オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

荒野に水がわき出し

2018-06-03 00:00:00 | 礼拝説教
2018年6月3日(日)二か所礼拝(イザヤ書35:1~7)岡田邦夫


「そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」(イザヤ書35:6)

 三田泉教会は東側に畑を借りています。その向こうには田んぼがあり、水が張られ、今週、田植えがなされたばかりです。朝日がさしてくると、水面に新緑の柿の木とその向こうの相野山が写って美しく、見る者の気持ちが晴れやかになります。稲作は水田でなされるため、半永久的に連作ができると言われています。ひたひたと水が張られた風景というのは、聖書の舞台となっている「荒野」では理想郷かも知れません。こう歌われています。「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う」(35:1)。

◇荒野の上から
しかし、荒野は神の啓示の舞台でした。モーセに引き出され、エジプトを脱出したイスラエルの民は40年の荒野生活で、神の声を聞いたのです。荒野は殺伐としており、何もないし、いつも死と隣り合わせの環境です。果てしなく孤独の世界に引き込まれます。神の声を聞くにはふさわしい舞台です。十戒が与えられ、神の口から出る一つ一つのことばによって生きるようにされたのです。
私たちは試練やスランプという荒野、四面楚歌という荒野の状況におかれる時、上からの御声を聞く時なのです。表面的に生活が満たされているようでも、魂は乾いているのです。天からの生ける水、愛と恵みのみ言葉でうるおされ、満たされ、生かされなければなりません。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」(ヘブル3:7-8)。

◇荒野の向こうから
イザヤは荒野を擬人化して歌います。カルメルは森林地帯で、レバノンには杉の木が群生し、シャロンにはバラなどが群生しているところです。「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る」(35:1-2)。
バビロンに捕囚された民が祖国に帰ってくる預言で、その帰還を喜ぶ情景を歌っているのです。「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る」(35:10)。それは荒野が森になるように、砂漠が花園のようになるもの、そのような驚くべき主の栄光を見るという預言の歌です。事実、預言は成就します。民の喜びの叫び声と泣き声がいっしょになり、それが遠くまで聞こえたほどだったとエズラ記に記されています(3:13)。
見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、口の利けなかった人が喜び歌うというのは帰還における霊的回復のことです。しかし、イザヤはその先のことを預言していました。メシヤ(救い主)預言です。イエス・キリストがご自分において成就したと告げます。「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」(マタイ11:5)。主がなされた癒しの奇跡は人類の霊的回復の時が来たことのしるしです。ですから、こう勧めます。「弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』」(35:4共同訳)。

 私、20歳の時でした。11/17(金)に特別伝道会で主を受け入れ、11/19(日)の伝道会に早めに行った時に、牧師夫人にひとこと言われたことで、神の子にされたという確信が与えられ、喜びがわいてきました。その伝道会でクリスチャンの友人がいきなり証しをしようと言い出し、前に立たされ、聖歌を一緒に歌わされ、主を信じたと証ししました。と言っても何のことかさっぱり解らず終えたのですが、その歌った聖歌「来たれ誰も」は自分の状況にピッタリだと思い、気に入りました。特に「来れ誰も…あらばあるまま」「代価すべて払われたり、すでに」が魂に響きました。
1来れ誰も重き荷物あらばあるまま 来りイエスの手に委ねて安きを得よ
3来れイエスの深き愛に汝が内にある 痛手 病 皆委ねて 安きを得よ
4来れ何も持たでイエスに主の死によりて代価すべて払われたりすでにすでに
(オリカエシ)主イェスは安きを与え給わん 来りイエスの手に委ねよ汝が重荷を
 そして、早くも12/22のクリスマス礼拝で受洗し、夜は祝会で、青年会の寸劇「美しの門」に出演していました(使徒3:1~9)。生まれながら足が不自由なため物乞いをしている男の役をやる青年が動物園の仕事が忙しく出られなくなったので、急きょ代役を頼まれたわけです(一週間前)。台本を見るとそれが自分自身のように思えてならず、真剣に演じました。「ナザレのイエスの名によって歩きなさい。」と言われると、立ち上がり、歩き出す。歩いたり、跳ねたりする。真剣にやるものですから、会場は大爆笑。聖書の通り、「神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行っ」て幕がおりました(使徒3:8)。

 救いの喜びは内からあふれてくるものです。「荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるから」です(35:6)。「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」(ヨハネ福音書7:37-38)。聖書が言っているとおりというのはイザヤ書のこと。何か所か相当する聖句がありますが、その一つが「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる」です(58:11)。初めに話しました田んぼ、水で潤っているから、稲は育つのです。ぎすぎすした世の中、物はあっても乾いた現代、聖霊なる慰め主が魂を潤してくれるのです。イエス・キリストの血潮がすべてを赦し、全生涯を潤してくれるのです。ひとり子を犠牲にされたほどの父なる神の愛が信仰者を永遠に潤してくれるのです。「神は来て、あなたがたを救われる」。

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