オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

命の水

2013-03-24 00:00:00 | 礼拝説教
2013年3月24日 伝道礼拝(ヨハネ4:1ー42)岡田邦夫


 「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」ヨハネ4:13ー14

 私たちは蛇口をひねれば、いつでも使えるきれいな水道水を使っています。しかし、世界では川や池の汚れた水を飲み水にしていて、安全な水を利用できない人はおよそ8億人。そのため、病気になる人が多く、平均寿命は低く、幼児の死亡率は高くなっているのが現状です。2007年、バングラデシュにサイクロンが襲いました。その中で最も被害のひどかった村に、水の浄化剤を届けてほしいと、日本のある中小企業の会社に要請がありました。その浄化剤というのは納豆菌から開発した粉末で、少量でも水をきれいにしてしまうというもの。100キロ分を届け、装置を作り、きれいになった水を提供すると、村人は大喜び。ところがしばらくすると蛇口が盗まれてしまうなどして、それが使われなくなっていました。一時の援助では長続きしない、継続するためにはビジネスにしようと考えました。管理や営業などを現地の人がして、水を売るようにすると軌道に乗りました。感染症も幼児の死亡率もぐんと減り、しかも、働く意欲がでてきて、生きる喜びを感じるようになったのです。村人はお陰で救われたと言っておりました。県知事から、これを県全体に広めてほしいと要請されているとのことです。飲み水というものは生きる上で最も大切なものであることをあらためて知らされました。

◇「どうしても」引き受ける
 聖書には水にまつわる話はたくさん出てきます。その内の一つのエピソードを見てみましょう。歴史の経緯からユダヤ人とサマリヤ人とはきわめて仲が悪く、特にユダヤ人はサマリヤ人を極度に軽蔑していた。ユダヤ人はサマリヤの町を通ることさえ避けていた。それにもかかわらず、イエスはサマリヤの町を通って行こうとしていた。灼熱の太陽が照りつける昼の12時頃、イエスはスカルにある井戸のかたわらに腰をおろし休んでいた。渇いた喉をうるおしたいが汲むものがない。するとそこにサマリヤ人女性が水を汲みに来たので、「わたしに水を飲ませてください。」と頼む。なぜ、ユダヤ人がサマリヤ人に水を求めたりするのかと問うことから会話は進み、イエスは女性にこう言った。それはメッセージであった(ヨハネ4:13-14)。
 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」。
 そう言われても、彼女はまだその意味がわからない。イエスはこの言葉とは関係ないようなことを言い出す。「行って、あなたの夫を呼んできなさい」。自分には夫はいないと女性がけげんそうに答えると、イエスはこの人を救いに導く言葉を言われる。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです」。夫が五人あったが今のは夫ではないというのは死別だったのか、離婚だったのか、読者にはわからないが、普通は朝夕の涼しいときに水くみにくるもの、世間の目を避けて日中に来たわけだから、たいへん辛い立場にたたされていたに違いない。イエスはこれは問題だ、お前はだめだと言って責めたててはいない。不思議と「あなたが言ったことはほんとうです。」と言たれた言葉にこの人は救われたのである。その時、先に言われたメッセージが解ってきた。「先生。あなたは預言者だと思います。」と言い、さらに、救い主=メシヤ(キリスト)に違いないと信じたのである。
 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」。
 女性は魂が潤され、満たされて、嬉しくなって、持ってきた水がめを置いたまま、町に戻って行き、証しをしたため、サマリヤ人の多くの人がイエス・キリストを信じるようになったと聖書に記されています(ヨハネ4:1-42)。

◇「どうして」を引き出す
 イエス・キリストがサマリヤの女性に会われたとき、彼女に考えさせて、メッセージを告げました。夫が五人あったが、今いっしょにいるのは夫ではないという状況こそ、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」という状況でした。心情的に渇いていたのでしょうが、魂が渇いていることに気付いていなかったのです。これは特に現代の私たちに言えることです。人間は考える葦であると言ったパスカルはおおむね、このようなことを言っています。
 私たちには気ばらしという良いものがある。苦しい時、辛い時、虚しい時、身近な気ばらしがり、仕事でも何でも打ち込むことで気ばらしになる。しかし、気ばらしにはどうして人は苦しみがあるのか、どうして死ななければならないのか、というような人間の悲惨な状況を考えさせないようにしてしまう不幸がある。それはどうしてもうめることのできな虚しさという空洞であり、深淵(しんえん)である。それは神によってしかうめられないのである。この悲惨な人間を救うのはイエス・キリストの神である。
 この女性は「あなたはユダヤ人なのに、どおしてサマリヤの女の私に、水をお求めになるのですか。」と問いました。しきたりみたいのものを破るのは「どうして」なのかという素朴な問いでしたが、イエスはこの人に「どうして」の深みへと導いていきます。一方では、「どうして」夫が五人もかわり、今のも夫ではないのか、わからない、考えれば考えるほど虚しいということに気付かされます。もう一方では、「どうして」ユダヤ人とサマリヤ人の対立や違いがあるのか、どうして、神の取り扱いが違うのか、神への問いです。これも考えれば考えるほど解らなくなり虚しくなります。
 この「どうして」にイエス・キリストは答えられました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」の言葉がそれをよく表しています。人間の悲惨な状況を言ってくれる、知っておられるイエスに出会ったことで魂が満たされたのです。御子が人となり、悲惨な状況を訪ねられたからこそなのです。イエスが親しくしていたラザロが死んで墓に葬られ、そこを訪れたとき、イエスは憤られました。その憤りとは「人はどうしてこのように死ななければならないのか」というものだったでしょう。そこで、ラザロを生き返らせます。
 神が神であることを示すときにはずばりと示します。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」と。「わたしの言うことを信じなさい。」と神を知ることから、信じることへ導きます。女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」こうして、キリストとの出会いによって、うめることのできな虚しさという空洞、深淵(しんえん)が満たされていったのです。
 「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」とのみことばのようになったのです。女性は嬉しくなって、持ってきた水がめを置いたまま、町に戻って行き、証しをしたため、サマリヤ人の多くの人がイエス・キリストを信じるようになったのです。

◇「どうして」を引き受ける
 初めに汚れた水に浄化剤をいれて簡単に飲み水にした話をしました。しかし、イエス・キリストが命の水を造り出すためにはそう簡単ではありませんでした。人間の汚れを引き受けなければならなかたのです。人間の汚れの根本は罪です。罪によって引き起こされる現象が虚無です。神を信じないところの虚しさです。イエス・キリストはそれをすべて引き受けて十字架にかかられたのです。罪のない方が罪人のひとりに数えられたと聖書に記されています。ラザロの墓の前で、どうして人は死ななければならないのかと憤られた方が、その「どうして」を引き受けて、十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれたのです(マタイ27:46)。
 そして、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」という人間の虚無の渇きを全部引き受けて、十字架の上で「わたしは渇く」と言われたのです。そして、息を引き取られたあと、兵士が脇腹を槍で突き刺さしたところ、「血と水が出て来た」のです。そして、死んで葬られ、復活されました。この血と水こそ、「命の水」なのです。罪を赦し、きよめる命の水です。気を紛らわすものではなく、気を満たすいのちの水です。底知れぬ虚無の空洞を満たす神の水なのです。死に至る魂をよみがえらす命の水です。「イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」(ヨハネ7:37-38)。

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