のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『フィンランドのくらしとデザイン』1

2013-02-03 | 展覧会
NHK-FM「名曲のたのしみ」でひたすらシベリウスを聴かせていただいたおかげで、昨年からなんとなくシベリウスづいているのろ。
そうはいってもいまだに『フィンランディア』を聴いて真っ先に思い浮かぶのはジョン・マクレーン刑事の顔なのでありました。これは”ホフマンの舟歌”を聴けば必然的に「ボンジョ~ルノ、プリンチペッサァ~!」と満面の笑みで呼ばわるロベルト・ベニーニを連想し、『熊蜂の飛行』を聴けば必然的にピアノの鍵盤の上にかがみ込むくわえタバコのジェフリー・ラッシュを思い浮かべるのと同じことであって、要するにいたしかたのないことでございます。

それはそれとして
兵庫県立美術館で開催中の『フィンランドのくらしとデザイン ムーミンが住む森の生活』へ行ってまいりました。

優しいかたちの家具や照明、明快で飽きのこないデザインのテキスタイルといった、思わず両手で撫で回して愛でたくなる展示品の魅力もさることながら、その背景にあるデザイン哲学、ものづくり精神、ひいては「もの」と関わる姿勢そのものに、いたく感銘を受けました。

展示冒頭に掲げられたご挨拶文などは、通常ならば読んだ端から忘れてしまうものでございます。しかし本展のそれは紋切り型の謝辞には留まらず、デザイナーでも何でもないワタクシが読んでもはっと背筋が伸びるような心地がするものでございました。と申しますのもそこには、かの地のデザイン哲学の根幹に流れる「実用性と普遍性への志向」がきっぱりと述べられており、あたかもアーティストの宣言書のような矜持と、皆にとってのよりよい社会を模索し続ける謙虚な姿勢とが表明されていたからでございます。

私たちは問題解決するためにデザインしているとも言えます。(...)私たちは「問題解決精神」で、デザインと実用性を結びつけ、日常生活をより過ごしやすく且つ自然に配慮した環境を追い求めています。
ヤン・グスタフソン大使

何よりも優先するその(注:フィンランドのデザインの)哲学は、誰でも優れたデザインの権利を有するという点です。誰もが美的なものを選ぶ責任があり、それが日常の環境を生み出すことになるのです。「フィンランド・デザインの真髄」と題された本展はフィンランド文化の鍵となる特徴を明瞭に跡づけています。芸術に関する基本的な質問を何度も問い直すとき、フィンランドの芸術や建築、工業デザインの歴史に新たに光をあてることになるでしょう。つまり「優れた芸術とは何か?時の試練に耐えるのは何か?」、そして何よりも「なぜ芸術はわれわれにとって重要なのか?」という質問です。この最後の質問に答えることは簡単です。1947年にアアルト(注:20世紀フィンランドを代表するデザイナー)はこう答えています。「もし芸術が存在しなければ、生命は機械となり、死んでしまうだろう」
フィンランド美術館・博物館協会常任理事スザンナ・ペテルソン

さて「くらしとデザイン」というタイトルから、家具調度の展示がほとんどかと思いきや、最初の展示室には19世紀末から20世紀初頭に描かれた油彩画がずらりと並んでおりました。
さすがに雪景色を描いたものが多うございます。湿った雪の重みでずっしりと枝を垂れる針葉樹や、曇天の下に広がる凍りかけた池の絵などに囲まれておりますと、曲がりなりにも北国育ちのワタクシには、照り返す雪のまぶしさや、しんとした林の中で時おり雪がさあっと流れ落ちる音などが思い出され、鼻孔からは冷たい空気が流れ込み、口の中にはきんきんとしてちょっぴり埃じみた雪の味がするようでございました。

特徴的だと思いましたのは、雪景色に限らず風俗画も夏景色も、角のとれたフォルムとふんわりくすんだ色彩で描かれており、あんまりシャープな所がないという点でございます。かといって印象派のようにもやもやーんのきらきらーんの感覚バンザイな画面なわけではなく、ナビ派っぽいけれどもナビ派ほどに装飾的だったり象徴的だったりするわけでもない(挿絵などは別として)。むしろ、親しい風景や風俗に余計な手心を加えるのをよしとせず、畏敬と愛情を込めつつも淡々と描写しているという印象を受けました。
一点一点にの作品には、一目で分かるような強い個性はございませんので、その点ではやや物足りなくもありますが、並んでみるとなかなか独特でございます。


次回に続きます。