また、同じく同期である兵学校一五期の岡田啓介(おかだ・けいすけ)中将(福井・海兵一五・七番・海大二期・一等戦艦「朝日」副長・水雷術練習所教官兼海軍大学校教官・大佐・海軍水雷学校校長・装甲巡洋艦「春日」艦長・戦艦「鹿島」艦長・少将・第二艦隊司令官・第一水雷戦隊司令官・海軍技術本部第二部長・海軍省人事局長・中将・佐世保工廠長・海軍艦政本部長・海軍次官・大将・連合艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・後備役・内閣総理大臣・従三位・旭日桐花大綬章・フランス国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)は、大正十三年二月三日に大将に進級している。
日本海軍の海軍大将は、西郷従道から井上成美まで、七十七名出たが、財部彪のような超特急の進級は次の三名の大将、元帥を除いて、例がない(最初に、財部彪大将の軍歴を参考に記す)。
財部彪(たからべ・たけし)大将(宮崎・海兵一五期首席・少佐<三十二歳>常備艦隊参謀・軍令部第二局局員・中佐<三十六歳>・軍令部参謀・大佐<三十九歳>・英国出張・巡洋艦「宗谷」艦長・一等戦艦「富士」艦長・第一艦隊参謀長・少将<四十二歳>・海軍次官・中将<四十六歳>・第三艦隊司令官・旅順警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・佐世保鎮守府司令長官・大将<五十二歳>・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・軍事参議官・海軍大臣・軍事参議官・海軍大臣・ロンドン会議全権・従二位・旭日桐花大綬章・功三級・オーストリア=ハンガリー帝国鉄冠第二等勲章等)。
有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや・たけひとしんのう)元帥(京都・海軍兵学寮予科・英国グリニッジ海軍大学校・少佐<二十四歳>・海軍参謀本部・大勲位菊花大綬章・海軍参謀部・大佐<二十八歳>・コルベット「葛城」艦長・巡洋艦「高雄」艦長・横須賀鎮守府海兵団長・防護巡洋艦「松島」艦長・砲術練習所所長・少将<三十四歳>・常備艦隊司令官・遣英大使<女王即位六十年記念式典>・軍令部・中将<三十七歳>・大本営・大将<四十二歳>・軍事参議官・欧州差遣・元帥<五十一歳>・大勲位菊花章頸飾・功三級)。
伏見宮博恭王(ふしみのみや・ひろやすおう)元帥(東京・海兵一六期退校・ドイツ海軍兵学校・ドイツ海軍大学校・大勲位菊花大綬章・防護巡洋艦「浪速」副長心得・中佐<三十一歳>・防護巡洋艦「浪速」副長・装甲巡洋艦「日進」副長・海軍大学校選科・英国駐在・軍令部・大佐<三十五歳>・一等戦艦「朝日」艦長・巡洋戦艦「伊吹」艦長・海軍大学校選科・少将<三十八歳>・横須賀鎮守府艦隊司令官・海軍大学校校長・第二戦隊司令官・中将<四十一歳>・第二艦隊司令長官・軍事参議官・大将<四十七歳>・佐世保鎮守府司令長官・軍令部長・元帥<五十七歳>・軍令部総長・大勲位菊花章頸飾・功一級)。
山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)大将(鹿児島・海兵二期・一六番・少佐<三十三歳>・防護巡洋艦「浪速」副長・砲艦「天城」艦長・大臣伝令使・海軍次官欧米随行・大佐<三十七歳>・巡洋艦「高雄」艦長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・海軍省主事・少将<四十三歳>・軍務局長・中将<四十六歳>・海軍大臣・男爵・大将<五十二歳>・軍事参議官・伯爵・内閣総理大臣・予備役・内閣総理大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)。
財部彪の能力が人より優れていたにしても、これほどの昇進は以上の三人を除いて例がなく、誰が見ても権勢並ぶ者のない山本権兵衛の七光り、依怙贔屓としか考えられない昇進だった。
このために、海軍部内では、財部を「財部親王」と称し、不快に思う者が少なくなかった。太平洋戦争末期に首相になり、危機一髪のところで日本を救った、鈴木貫太郎も、その一人だった。
財部より海軍兵学校一期上の鈴木貫太郎は、財部の超特急の昇進を目の当たりにして、さすがに海軍をいやになり、一時は本気で海軍をやめたくなったという。鈴木貫太郎の軍歴は次の通り。
鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)大将(千葉・海兵一四・十三番・海大一期・少佐<三十一歳>・海軍省軍務局軍事課・陸軍大学校兵学教官・海軍大学校教官・教育本部部員・海軍大学校教官・ドイツ駐在・中佐<三十六歳>・装甲巡洋艦「春日」副長・第二艦隊駆逐隊司令・第四駆逐隊指令・海軍大学校教官・陸軍大学校兵学教官・教育本部部員・大佐<四十歳>・防護巡洋艦「明石」艦長・巡洋艦「宗谷」艦長・海軍水雷学校校長・一等戦艦「敷島」艦長・巡洋戦艦「筑波」艦長・少将<四十六歳>・舞鶴水雷隊司令官・第二艦隊司令官・舞鶴水雷隊司令官・海軍省人事局長・海軍次官・兼軍務局長・中将<五十歳>・練習艦隊司令官・海軍兵学校校長・第二艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将<五十六歳>・連合艦隊司令長官・軍令部長・予備役・侍従長・枢密顧問官・男爵・枢密院議長・内閣総理大臣・枢密院議長・男爵・従一位・旭日桐花大綬章・功三級・ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章)。
