行って、おはんとゆるゆる話したか」と、誘った。

 山本伝令使は「大いに賛成ごわす」と答えて、「いい機会だ。今まで問い質したいと思っていたことを、この際全て聞いてやろう」と考えたのだ。

 『宝亭』の座敷で対座し、乾杯した後、山本伝令使は、山本海相に次の様に言った。

 「質問が三つあいもす。一つは、征韓論の際、何故、南洲翁と進退を共にせんかったかでごわす。二つは、台湾征討軍のこつごわす。長崎出港まえ大久保(利通)氏から、出発を見合わすべしと内報があいもしたが、出発して台湾に向かったのは、どういうわけでごわすか」

 「三つは、南洲翁引退後、政府の措置が宜しきを得ず、ついに翁にあのような最後を遂げさせもしたが、そいは深く遺憾とすべきではあいもはんか、東京に居残った者の罪ではなかかちゅうこつごわす」

 「この三つは、かねていつかお尋ねしたか思めちょいもしたが、この機会に、ぜひご明解下さるよう、お願いもうす」。







635.山本権兵衛海軍大将(15)東洋の平和を双肩に担おうとするあなたが、そのようなことではいけません

2018年05月25日 | 山本権兵衛海軍大将
 乗員の中には、「パンばかりで、いやじゃ」などと、ブツブツ言う者が多くいたが、結局病気になるよりはいいということで、騒動までは起きなかった。

 また、山本副長は、艦内の厨房を改良するために、英国人のコック長とコックを雇い、「浪速」に乗艦させた。コック長は日本に着いた後、横須賀鎮守府に雇用され、日本人に西洋料理を教えた。

 明治十九年三月二十八日、二隻の曳船に曳航され、最新鋭巡洋艦「浪速」は、ニューカッスルからタイン川を下り、北海に出た。以後、日本海軍将兵だけにより、日本へ向けて航海した。

 「浪速」の水雷長は、伊集院五郎(いじゅういん・ごろう)大尉(鹿児島・海軍兵学寮・西南戦争・英国海軍兵学校卒・英国王立海軍大学卒・中尉・「浪速」「高千穂」「畝傍」三艦武器監督・大尉・最新鋭巡洋艦「浪速」水雷長・参謀本部海軍部第一局課員・防護巡洋艦「千代田」回航委員・英国出張・少佐・「千代田」副長・常備艦隊参謀・大本営参謀艦・日清戦争・大佐・軍令部第二局長・軍令部第一局長・少将・軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・軍令部次長・日露戦争・艦政本部長・第二艦隊司令長官・男爵・連合艦隊司令長官・軍令部長・大将・軍事参議官・元帥・男爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級・イタリア王国王冠第一等勲章等)だった。

 明治十九年五月六日、地中海を東に進んだ「浪速」は、スエズ運河北口のポートサイドに入港、三日間碇泊した。

 その碇泊中の時、艦側のカッターにいた伊集院水雷長が、擲弾筒(発煙弾・照明弾に使用する小筒)の弾薬が暴発して、脚部に重傷を負った。

 伊集院水雷長は、痛みに屈せず、一人で縄梯子をよじ登ろうとした。それを見た山本副長は、「待て、動くな」と大声をかけ、自分でボートに飛び下り、伊集院水雷長を背負い、艦上に救い上げた。

 後に見られる、山本権兵衛と伊集院五郎の絆の強さは、ここにも一因があるようだ。「浪速」は、明治十九年六月二十六日、無事に、日本に帰り、品川沖に到着した。

 毎時十九年十月十五日、山本権兵衛少佐は、スループ「天城」艦長に任命された。小なりとも一城の主で、三十四歳だった。

 スループ「天城」は、明治十一年四月、横須賀造船所で竣工した。排水量九二六トン、全長六四・三メートル、一軸レシプロ蒸気機関、円罐×2、七二〇馬力、速力十一ノット、一七センチ砲一門、一二センチ砲二門、乗組員一五九名という国産の木造船で、船材の産出地である伊豆の山の名「天城」が命名された。

 スループ「天城」の任務は、朝鮮情勢を把握することと、在留邦人の保護だった。

 仁川に入港し、京城に出かけた、山本権兵衛少佐は、清国代表として京城に駐在している袁世凱を、清国公使館に訪ねた。

 袁世凱は、癖のある人物で、各国の官吏が訪ねてくると、文官に対しては、自分は一介の武弁(武人)だと言い、武官に対しては、自分は文事のこと以外は関係ないと言って、はぐらかして、相手にしなかった。

