ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

ヴァイオリン

2024-02-21 09:29:21 | 音楽

世に驚きは尽きぬもの。

以前にも書いたが、若い頃の私はクラシック音楽を好まなかった。なんとなく気取っているとの思いがあり、偏見丸出しで嫌っていた。ただ大学生の頃からジャズ喫茶に出入りするようになり、ジャズ・ピアノの生演奏は悪くないとも思っていた。

実際、カセットテープに録音したビル・エヴァンスの曲を北アルプスの3千メートル級の稜線で、満天の星空の下で聴いた時は身震いするほど感動したものだ。やがて社会人になり、難病でリタイアしてからは、心の平静を保つための一環として、ピアノの曲を一人静かに聴くようになった。

率直に言って楽器を弾けない私には演奏技術の良し悪しは分からない。だから私はこの奏者ならば、他のも聴いてみたいと思う以外に判断の基準はない。実際、同じ曲を弾いていても、ピアニストによって違って聴こえるから不思議なものです。

コロナ禍で自宅待機を強いられた際、随分とインターネットの動画配信を視聴していた。自宅ではノートPCを使っているので、正直音質は良くない。だから外付けのスピーカーを使っているが、十代の頃は自作スピーカーに凝った経験がある私には些か不満。でも少しづつではあるが、外付けスピーカーの品質も向上していることは認めている。

動画を視聴するようになると、画質の向上を求めるようになり、有名メーカーの既製品ではなくBTOのゲーミングパソコンを愛用するようになった。高機能の情報処理を必要とするPCゲーム機は、画像の処理速度だけでなく音質もまた向上していると知ったからだ。

実際、5年ほど前に買った外付けスピーカーよりも、ゲーミングPCの内蔵スピーカーの方が音質が高く感じられたぐらいだ。ただし音量を大きくすると差が出てくるが、これは致し方ない。やはりスピーカーのサイズが大きい方が性能的には高い。音量が小さいと気がつけませんけどね。

新しいPCの音質に満足したせいか、年末年始は音楽系の番組を視聴していたのだが、ここで思わぬ収穫に出くわした。それがヴァイオリニストの吉村妃鞠さんである。まだ小学生でありながら、世界中のコンクールを総なめしている天才音楽家だ。

なにせ若き音楽家のコンクールだけに皆がある程度上手いとはいえ、審査員たちは退屈さに耐えているのが傍目にも分かる。そこへ小柄な女の子が登場するが、審査員は眠たげなまま。ところがいざ演奏が始まると審査員は驚いたように背筋を伸ばす。そして真剣な表情で聴いているのがはっきり分かる。

そりゃそうだろうと思う。私とて思わず座り直して背筋を伸ばして聞き惚れたほどだ。私はこれまで特段ヴァイオリンという楽器に興味がなかったし、ソロの演奏自体聴いたことがなかった。そんな私でもこの少女のヴァイオリンの演奏がずば抜けていることはすぐに分かった。

コンクールでの演奏が終わり採点されるのだが、3人の審査員はいずれも満点を出した。それどころか、アンコールを求めるかのような拍手を続ける始末。司会者が妙に嬉しげに困っているのがおかしかった。

この少女こそが今、話題のヴァイオリニストの吉村妃鞠さんである。今までヴァイオリンに全く興味がなかった私を驚愕させた驚異の演奏者である。機会がありましたら是非ご視聴ください。

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おせん きくち正太

2024-02-20 13:10:12 | 

マスコミの力は凄い。

一人の原作者が絶望して自死をしてしまった事件をも消し去らんとしている。日ごろ人権派を謳う政治家も記者も、マスコミ様の意向の前にはひれ伏してしまう。

小説や漫画を原作としてアニメ化、実写化をしようとすれば、どうしても修正が必要になる場合はあると思う。映像の情報量は膨大で、映像を真剣に製作しようと考えれば、小説も漫画も情報量が絶対的に不足するからだ。

だからこそ私は原作と映像化、アニメ化された作品は別物だと割り切るようにしている。しかしながら原作を買い取ったつもりで、勝手に変えてはいけないと思う。そして、それを平然とやってきたのが日本のTV局である。

かつて週刊モーニングという漫画雑誌に「おせん」という漫画が連載されていた。東京は下町の割烹料亭を舞台に繰り広げられる下町情緒あふれる漫画であった。なによりも、その画風が独特で、色使いも華やかで毎回楽しみに読んでいた。

人気が出るにつれ「おせん」の実写ドラマ化がなされたが、これが酷いものだった。おそらく最初にジャニタレの起用ありきの企画で、原作にはない恋愛要素がぶちこまれてしまい、原作の持つ良さが消え去った驚異の駄作であった。