日本海軍の海軍大将は、西郷従道から井上成美まで、七十七名出たが、財部彪のような超特急の進級は次の三名の大将、元帥を除いて、例がない(最初に、財部彪大将の軍歴を参考に記す)。
財部彪(たからべ・たけし)大将(宮崎・海兵一五期首席・少佐<三十二歳>常備艦隊参謀・軍令部第二局局員・中佐<三十六歳>・軍令部参謀・大佐<三十九歳>・英国出張・巡洋艦「宗谷」艦長・一等戦艦「富士」艦長・第一艦隊参謀長・少将<四十二歳>・海軍次官・中将<四十六歳>・第三艦隊司令官・旅順警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・佐世保鎮守府司令長官・大将<五十二歳>・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・軍事参議官・海軍大臣・軍事参議官・海軍大臣・ロンドン会議全権・従二位・旭日桐花大綬章・功三級・オーストリア=ハンガリー帝国鉄冠第二等勲章等)。
有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや・たけひとしんのう)元帥(京都・海軍兵学寮予科・英国グリニッジ海軍大学校・少佐<二十四歳>・海軍参謀本部・大勲位菊花大綬章・海軍参謀部・大佐<二十八歳>・コルベット「葛城」艦長・巡洋艦「高雄」艦長・横須賀鎮守府海兵団長・防護巡洋艦「松島」艦長・砲術練習所所長・少将<三十四歳>・常備艦隊司令官・遣英大使<女王即位六十年記念式典>・軍令部・中将<三十七歳>・大本営・大将<四十二歳>・軍事参議官・欧州差遣・元帥<五十一歳>・大勲位菊花章頸飾・功三級)。
伏見宮博恭王(ふしみのみや・ひろやすおう)元帥(東京・海兵一六期退校・ドイツ海軍兵学校・ドイツ海軍大学校・大勲位菊花大綬章・防護巡洋艦「浪速」副長心得・中佐<三十一歳>・防護巡洋艦「浪速」副長・装甲巡洋艦「日進」副長・海軍大学校選科・英国駐在・軍令部・大佐<三十五歳>・一等戦艦「朝日」艦長・巡洋戦艦「伊吹」艦長・海軍大学校選科・少将<三十八歳>・横須賀鎮守府艦隊司令官・海軍大学校校長・第二戦隊司令官・中将<四十一歳>・第二艦隊司令長官・軍事参議官・大将<四十七歳>・佐世保鎮守府司令長官・軍令部長・元帥<五十七歳>・軍令部総長・大勲位菊花章頸飾・功一級)。
山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)大将(鹿児島・海兵二期・一六番・少佐<三十三歳>・防護巡洋艦「浪速」副長・砲艦「天城」艦長・大臣伝令使・海軍次官欧米随行・大佐<三十七歳>・巡洋艦「高雄」艦長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・海軍省主事・少将<四十三歳>・軍務局長・中将<四十六歳>・海軍大臣・男爵・大将<五十二歳>・軍事参議官・伯爵・内閣総理大臣・予備役・内閣総理大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)。
財部彪の能力が人より優れていたにしても、これほどの昇進は以上の三人を除いて例がなく、誰が見ても権勢並ぶ者のない山本権兵衛の七光り、依怙贔屓としか考えられない昇進だった。
このために、海軍部内では、財部を「財部親王」と称し、不快に思う者が少なくなかった。太平洋戦争末期に首相になり、危機一髪のところで日本を救った、鈴木貫太郎も、その一人だった。
財部より海軍兵学校一期上の鈴木貫太郎は、財部の超特急の昇進を目の当たりにして、さすがに海軍をいやになり、一時は本気で海軍をやめたくなったという。鈴木貫太郎の軍歴は次の通り。
鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)大将(千葉・海兵一四・十三番・海大一期・少佐<三十一歳>・海軍省軍務局軍事課・陸軍大学校兵学教官・海軍大学校教官・教育本部部員・海軍大学校教官・ドイツ駐在・中佐<三十六歳>・装甲巡洋艦「春日」副長・第二艦隊駆逐隊司令・第四駆逐隊指令・海軍大学校教官・陸軍大学校兵学教官・教育本部部員・大佐<四十歳>・防護巡洋艦「明石」艦長・巡洋艦「宗谷」艦長・海軍水雷学校校長・一等戦艦「敷島」艦長・巡洋戦艦「筑波」艦長・少将<四十六歳>・舞鶴水雷隊司令官・第二艦隊司令官・舞鶴水雷隊司令官・海軍省人事局長・海軍次官・兼軍務局長・中将<五十歳>・練習艦隊司令官・海軍兵学校校長・第二艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将<五十六歳>・連合艦隊司令長官・軍令部長・予備役・侍従長・枢密顧問官・男爵・枢密院議長・内閣総理大臣・枢密院議長・男爵・従一位・旭日桐花大綬章・功三級・ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章)。