 山本少佐は、そういう袁世凱の人物を噂に聞いて知っていたので、「訪ねて、袁世凱がどのような態度に出るか、ともかく会って、情報を交換することは、日清両海軍の交際上、何か役に立つだろう」と考えたのだ。

 山本少佐が、取次の者に名刺を渡すと、思いがけなく、袁世凱が自ら玄関に出てきて丁重に迎え、客室に招き入れ、わざわざ訪ねてきてくれたことに厚く礼を述べ、至れり尽くせりの歓待をした。

 普通の者なら、清国代表の袁世凱を訪問するだけでも気が引けるのだが、山本少佐はこの場に来てもいたって平気で、ヒゲをモジャモジャ生やし、虎のような眼をランランと光らせた鍾馗のような顔で次の様にズバリと言った。

 「お見受けしましたところ、あなたはお顔が大変蒼い。宮廷美人を寵愛されているという噂ですが、そのためですかな」。

 事実、袁世凱は韓国王から後宮の美姫を与えられ、満悦に思っていたので、奇襲された袁世凱は、答えに窮した。

 すると、山本少佐は、続けて、「東洋の平和を双肩に担おうとするあなたが、そのようなことではいけません。ぜひ自重してください」とズケズケ言った。

 袁世凱は、笑ってうなずいただけだった。

 続いて、山本少佐は、列国の大勢、外交、制度、教育、科学技術等について、熱弁をふるい、「日清両国は固く提携して、列強の侵入を防がなければなりません」と締めくくった。






634.山本権兵衛海軍大将(14)榎本武揚は薩摩の“出るクギ”である山本中尉を打ち、それをみせしめにした

2018年05月18日 | 山本権兵衛海軍大将
 事実は、榎本武揚は薩摩の“出るクギ”である山本中尉を打ち、それをみせしめにした。人事権で薩摩の勢力を抑えようとしたのだが、反対に自分が叩き出される結果を招いたのだ。

 なお、仁礼景範少将は、東海(後の横須賀)鎮守府司令長官の要職に復活した。

 航海練習艦「浅間」においての、山本権兵衛中尉の主任務は、砲術教育だった。八月には、井上良馨中佐が、「浅間」艦長に任命され、着任した。

 これにより、海軍部内から集められた砲術志望の士官、下士官に対する操艦練習も開始された。この中には、従来の士官でも、熱意のある少佐、大尉なども含まれていた。

 山本中尉は、准士官、下士官の中から人物優秀な者を抜擢して、士官に昇進させる道を開くことを献策し、海軍省に認められた。

 山本中尉の推薦により、下士官から少尉補になり、後に中佐、大佐、少将に進んだ者も数名いた。

 「浅間」で教育を受ければ、どんどん昇進するという評判が海軍部内に伝わり、砲術志願者が続出するようになった。

 山本中尉は、ラッパ譜の改正も提議した。陸海軍がバラバラに吹いているが、このままでは、陸海軍が協同動作を行うとき、混乱が起こるから、陸海軍は協同で審査し、整理改正をする必要がある、というのである。

 山本中尉の話を聞いた海軍卿・川村中将は、「「海軍のラッパ譜は、卓越した西洋人を招聘し、研究を重ねてできたもので、陸軍よか先達の位置にある。改正する必要はなか」と、簡単に却下した。

 ところが、昭和十五年夏、朝鮮の京城で起こった「壬午の変」の時、出動した陸軍部隊と海軍陸戦隊の間で、ラッパのために珍事件が発生した。

 海軍部隊で「食事」のラッパが鳴り渡ると、陸軍部隊の兵士らが、一斉に任務を中止して、「気を付け」の姿勢をとったのである。海軍の「食事」ラッパが、陸軍の「気を付け」ラッパに極めてよく似ていたからだ。

 報告を受けた川村中将は、驚き、前言を取り消して、陸海軍両省からラッパ譜の改正調査委員を設置することを認めた。

 明治十五年十二月十一日、山本権兵衛大尉は、航海練習艦「浅間」(一四二二トン・砲一四門)の副長に任命された。

 前任の副長は吉島辰寧(よしじま・ときやす)少佐(練習艦「浅間」副長・少佐・横須賀水兵屯営副長・練習艦「摂津」艦長・中佐・練習艦「浅間」艦長・大佐・装甲艦「龍驤」艦長・装甲艦「比叡」艦長・海軍兵学校次長・第一局第一課長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・呉鎮守府参謀長・待命・予備役・充員招集・海軍兵学校校長・少将)だった。

