オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

イエスの逮捕

2012-03-25 00:00:00 | 礼拝説教
2012年3月25日 主日礼拝(マタイ26:47-27:26みのお泉教会)岡田邦夫


 「だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」(マタイ26:54)

 良いことにつけ、悪いことにつけ、何かの事件がありますと、人は誰がどういう動機で、どうやってそれを起こしたのかと歓心をもちます。ここに一つの事件が起ころうとしていました。当事者はこれがやがて世界史に最も影響を及ぼす事件となっていくのかは知るよしもありませんでした。そして、そこには台本のようなもの、しかも表の台本と裏の台本のようなものがあり、その台本どおり事がなっていったというものです。
◇第一ステージ
 ナザレ村の田舎出のイエスという人物が新しい教えを教え、奇跡を行って、大衆の人気を得ている。祭司長、長老、律法学者等にとって、自分たちがこれまで作り上げてきたユダヤ教の体制に対して、彼は対立する者で、むしろ自分たちにとって、じゃまな存在であり、危険人物である。抹殺しなければならないと考え、相談した。そのような気運の高まっている所に、ちょうどイエスの弟子の一人ユダが師を裏切って、かけこんできた。これ幸いと、銀三十枚で取引をし、イエスの居場所にユダを先導させ、剣や棒を手にした手下どもを差し向けた。ユダは「先生。お元気で。」と言って、イエスに口づけした。祭司長等、当局の台本通りである。イエスが「友よ。何のために来たのですか。」と言うか言わぬか、即座に手下どもはイエスに手をかけて捕えた。イエスの同行者のひとりが剣を抜き斬りかかるという、台本にないことも起こったが、イエスの方がそれを止めた。
 「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう」(26:52-54)。ここにもう一つの神のみこころという台本があった。聖書の預言を実現するというものである。群衆にもこう言った。「…わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」(26:55-56)。そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまったのだが、それも想定内のこと。
◇第二ステージ
 イエスを大祭司カヤパのところへ連行する。第二ステージである。70人議会が招集されて、いよいよ裁判である。祭司長たちと全議会はイエスを死刑にするために、イエスを訴える大勢の偽証人をたてたが、証拠とはならなかった。思惑がはずれたようだが、最後にふたりの者が進み出て、証言。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる。』と言いました」。それは確かにイエスが言われたこと。当局からすれば神殿を破壊するという危険思想のようだ。しかし、イエスの言われた意味は三日目の復活により霊的に神に近づく道が開かれるという預言。神の台本だったのである。追求されても、イエスはなぜか、沈黙。大祭司はなお、決定的証言を得ようと「あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」と尋問する。イエスの答はこうである。
 「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」(26:64)。人の子とはダニエル書が預言している救い主(キリスト)の意味(13:2)。主イエスは議会という場で、全世界に向けて、ご自分を証しされるのである。歴史に残すメッセージを告げられたのです。
 議長でもあり、裁判長でもある大祭司は激怒し、「これは神への冒涜だ。神をけがすことばだ。彼は死刑に当たる。」と言い、イエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけた。他の者たちも同調し、ののしった。彼らからすれば神への冒涜罪、最大の罪である。イエスを処分する動かぬ証拠を得たのである。次の舞台は総督の法廷である。
 その前に様子を見に来ていたペテロのことである。外の中庭にすわっているとひとりの女中がイエスの仲間ではないかと問われる。ペテロはみなの前で「何を言っているのか、私にはわからない。」と打ち消したのである。他の女中からも、そのあたりの人々からも同じように詰め寄られると、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いたのである。これはイエスの台本にあったのである。「そこでペテロは、『鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。』とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた」(26:75)。ここでペテロが弟子だと言ってしまえば、主と一緒に殉教してしまうので、主はそれをさけさせたのだろう。また、人間の覚悟では殉教できない、ここで人間の弱さを思い知らされて、後に聖霊によって力を受けて何も恐れない証人になるという意図があったようである。
 一方、イエスを売ったユダはみじめである。銀三十枚を得られれば何かを得られると思っていたのか、あるいは正しいことをするのだと思っていたのか、その台本は間違っていたのである。イエス有罪と知らされると後悔し、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言って、銀貨を、祭司長、長老たちに返しに行った。「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」、自己責任だと突っぱねられ、ユダは銀貨を神殿に投げ込み自殺してしまうのである。祭司長たちは血の代価だからと言って、その銀貨で畑を買い、墓地にした。この行為、神の台本だったのである。預言者エレミヤ(マタイ27:9ー10=ゼカリヤ書11:12-13とエレミヤ書32:6-9の組合せ)を通して言われた事が成就したのである。
◇第三ステージ
 そして、最後のステージに進む。死刑にするには総督の裁判が必要。祭司長、長老たちが訴えでると裁判が始まる。総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねるとイエスは「そのとおりです。」と言われた。ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか」。それでも、イエスはどんなに訴えに対しても総督も非常に驚くほど、一言もお答えにならなかったのである。総督は彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づき、これで死罪にする法はローマにはないので、一計を案じた。過ぎ越の祭りには囚人ひとりを恩赦にする慣例があるので、あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」と提言する。
 しかし、祭司長、長老たちの意志は強い。バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけたのである。
 総督:「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」
 彼ら:「バラバだ。」
 総督:「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」
 彼ら:「十字架につけろ。」
 ピラト:「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」
 彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた(27:21-3)。
 総督ピラトは自分では手の下しようがなく、暴動になりそうなので、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って言ったのである。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい」(27:24)。民衆はみな答えた。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」(27:25)。「そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。」と聖書は記録している。
 違法な裁判だったが、当局の台本通り、ひとりの邪魔者を処分できたのでです。しかし、救い主は受難というイザヤ書の預言、神の台本の通り、主イエスは十字架の死、贖いの死に向かわれたのです。裁判というのは罪を犯した者の責任を問うものと言えます。裁く者にも責任があります。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい」という裁判長としてのピラトの言葉は全くの責任転嫁です。ユダの方は犯した罪のゆえに責任を負って、自死してしまいました。その場の経緯(なりゆき)で「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」と言ってしまったユダヤ人たちもいました。それぞれ、御子イエス・キリストを十字架にかけた罪、責任があります。しかし、イエス・キリストは沈黙されていました。裁くべき方、責任を追及すべき方が黙ってののしられ、呪いを受けたのです。
 JR福知山線脱線事故で乗客106人が死亡、562人が負傷した未曾有の事故だったのですが、個人でしたら、責任の所在ははっきりしているのに、企業となると責任を問うても難しい問題があります。ほんとうに「誰か」が責任を負おうとしたら、とても負えることではありません。東日本大震災における福島原子力発電所の放射能漏れの事故もまた、企業の責任、国の責任が問われるます。しかし、具体的に「誰が」責任を負うのかというと、これもまた、負えるものではありません。厳密に追求すれば、子孫のことも考えないで贅沢に電気を使っている私たちにも責任があると言えましょう。
 さらに、私たち人間は神の前に責任があり、御心にそって生きる責任があるのですが、罪を犯し続け、返せない負債となっています。責任をとって滅びなければなりません。しかし、イエス・キリストは「黙って」その私たちの責任を代わってくださり、十字架において、血の代価を払い、審判者である神に裁かれ、神の前に責任を果たしてくださったのです。私たちは悔い改めて、その福音を信じるだけで、罪の責任を果たせていないのに、救われたのです。そして、まるで、責任を果たしたかのように、キリストにあって、はばかることなく、御前に立てるのです。だからこそ、救われた者たちはこの福音を証しする使命、責任があるのです。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。