オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

傷ついている人の「包帯」

2011-11-20 00:00:00 | 礼拝説教
2011年11月20日 主日礼拝(ルカ福音書10:30-37みのお泉教会)岡田邦夫



 百才の詩人・柴田トヨさんの詩集「くじけないで」にこのような詩があります。
ことば
何気なく
言った ことばが
人を どれほど
傷つけていたか
後になって
気がつくことがある
そんな時
私はいそいで
その人の
こころのなかを訪ね
ごめんなさい
と 言いながら
消しゴムと
エンピツでことばを修正してゆく

 私もあの時、どうしてあんなことを言ってしまったのだろうと何度も思い出して悔やむ時があります。私はトヨさんのように「その人のこころのなかを訪ね…修正して」いきたいと思わされました。
 私がまだ小さかった時、母に負ぶさって、橋の上を歩いていたのですが、石につまずいて、思い切りこけたのです。その拍子に母の紙の毛にさしていたピンで私の鼻が切れて、血が噴き出したので、物のない戦時中で、千切った新聞紙をそこにぺたっと貼って血を止めたとのことです。そのため、傷は治っても、傷跡が残り、きれい消えたのは50年ぐらい経ってからでした。まして、人は心が傷つくと簡単にはその痛みは消えないものです。
 私の母は長男のたかちゃんが4才の時に、伝染性の病気であっという間に亡くしました。1年は泣き明かし、経の本を読み、新約聖書も3回読んでいく内に、時が痛んだ心を少しずつ、いやしていきました。その後、4人子供が生まれて、そのことは過去のことになったはずでした。それから、60年も過ぎたある日、親戚の人が訪ねてきて、その会話の中で、たかちゃんの話におよぶと、母はしくしく泣くのです。あの時、注意していれば、死ぬことは無かったろうに、私が悪かった、子供が可哀想だと…。
 その後、私がクリスチャンになり、母を誘うと教会に行くようになり、65才で洗礼を受け、ある礼拝で、牧師が「幼子がわたしのところに来るのをとどめてはならない」というキリストのメッセージを聞いた時、その言葉が心に入り込み、不思議と心が晴れ、心の痛みは消えたのです。

 イエス・キリストが傷ついた人のたとえ話をされました。ルカ福音書です。
10:30 イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
10:31 するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
10:32 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
10:34 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
10:36 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
10:37 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

 レビ人や祭司という宗教家でも、自己保身が先立ち、傷ついたサマリ ヤ人には関わろうとしないで行ってしまいました。しかし、サマリヤ人はユダヤ人を軽蔑されていたのですが、傷ついたユダヤ人をほおってはおけず、助けました。それが隣人を愛すること、隣人になることだと、イエスが教えられたのです。このサマリヤ人は偏見にとらわれないで、「偏見なきこころ」で傷ついた旅人を助けたのです(堀肇「たましいのなぐさめ、こころの余裕」より)。「気の毒に思い」(かわいそうに思い)という相手に痛みに共感する心が大事だと思います。よくあることで、そんな危ない所をとおるから、こんな目に会うのだというような批判的、解釈的態度ではありませんでした。
 そして、「その傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてや」ったのです。それは音楽や美術や文学かも知れないし、カウンセラーの心理的ケアかも知れませんが、また普通の「温かく優しいこころ」がそうだと思います。見捨てず、見方になることでしょう。それが傷ついた人生の旅人をいやしていくのだと思います。
 さらに突き詰めて考えるなら、オリブ油とぶどう酒とほうたいは神からのものだと思います。たとえの底辺にあるものは私たちが傷ついた旅人であり、イエス・キリストというよきサマリヤ人がかわいそうに思い、その傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてくださるという物語なのです。オリブ油とぶどう酒とほうたいというのは、イエス・キリストの十字架の贖いです。「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである」(1ペテロ2:24)。罪ゆえに良心が傷ついている私たちの罪の身代わりに十字架において、神と人に打たれ、ののしられ、裁かれてくださったので、私たちの罪が赦され、良心の痛みも消えるのです。私たちの出来る事は悔い改め、信じて、介抱してくださるよきサマリヤ人のイエス・キリストにすべてを委ねることです。
 そして、イエス・キリストにしていただいたという信仰と感謝から、私たち自身が傷ついている人の「包帯」となって、隣人になっていくのです。

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