 退任直後、吉島辰寧少佐は、自ら志願して若い練習士官の中に入り、「浅間」において、砲術の専攻に励んだ。

 補習を必要とすると思いながら、口に出せないでいた従来の士官らが、それに刺激されて、吉島少佐の後に続いた。こうして、「学術に対しては、官位の上下なし」の新風が吹き始めた。

 明治十八年四月二十三日、「天津条約」締結五日後に、山本権兵衛大尉は、練習艦「浅間」副長から、英国で建造中の最新鋭巡洋艦「浪速」の回航事務取扱委員に転出した。

 最新鋭巡洋艦「浪速」の艦長は、伊東祐亨大佐だった。山本権兵衛大尉は、六月二十日、少佐に進級し、十一月二十日、副長に任命された。

 この新巡洋艦は以前の軍艦と全く変わり、帆がなく、スクリューだけで航走する、鋼鉄製、三六五〇トン、速力一八ノット、二十六センチ砲二門、十五センチ砲六門、魚雷発射管四門という、高性能で強大な艦だった。

 ちなみに、「浪速」と同型の「高千穂」が同じく英国のアームストロング社、「畝傍」がフランスのフォルジュ・シャンティェ社で、同時に建造中だった。

 明治十九年二月十五日、伊東大佐、山本少佐ら回航委員は、イングランド東北部のニューカッスルにあるアームストロング社のロー・エルジック造船所で、「浪速」を受領した。

 出航に先立ち、山本権兵衛副長は、伊東艦長の承認を得て、「浪速」の全乗員に、英国海軍式のパン食を励行させることにした。日本海軍の艦船乗員は、ビタミンB不足のために、脚気にかかる者が多かったからだ。







633.山本権兵衛海軍大将(13)榎本海軍卿に対する非難が、火に油を注いだように燃え上がった

2018年05月11日 | 山本権兵衛海軍大将
 四名の中堅士官らが排斥運動を始めたにもかかわらず、榎本海軍卿は、今度は京橋三十間堀の料亭で、博徒らと盛大な酒宴を開いた。海軍部内の榎本海軍卿に対する非難が、火に油を注いだように燃え上がった。

 山本中尉の同僚らは、山本中尉を押し立て、隅田川の一件について、海軍省に抗議しようとはかった。

 だが、山本中尉は、「海軍卿の進退を論ずることなどに、我々のような下級者はすべきでない」と、受け付けなかった。

 ところが、明治十四年二月十五日、山本中尉は突然、練習艦「乾行」乗組みを罷免され、非職を命ぜられた。

 山本中尉は「不当な処置である」と怒り、練習艦「乾行」艦長・浜武慎中佐(後海海軍兵学校教官・大佐)に、その理由を質した。

 だが、浜中佐は「兵学校からこの辞令が届けられたから、君に交付しただけだ」と言うだけだった。海軍兵学校の人事係に尋ねても、同様の答えが返って来た。

 山本中尉は、榎本海軍卿に宛てて、上申書を書いた。要旨は次のようなものだった。

 「軍人が非職に入るのは、品行が修まらない、疾病、自己請願、この三つのいずれかに該当した場合と、法規に厳として定められている。ところが、自分は、身を海軍に委せ、君国のため一意奉公の至誠を捧げて職務に服し、なんら過失の覚えがなく、かつ心身ともに健全であり、請願もしていない」

 「それにもかかわらず、突然非職に入れられたのは如何なる理由によるものか、願わくは高教を垂れていただきたい」。

 しかし、山本中尉の上申書は、高い棚に束ねられて、捨て置かれた。

 山本中尉の家は、芝田町九丁目にある、川路利良(かわじ・としよし)警視総監(鹿児島・禁門の変・戊辰戦争・薩摩官軍大隊長・会津戦争・薩摩藩兵器奉行・維新後東京府大属・典事・邏卒総長・欧州警察制度を視察・初代警視総監・西南戦争・陸軍少将・別働第三旅団司令長官・欧州警察制度視察・病気になり帰国・病死・正五位・勲二等旭日重光章)の邸宅の近くにあった。

