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オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

我と我が家は主に仕えん

2016-05-29 23:35:56 | 礼拝説教
2016年5月29日 主日礼拝(ヨシュア記24:19~28)於・豊中泉教会・岡田邦夫

「わたしとわたしの家とは主に仕えます。」ヨシュア記24:15

 あれから35年、豊中に赴任した時は若さに輝いていたが、今は額が輝いています。最初「測り縄は良い地に落ちた」のみ言葉から「点と線」という題で説教し、起こった神の出来事の点を結んでいくと救いの歴史になりますといようなことを話したかと思います。ヨシュア記23~24章でヨシュアが「年も進んで老人となった」ので、イスラエルの人々にメッセージを伝えます。実は13:1でも同じように主が彼に言われていました。「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている」。私も年が進んで、老人となり、定年まであと3年となったのですが、このみ言葉が示されて、教会に迷惑でなければ、定年延長をさせていただきたいと思っています。「取るべき地なお多し」なのです。

◇「主が…」神の主体性
「年も進んで老人となった」は新改訳で「年を重ねて老人になった」と訳されています。歴史は積み重ねです。年輪のように、地層のように、書物のように、重ねてきたものです。ヨシュアに神が過去を回想させ、イスラエルの歴史の初めから見させるのです。24:2~13を要約してみましょう。
・第一の層:主は先祖アブラハムをユーフラテス川の向こうからカナンの全土を歩かせ、その子孫はエジプトに下った(24:2-4、創世記に記)。
・第二の層:主はモーセとアロンをエジプトに遣わし、災いを下し、イスラエルを連れ出した。葦の海を渡らせ、追手のエジプト軍から逃れさせた。そして、民は荒野に住んだ(24:5-7、出エジプト記に記)。
・第三の層:主はヨルダン川の東に住むエモリ人との戦いに勝利をもたらし、その地を占領させた。バラクの手からも救い出した(24:8-10、民数記に記)。
・第四の層:主はヨルダン川を渡らせ、エリコの人々との戦いのほか、カナンの町々、人々との戦いに勝利を与え、この地を相続地に与えた。産物も与えた(24:11-1、ヨシュア記に記)。
 これはヨシュアの見解や想いではなく、主ご自身の見解や想いなのです。一言で言いますと「あなたがたのために戦われたのは、あなたがたの神、主である」(23:3)。主体は、歴史を重ねる神、主なのです。そして、重要なことはみ言葉の実現なのです。「あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した」(23:14新改訳)。
 こちらの御教会とヨシュア記とどこか似ているような気がします。一人の姉妹が神田ホーリネス教会で救われ、車田秋次師より洗礼を受け、結婚して、豊中に来られました。ご主人の所属する他の教団の教会に一緒に行っていました。車田師が大阪に来られた時に、会う機会が与えられ、彼女は願い出ました。「ホーリネスの教会が豊中にほしい」と。早速、牧師が遣わされ、家庭集会が始まり、1956年、豊中使徒教会が設立されました。
それから、24年という年が重ねられ、ついに新しい場所に出る必要が生じました。「あなたがたが足の裏で踏む所はみな、…あなたがたに与えるであろう」のように(1:3)、踏み出して、名を改め、豊中泉教会が誕生しました。そして、泉教会に与えられた約束の言葉は「ヨセフは…泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は垣根を超えるであろう」(創世記49:22)。垣根を超えて、3つの市に踏み出し、教会が誕生しました。
御教会の歴史の主人公、主体はイエス・キリストの神です。「あなたがたのために戦われたのは、あなたがたの神、主である」。「あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した」のです。歴史‘History’は‘His story’(彼・イエス・キリストの物語)とよく言われます。教会の歴史も信仰者の歴史も、神が重ねられた、栄光に輝く神の物語なのです。

◇「主に…」我の主体
 では人のでる出番はないのでしょうか。あるのです。すべて、神がなさったこと、これからも、神がなさることなのだと踏まえたうえで、「それゆえ」と言って、こう命じます。「いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい。…あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい」(24:14-15)。
 ここに信仰者の主体性があります。見えるものにしろ、見えないものにしろ、偶像を捨てて、真の神、イエス・キリストを選び、仕えることです。主に仕えることは最も価値のある生き方です。ヨシュアは「ただし、私と私の家とは共に主に仕えます。」と率先して言います。私は私、他の人は他の人、だれが何を選ぼうとも、私は主を選び、主に仕えます。ということです。それこそ、主を喜ばせることです。
 主の恵みによって仕えることに価値があります。民は応答します(24:16-18)。これまで、主がみずから我々をエジプトの奴隷の家から導き出し、我々の通ったすべての道で守られたから、また、主がすべての民を追い払い(カナンの地を得させた)から、それゆえ、我々も主に仕えます。「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決してしません」。これから後もそうです(24:19-24)。主に仕えず、主を捨てれば、聖なる神、ねたむ神(熱情の神)が滅ぼすことがあるのだという、ヨシュアの問いかけに対し、民はいいえ「われわれの神、主に仕え、その声に聞きしたがいます」と応答します(24:21)。言い換えれば、これから後も主の救いがあるから、本心で主に仕えますと言ったのです。

今年生誕300年を迎えた伊藤若冲(じゃくちゅう)という、江戸時代の天才絵師に注目が集まっています。誰もまねができない、手の込んだ絵ばかりだからです。孔雀の羽根などは無数の線を使って描かれていますが、細かい所は0.2mmの細さ、しかも、下書きなしで、一カ所のミスも描き直しも見当たらないという高度な技術です。紅葉の真っ赤な葉っぱは絹地に表からは赤、裏からは橙を塗り、一枚一枚全部違う色に描き、牡丹の僅か2cmほどのシベには絵の具を4層に塗り重ね複雑な色彩と立体感を生み出しています。僅か1cmの雀の胸には、顔料0.1mm以下の粒子を筆先につけ絹目の隙間に置いて、微妙な色を生み出しています。こうして、人間の目で認識できないレベルの描写をして、若冲はいのちの輝きを表現しようとしたのでしょう。
イエス・キリストが私たちを救うためになしてくださったことは、そのようなことなのです。十字架の血で私の頭のてっぺんから足のつま先まで、人生の初めから終わりまで、見えるところも見えない所も、神がお気にいるまで、微に入り細に入り、徹頭徹尾、きよめてくださったのです。キリストの復活の命で私の頭のてっぺんから足のつま先まで、人生の初めから終わりまで、見えるところも見えない所も、神がお気いるまで、微に入り細に入り、徹頭徹尾、栄光の輝きに変えてくださるのです。若冲の手による作品を世界が注目しているのですが、わが救いの人生はイエス・キリストの御からだによる作品、天の世界が絶賛しているのです。
だから、私たちはこの主に仕えることを今、選んで当然なのです。仕えられるより、仕える方が最良の生き方なのです。主ご自身が言われました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。…人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10:43,45新改訳)。私たちが、仕えられた十字架のイエスを仰ぎ見つつ、私たちも主に仕えていくことが最高の人生なのです。三浦綾子さんが仕事というのは文字からして「仕える事」だと言いました。私たちは一生涯、神に仕えるという最大の仕事があります。献身も仕える事、小さな親切も仕える事、寝たきりになっても、祈り仕える仕事があります。仕える人生こそ、パーフェクトな無駄のない人生なのです。
今、告白しましょう。「わたしとわたしの家とは主に仕えます」(24:15)。

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