陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

647.山本権兵衛海軍大将(27)財部彪大佐は、皇族の如く、特急で昇進を開始した

2018年08月17日 | 山本権兵衛海軍大将
 広瀬大尉は、山本少将の言葉に二言はあるまいと、納得して去った。山本少将は、義の為に権力に立ち向かう男がいることを知った。

 財部彪(たからべ・たけし)大尉(宮崎・海兵一五首席・海大丙号・大佐・軍令部参謀・巡洋艦「宗谷」艦長・戦艦「富士」艦長・第一艦隊参謀長・少将・海軍次官・中将・第三艦隊司令官・旅順警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・佐世保鎮守府司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・海軍ロンドン軍縮会議全権・従二位・旭日桐花大綬章・功三級・オーストリア=ハンガリー帝国鉄冠第二等勲章等)は、当時常備艦隊参謀だった。

 財部大尉と広瀬大尉は、明治二十二年四月、山本権兵衛中佐が、巡洋艦「高雄」艦長に任命された直後の頃、江田島の海軍兵学校を卒業した。

 財部大尉は、第一五期八十名中の首席で、広瀬大尉は体を悪くしたせいもあって、六十四番だった。

 山本権兵衛は後に、財部を眼にとめた時の事を、次の様に述べている。

 「我輩が財部を知ったのは、練習艦隊検閲の時だった。候補生の中に、小作りだが、キリッとした元気な奴がいた。左肩が上がっているので、『方はどうしたのか?』と聞いてみると、『親ゆずりでごわす』と言った。それが財部だった」。

 山本権兵衛は、さらに財部の身上を詳細に調べ、その後の勤務ぶり、素行などを見て、明治二十九年の末頃、縁談を進めたと思われる。

 財部彪はこの婚約について、次の様に述べている。

 「前に『高千穂』の航海士をしていた時、山本艦長に数か月仕えた(明治二十三年、四年の頃)が、それだけだった」。

 「軍務局長と私では身分が違うし、権勢につくのはよくないので、辞退しようと考えた。広瀬もそうだと言って奔走してくれた。しかし、親類縁者や家郷(宮崎県都城)の古老のとり裁きによって、縁談を受けることにした」。

 明治三十年五月十五日、三十歳の財部彪大尉と十七歳の山本いねの結婚式が、行われた。

 媒酌人は、財部の故郷の先輩、参謀本部第四部長・上原勇作(うえはら・ゆうさく)陸軍中佐(宮崎県都城・陸士旧三期・工兵大佐・参謀本部第三部長・少将・陸軍砲工学校長・第四軍参謀長・工兵監・中将・男爵・第七師団長・第一四師団長・陸軍大臣・第三師団長・教育総監・大将・参謀総長・子爵・元帥・議定官・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・フランスレジオンドヌール勲章グランクロワ等)夫妻だった。

 さて、山本権兵衛は、広瀬武夫大尉に、「俺は財部を特別扱いにはせん」と男の約束をした。

 ころが、広瀬少佐は、日露戦争中の明治三十七年三月二十七日、旅順港閉塞隊指揮官として、壮烈な戦死を遂げた。

 当時すでに中佐だった財部彪は、翌年の明治三十八年一月、大佐に進級した。三十八歳だった。

 さらに、明治三十八年九月、日露戦争が終わると、当時、軍令部参謀であった財部彪大佐は、皇族の如く、特急で昇進を開始したのである。

 明治四十二年十二月には、財部彪大佐は、海軍兵学校で二、三期上の先任者(同階級でも上位の優秀者)と同時に少将に進級した。四十二歳だった。同期の一五期の少将進級は、それから四年後だった。

 大正二年十二月には、財部少将より二期上である、第一三期の次の二人の少将を追い越して、中将に進級した。

 黒井悌次郎(くろい・ていじろう)少将(山形・海兵一三期・四番・海大甲号学生五期・英国駐在・一等戦艦「敷島」副長・大佐・在ロシア国公使館附武官・一等戦艦「敷島」艦長・少将・舞鶴艦隊司令官・練習艦隊司令官・中将・横須賀工廠長・馬公警備府司令長官・旅順警備府司令長官・第三艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・大将・正三位・勲一等旭日大綬章・功三級・ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章等)。

 栃内曽次郎(とちない・そじろう)少将(岩手・海兵一三期・二二番・巡洋艦「宮古」艦長・コルベット「武蔵」艦長・大佐・防護巡洋艦「須磨」艦長・在英国大使館附武官・装甲巡洋艦「吾妻」艦長・少将・軍務局長・練習艦隊司令官・大湊警備府司令長官・横須賀工廠長・中将・第二艦隊司令官・第一艦隊司令官・第四戦隊司令官・第三戦隊司令官・海軍技術本部長・海軍次官・大将・連合艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・貴族院議員・正三位)。