 非職となり、山本中尉の月給は四十五円から十五円になった。山本中尉の家は借家で、家賃は五円だった。女中が一人いて、その月給はニ十銭~三十銭だった。
 
 三月二十九日、家計は緊迫していたが、そこへもってきて、妻の登喜子が次女を出産した。さすがに剛気の山本中尉も参った。しかし、堪えるしか道はなかった。

 次女の、すゑ子は、後に、山路一善(やまじ・かずよし)海軍中将(愛媛・海兵一七・三席・少佐・日露戦争・連合艦隊第一艦隊第二戦隊参謀・中佐・第一艦隊第三戦隊参謀・第一次世界大戦・少将・第三特務艦隊司令官・海軍の航空兵力導入に尽力・「海軍航空生みの親」・中将・正五位・勲三等・功三級)の夫人になる。

 明治十四年四月七日、榎本武揚海軍卿が罷免され、川村純義(かわむら・すみよし)大将(鹿児島・長崎海軍伝習所・戊辰戦争・薩摩藩四番隊長・維新後海軍大輔・海軍中将・西南戦争・参軍・参議・海軍卿・枢密顧問官・死去・海軍大将・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章)が再び海軍卿に就任した。

 榎本武揚海軍卿の更迭を、三宅雪嶺(みやけ・せつれい・石川・加賀藩儒医の子・官立東京開成学校・東京大学文学部哲学科卒・自由民権運動・政教社設立・「日本人」創刊・帝国芸術院会員・文化勲章受章・「真善美日本人」など著書多数・哲学者・評論家)は、その著書「同時代史」で次の様に述べている。

 「榎本が部内の人を動かさんとし、薩摩出身者が怒り、賊軍の身分にて生意気なりとて、集まりて殴打し、海軍卿の更迭を惹き起こす。之には佐賀に人も与かり、川村が卿となれる後、中牟田(佐賀出身)が同大輔(次官)となる」。

 明治十四年七月上旬、山本中尉は、海軍卿・川村純義中将に呼び出された。窮乏生活も五か月になろうとしていた。

 川村中将は、「おはんは、七月十三日付で、航海練習艦『浅間』の乗組みを仰せ付けられることにないもした」と山本中尉に告げた。「まっこと、あいがとごわす」と、山本中尉は深く頭を下げた。

 だが、山本中尉は、それだけでは、気が済まず、非職になった理由を問い質した。すると、川村中将は次の様に言って諭した。

 「過去は追わんがよか。前途が大切じゃ。いまやわが海軍は、「浅間」を練習艦として、新たに砲術専攻の門戸を開かんとしちょる。こげんとき、おはんら有意の士官に、絶大の努力をしてもらわにゃならん。他の一切の経緯を顧みず、奮起してたもんせ」。

 山本中尉は、承服した。






632.山本権兵衛海軍大将(12)四名の中堅士官らは「言語道断の振舞い」と憤激して海軍省に抗議した

2018年05月04日 | 山本権兵衛海軍大将
 「そこでこの件を熱心に主張した仁礼さんは立場を失い、官を辞して鹿児島に帰るというとられる。おいどんら同志も、仁礼さんと進退を共にすっ覚悟じゃ。おはんの上京を促したのもこんためだ」。

 伊東中将も仁礼少将も旧薩摩藩士だが、伊東中将は明治五年八月、中牟田倉之助(明治四年十一月に少将)についで少将となり、明治十一年十一月に中将に昇進した。一方、仁礼少将は、明治十三年二月に少将となったもので、伊東中将には勝てなかったのだ。

 日高中尉の話を聞いた、山本中尉は、日高中尉の逸る気持ちを制するように次のように言った。

 「はじめて事情が分かった。じゃどん、おいの考えはおはんとちと違う。今回のこつはおいの献策が原因じゃから、その責任を回避っす気はなかが、献策を採用すっかせんかは相当の地位にある者の権威にある。その局になく、学窓を出て実務に就いたばかりの下級者が、献策が採用されんちゅうて、すぐに辞職しちょったら、人事行政はできんようになっじゃなかか」

 「往年、西郷先生が辞職されたとき、その責任の位置にある者もない者も、同志多数が職を辞して鹿児島に帰った。あれと大小軽重の差はあっが、おなじようなもんで、そいはわが故郷の誇りでもなく、おいどんらの名誉でもなか。また、至誠公に奉ずる道でもなかろ」。

 以上の山本中尉の心情を聞いた、日高中尉は「わかった。おはんのいうとおりじゃ。仁礼さんにも、そういうてたもんせ」と答えた。

 山本中尉は仁礼少将を訪ね、詳しく意見を述べて、辞官を思いとどまるよう諫めた。仁礼少将は辞官して帰郷することは中止した。

 しかし、明治十三年十二月四日に伊東中将が軍務局長に就任したあと、十二月八日、仁礼少将は海軍兵学校校長を退き、非職となった。

 非職とは、官位はそのままだが、職務がなく、給料も本給の三分の一になる制度。

 十二月二十六日、今回の騒動の余波を受けた、山本権兵衛中尉は、再び、練習艦「乾行」乗組みを命ぜられ、差し戻された。

 明治十四年の年が明けて間もない頃、練習艦「乾行」で当直勤務中の山本中尉は、「汽艇二隻を隅田川に回せ」という海軍卿・榎本武揚中将からの命令を伝達された。

 山本中尉は艦長の承認を得て、鹿野勇之進少尉に艇の指揮を命じ、汽艇二隻を隅田川に回航させた。

 榎本中将はその二隻の汽艇に、外国使臣らを招待し、芸者連中を侍らせて、遊興した。その噂は、たちまち、海軍部内に広がった。

 この話を聞いた、四名の中堅士官らは「言語道断の振舞い」と憤激して海軍省に抗議した。そして、榎本武揚の排斥運動を始めた。四名の中堅士官は次の通り。

 スループ「日進」艦長・伊東祐亨(いとう・すけゆき)中佐(鹿児島・神戸海軍操練所・薩英戦争・戊辰戦争・維新後海軍大尉・中佐・スループ「日進」艦長・大佐・コルベット「龍驤」艦長・コルベット「比叡」艦長・横須賀造船所長兼横須賀鎮守府次長・防護巡洋艦「浪速」艦長・少将・海軍省第一局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府長官・常備艦隊長官・連合艦隊司令長官・日清戦争・黄海海戦で勝利・子爵・軍令部長・大将・日露戦争・元帥・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・ロシア帝国神聖スタニスラス第一等勲章)。

 コルベット「浅間」艦長・井上良馨(いのうえ・よしか)中佐(鹿児島・薩英戦争・「春日艦」小頭・戊辰戦争・阿波沖海戦・宮古湾海戦・函館戦争・「龍驤」乗組・中尉・少佐・軍艦「春日丸」艦長・砲艦「雲揚」艦長・中佐・軍艦「「清輝」艦長・西南戦争・大佐・装甲艦「扶桑」艦長・海軍省軍事部次長・少将・海軍省軍務局長・中将・佐世保鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・日清戦争・西海艦隊司令長官・常備艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・日露戦争・軍事参議官・子爵・元帥・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)。

 軍艦艦長・笠間広盾中佐(中佐・コルベット「筑波」艦長・鉄甲コルベット「比叡」艦長・大佐・死去)。

 東海水兵本営長・有地品之允(ありち・しなのじょう)中佐(山口・長州藩士・戊辰戦争・維新後欧州出張・陸軍少佐・侍従・海軍少佐・提督府分課・中佐・スループ「日進」艦長・大佐・コルベット「比叡」艦長・コルベット「筑波」艦長・参謀本部海軍部第一局長・少将・横須賀軍港司令官・海軍機関学校校長・海軍兵学校校長・海軍参謀部長・常備艦隊司令長官・中将・呉鎮守府司令長官・日清戦争・常備艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・予備役・男爵・貴族院議員・帝国海事協会初代理事長・枢密院顧問・男爵・従二位・勲一等旭日大綬章・ハワイ王国クラウンオブハワイ勲章)。







631.山本権兵衛海軍大将(11)妻の履物を揃えて置くなどは、男としてはあまりにも見苦しい行為だ

2018年04月27日 | 山本権兵衛海軍大将
 画期的だったのは「清輝」が、国産艦である軍艦であることと、従来と違い、外国人教師を一人も同乗させずに、日本人だけで航海して来たという壮挙だった。

 明治十二年十月二日、山本中尉の妻、登喜子が長女、いね子を出産した。いね子は後に、海軍兵学校第一五期を首席で卒業し出世コースを進む財部彪(たからべ・たけし)大尉(宮崎・海兵一五首席・大佐・巡洋艦「宗谷」艦長・戦艦「富士」艦長・第一艦隊参謀長・少将・海軍次官・中将・第三艦隊司令官・旅順要港部司令官・舞鶴鎮守府司令長官・佐世保鎮守府司令長官・海軍大臣・ロンドン海軍軍縮会議全権・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功三級・スペイン王国海軍有功白色第四級勲章等)と結婚する。