あまりの酷い実写化に衝撃を受け、作者のきくち正太氏は連載を中断しただけでなく、漫画家自体を廃業してしまった。類似の絵柄のない貴重な漫画家だけに、漫画業界は貴重な人材を失ったと思った。そして担当編集者はどうしたかは知らないが、出版社はそのまま幕引きを狙い、当時たいした話題になることなく消え去った事件であった。

この「おせん」を担当したTV局のプロデューサーは、実は「セクシー田中さん」をも担当しており、原作クラッシャーであることをまったく反省していないことが良く分かる。私はこの人が主犯であると考えており、脚本家なんてその手先に過ぎないと思う。

ほぼ間違いなく、今回も沈黙を貫いて事件の抹消を狙っていると私は邪推している。なにせ日ごろ、人権派を謳い文句としている良心的ジャーナリスト様のほとんどが同調して無視しているのですからね。

なお、2008年に筆を折ったきくち正太氏ですが、心の傷も癒えたのか「おせん 和の女」として再開されています。もちろん出版社は変えていますね。作家を守らぬ出版社なんて不要ですから当然です。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政権交代の可能性

2024-02-19 09:33:51 | 社会・政治・一般

自民党は政治資金の使途を隠す悪い政治家の集まりです。だから次の選挙では野党に投票しましょう。

政治資金パーティーの会費をキックバックして不正をしている悪い政治家、それが自民党です。だから次の選挙では野党に清き一票を。

日本を戦争に導く悪い政治家の集まりが自民党です。次の選挙では憲法を守る政党にこそ投票しましょう。

 

私の記憶では、1970年代から野党及びマスコミ様は同じことを言い続けています。で、政権交代が実現したのは、細川連立内閣と民主党政権の二回だけ。しかも、いずれも自民党が馬鹿やらかして有権者に呆れられての政権交代でした。

で、結果は政権を投げ出した細川と、長年訴え続けながら支持されなかった政策を実現しようとして見捨てられた民主党政権という分かりやすい醜態でした。はっきり言いますが、日本のまともな有権者で野党に政権を担う能力があると考えている人は極めて少ないと思います。

民主党政権なんざ財務省の支援があってこそ、かろうじて政権運営が出来ただけ。やたらと委員会を作ってそれさえ邪魔した菅直人や、「Trust Me」とか言って却って不信感を買った鳩ポッポなんて、むしろ邪魔な存在でした。

与党である自民党が失態続きなのは事実。でもその失態すら我慢せざるを得ないのが野党の無能さ。その無能な原因は、自分たちは良い人なので、その政治思想は正しいのだから、有権者は我々を支持しろと考える傲慢さにこそある。

自分たちの無能さを認識することを避ける卑怯さが、間違いを反省する根幹的な原因です。私は野党の政治家には確かに善人が少なくないことは認めています。しかし善人が適切な政治判断をするとは信じていません。時には悪名を甘受する覚悟がなければ、有能な政治家とはなれないと考えているからです。

ただねェ・・・岸田政権の鈍感ぶりには正直閉口しています。元々自民党内での権力基盤が脆い政治家だとは知っていますが、あまりに官僚頼みが過ぎる。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

利益は独占したい

2024-02-16 09:28:33 | 社会・政治・一般

報道したくない自由だってある。

先月の「セクシー田中さん」の原作者が自殺して以降、漫画家や脚本家、原作ファンなどを巻き込んでの論争が起きている。だが肝心のTV局及び出版社は沈黙を守っている。さすがに小学館の漫画担当部署の編集者たちは声を上げたが、苦渋の想いがにじみ出ている。

私が不気味に思うのは、日テレ及び小学館以外のマスメディアが、この事件の報道を極力控えていることだ。あたかも世間が忘れ去るのを待っているかの如き姿勢で一致している。実際、TBSもテレ朝もテレ東さえも、もう取り上げない。NHKも同様である。ここにマスメディアの本音が透けてみえる。

理由はある程度、想像が出来る。私はマスメディア関係者ではないが、この業界にとって漫画を原作としたアニメーション化及び実写化は金の卵を産むニワトリである。大きな収益源ではあるが、所詮ニワトリである。アニメ化及び実写化の許可さえ取れれば、後は利益を如何に配分するか、だけだ。

原作の漫画のアニメ化及び実写化は、世間の想像とは異なり、漫画家本人にはほとんど利益は配分されない。最初に許諾料が支払われるのみで、売り上げに応じた収益配分はないに等しい。DVDの販売や関連グッズの販売収益などは、「製作委員会」などを通じて業界関係者の間で山分けされ、原作者はもちろん、作画したアニメーターにさえほとんど配分されない。

この金の卵を産むニワトリは断固独占したい。だからこそTV業界、出版社業界などは、この「セクシー田中さん」事件が消え去るのをじっと我慢して待っている。だからこそ「セクシー田中さん」のプロデューサーは隠れ続けるし、出版社は他社も含めて声明を出さない。