 明治十三年頃、山本権兵衛中尉の妻、登喜子が、練習艦「乾行」を見学に来た。山本中尉は妻を自分で案内し、説明した。

 妻、登喜子が帰るとき、ボートから桟橋に移る際、山本中尉は、登喜子の履物を手に持って、先に桟橋に移り、彼女の前に揃えた。

 回りにいた将兵達は冷笑した。海軍士官が妻を艦内に案内することも殆どないのに、衆人環視の中で、妻の履物を揃えて置くなどは、男としてはあまりにも見苦しい行為だと思ったのだ。

 だが、山本中尉は平然としていた。「敬妻は一家に秩序と平和をもたらす」というのが、山本中尉の信念だったのだ。

 明治十三年十月七日、山本権兵衛中尉は、海軍兵学校卒業の海軍少尉補らを乗せて遠洋航海に出かける練習艦「龍驤」乗組みとなった。

 実は、山本中尉は、練習艦「乾行」乗組みの時、軍艦「清輝」の壮挙に刺激されて、次の様に海軍兵学校校長・仁礼景範少将に進言した。

 「外国人教師は学校での特殊教科を教えるだけにとどめ、日本海軍を代表する活動を行う練習艦には、もはや同乗させるべきではない。また、時代に後れて補習が必要になった高級士官らも遠洋航海練習艦に乗組ませ、少尉補らと同様に、新学術を習得した青年士官教師の教育を受けさせる必要がある」

 「学術の前には上下がなく、軍隊のおける命令・服従に支障を生じさせるものでもない。むしろ、海軍全般に研学の気運を振興し、ひいては士気を高揚して、海軍実力を増進させることになる。したがって、新学術を習得した青年士官を、できるだけ多く練習艦の指導官に任命すべきである」。

 校長・仁礼少将は大賛成して、山本中尉の案を海軍省に提出し、海軍省もそれを認めた。その結果、山本中尉ほか数名の青年士官が、練習艦「龍驤」乗組みとなったのだ。

 ところが、その後、海軍省勤務の日高壮の丞中尉から、横須賀港で「龍驤」乗組み中の山本中尉のもとに電報があり、「至急上京せよ」と言ってきた。

 そこで、山本中尉は、艦長の許可を得て上京し、日高中尉に面会した。日高中尉はため息をつくと、次の様に言った。

 「従来の士官(海軍兵学校以前)を「龍驤」で再教育すっちゅう件じゃが、ちかく軍務局長になる中将が大反対で、海軍卿を動かして、中止となった」。

 軍務局長になる中将とは、伊東祐麿(いとう・すけまろ)中将(鹿児島・薩摩藩士・薩摩藩砲隊長・維新後海軍少佐・練習艦「龍驤」副長・練習艦「龍驤」艦長・中艦隊指揮官・少将・佐賀征討参軍・東部指揮官・東海鎮守府司令長官・西南戦争で海軍艦隊指揮官・中将・海軍省軍務局長・海軍兵学校校長・元老院議員・貴族院議員・子爵・錦鶏間祗候・正三位)のことだった。

 また、海軍卿は榎本武揚(えのもと・たけあき)中将(東京・長崎海軍伝習所・築地軍艦操練所教授・オランダ留学・軍艦頭・阿波沖海戦で勝利・海軍副総裁・旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出・函館戦争・新政府軍に降伏・特赦で出獄・開拓使四等出仕・北海道鉱山検査巡回・中判官・駐露特命全権大使・海軍中将・樺太・千島交換条約締結・外務大輔・海軍卿・予備役・皇居造営事務副総裁・駐清特命全権公使・逓信大臣・子爵・農商務大臣・電気学会初代会長・文部大臣・枢密顧問官・外務大臣・農商務大臣・工業化学会初代会長・子爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・ロシア帝国白鷲大綬章等)だった。

 日高中尉は、続けて、山本中尉に次の様に言った。

 「伊東さんは、従来の士官は維新当時、兵馬倥偬(こうそう=戦争で多忙)の間に出入りした者が多く、海軍が定めた学科を習得する機会がなかったちゅうても、実戦の経歴功績を持つか、独学的実地的に研鑽を積み、いづれも相当の抱負を持ってその地位にあるのに、練習乗組みを命じ、青年士官の指導の下で練習させるちゅうは、個人の名誉を傷つけるのみか、下級者の軽視を招き、ひいては軍隊における秩序を乱す嫌いがあるというんじゃ」