出来るならば原作者と脚本家の間の問題として矮小化したい。叶うならば、この問題はこのまま何の結果も出さずに消え去って欲しい。だからこそ報道しない、話題にしない、口に出さない。

これが日本における報道の自由の実態です。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フルメタルアルケミスト 鋼の錬金術師

2024-02-15 14:21:01 | アニメ・コミック

連載中の漫画作品の映像化は難しい。

いくら週刊誌に連載していても、基本漫画家一人で作画する場合、時間的にも物理的にも製作できる原稿には限りがある。一方、TV局や映画会社はチームで制作する。当然ながら、すぐに連載に追い付いてしまう。

元々人気作であるからしてある程度視聴率は稼げるし、スポンサー企業も付きやすい。だから原作者をせっつくが、単なる加工作業と、ゼロから作品を生み出す労力は本質的に違う。TV業界ではその対応策として、一度放送を中断して原作を待つか、TV版オリジナルの新たなストーリーを製作して放送するかだ。

原作を大事にしたい漫画家は、本音では前者を望むが、実際にはTV局側の都合で後者の方法が取られることが多い。一応、漫画家が監修していることになっているが、困ったことにTV局側が勝手に製作を推し進めてしまうこともある。

その悪しき典型ともいえるのが、スクエアエニックス社で刊行された「鋼の錬金術師」荒川弘の一回目のアニメ作品であった。アニメが製作発表されたとき、原作はまだ5巻までしか刊行していなかった。そこでTV局はオリジナルのストーリーを作って、あっという間に完結させてしまった。

ちなみにホムンクルスのボスは出てこないし、まるで別作品であり、私は気持ち悪くなったほどだ。当然に作者の荒川女史は怒り、これ以上原作を穢すことは許さず、新たに「フルメタルアルケミスト 鋼の錬金術師」として二作目を作らせた。

こちらは、荒川弘が目を光らせていたせいで、非常に完成度が高く、大人の鑑賞に堪えうる名作となっている。不可解なのは、未だにネット上では一作目も面白い、二作目よりも面白かったなんて意見が出回っていることだ。

おそらくだが一作目の製作関係者ではないかと思う。断言しますけど、主人公らのデザインが同じだけでストーリーとしての完成度は二作目が遥かに勝ります。自由度が高い小説の実写化とは異なり、漫画のアニメ化は、漫画読者の目も厳しく、近年はTV関係者の勝手な改編は許されなくなっています。

でも、それは近年の漫画家と良心的なアニメスタジオの努力の積み重ねがあったからこそです。TV業界で漫画を原作としたアニメ作品が製作され始めた1960年代からつい最近まで、TV局の恣意的な介入により原作が改悪されたケースは数多にのぼります。

私が基本、漫画の原作とアニメ作品は別物だとしているのは、改悪ではなく改良(?)されたアニメ作品も少なくないからです。一例を挙げるならば「タイガーマスク」がそうでした。あれは梶原一騎の脚本が優秀であり、漫画家が描いた作品は子供向けに改変されていたのです。私が認める数少ない例外ですね。

考えてみれば、当時活躍していた脚本家には小説家になってもおかしくないほどの実力者がけっこういました。自分でオリジナルの物語を綴れるだけの脚本家はアニメに限らず、時代劇や家族向け作品などでもけっこうあったのです。

あの当時の脚本家主導によるオリジナルの作品を作っていく風潮が次第に廃れ、替わりに小説や漫画を原作とした映像化が次第に増えていき、そうなるとTV局も脚本家のオリジナルより、既に売れた実績のある小説や漫画を利用することが普通になってしまいました。

ただ問題は、TV業界側では映像化の許可を得れば、自分たちが好き勝手に原作を変えてしまうことも既得権だと勘違いしたことでしょう。小説が原作だと、映像化の過程で仕方なく変えることもあるのは、私も理解できます。

しかし漫画のアニメ化は、原作のイメージが強すぎるため、如何に連載が遅れようと原作のイメージを壊すような改変は認めがたくなった。実際、漫画家はアニメにも造詣が深いこともあり、例えTVオリジナルストーリーであっても原作のイメージを変えないよう、強く関与することが普通になっています。

荒川弘が一作目を認めず、新たに原作に忠実な二作目を作ることに固執したのも、その一例だと思います。実際、両方を視た私ですが、二作目を視た後は一作目には嫌悪感しか感じませんでした。

ところが漫画の実写化となると、昔の習慣が抜けずに原作を図々しく変えてしまうことが未だに横行しているのでしょう。その悪しき実例が、先月自殺した「セクシー田中さん」の漫画家であったと思います。

ちなみに私がこの原稿を書いている現在、自殺に追いやった主犯である日テレは、未だにノーコメントを貫いています。まったく反省する気がなく、騒ぎが収まるのを待っているのでしょう。

あぁ、厭らしい。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする