のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ノーカントリー』3

2008-04-15 | 映画
4/8の続きでございます。
引き続き、何でシガーはあんなにも怖いのかって話でございます。

*以下、引き続きネタバレでございます*


シガーと知り合いである殺し屋ウェルズは、シガーはどんな人物かと訊ねられて「奴はユーモアの解らん男だ」と言い、また「金やらドラッグやらそういったものを超越したprinciple(原理、原則、行動指針、主義信条)を持っている」とも言います。
ユーモアがないとはつまり、あらゆることを大真面目に受け止めてしまうということでございます。これはガソリンスタンドの店主との対話シーンで、おそろしい緊張感とそこはかとない可笑しみをもって描かれておりますね。
初盤のこのシーンと、エンディング近くのモスの妻カーラ・ジーンとの対話シーンで、シガーは例のコイントスをいたします。この二つの対話とコイントスのシーンから、ウェルズが言及しているシガーのprincipleの一端を伺うことができます。
即ち、「偶然も、必然も、人が意図してたどり着いた状況も、意図せず成り行きで陥ってしまった状況も、ひとしなみに見なす」ということ。そして「ほんのささいに見えるあらゆるものごとが生の大きなターニングポイントとなりうる」ということでございます。これらはシガーのユーモア感覚のなさとも関係しております。

ガソリンスタンドの老店主は、妻の父の持ち家でこの商売を始めたのはほんの数年前のことで、それまでは別の土地で暮らしていたと言い、「財産付きの結婚をしたわけだ」というシガーの言葉を否定します。店主にしてみれば家と店が自分のものになったのは偶然と言ってもいいようなものであり、少なくとも結婚当所に計画していたことでは全然ないのでございますから、否定するのは当然でございます。
しかしシガーは店主の意図がどうであれ、結果的には彼が義父の持ち家と店舗を手に入れて今に至っている、という事実だけを見ます。実際、偶然と言おうと何と言おうと、今ある状況は老店主が人生のある時点である選択をした、その結果として存在するものでございます。
シガーは苛立たしげにため息をついてコインをはじきます。

--言え、表か裏か。
--私は何も賭けちゃいませんよ。
--賭けたさ。お前は生まれたときからずっと賭け続けてきた。自分では気付かなかっただけだ。このコインがいつ鋳造されたか分かるか?
--いいえ。
--1958年だ。22年間旅をしてここへたどり着いた。そのコインがここにある。表か裏のどちらかだ。お前は当てなくちゃならない。さあ言え。

店主がここにいて、シガーがここにいること。
1958年製のコインが今シガーの手の下にあること。
それが表であること、あるいは裏であること。
そのコインの裏表いかんに店主の命がかかっているということ。

これらを偶然の積み重ねと呼んでもよろしうございましょうし、必然の積み重ねと呼んでもよろしうございましょう。シガーが自らの意志でコイントスを望んだからだと言ってもよろしうございましょうし、店主が「特に意味のない世間話」で思いがけずシガーの機嫌を損ねてしまったからだとも言ってもよろしうございましょう。
経緯や理由が何であれ、ひとたび起きたことは変えることも取り消すこともできず、そうした不動の過去の積み重ねの結果としてある”今”という一点。店主の意図も来歴も人格も感情も全く意に介さないシガーが見ているのはこの”今”の一点だけでございます。ちょうど死や運命なるものが、人間の意図も来歴も人格も感情もなにひとつ斟酌することなく、ただ時間と場所のある一点において行き当たった者をさらって行くのと同じように。

もちろん人間には全ての因果の連鎖を見渡すことなどできやしませんから、そうした運命の一点になぜ、どのようにして行き当たってしまうのかを見通すこともできません。
かくて人間はそれと気付くことなく日常的に、生死に関わるような決定をするわけでございます。
道を渡るか、渡らないか。今すぐ家を出るか、10秒後に出るか。そんな些細なことでさえも生死の分かれ目となり得ます。シガーはコイントスというあまりにも軽い行為に命を賭けさせることによって、このことを象徴的に語っております。

何でもないような出来事が生死を決する機会になりうるということ。“今”という一点が、ほとんど無限と言ってもいいほどの重量を持つ”過去”の積み重ねから成り立っているということ。
これらはまぎれもない事実とはいえ、人が生活の中で意識するようなことではございません。
しかし運命あるいは死の擬人化とも呼ぶべきシガーにおいては、これこそがprincipleなのでございます。

そして全ての些細なことが運命的な重みを持っているシガーの世界には、ユーモアや軽口や「特に意味のない世間話」などが入り込む余地はありません。ユーモアという意味での笑いに値するものなど、何ひとつ無いのでございます。

またユーモアが成り立つためには、送り手と受け手の間にある程度共通した精神的基盤が必要でございますね。ワタクシが冗談を言っても貴方がくすりとも笑わなかったり、かえって怒り出したりしたとすれば、それはワタクシと貴方のユーモア基盤がズレているということでございます。
しかしユーモア感覚そのものが無いとしたら、これはもはやズレどころの話ではございません。

ことほど左様に逸脱した精神の持ち主でありながら、それ意外はごく普通の人間であるということが怖いんでございます。

不死身ではないし、感情が無いわけでもない。
不機嫌そうだったり嬉しそうだったりする。
撃たれれば血が出るし、傷も痛むらしい。
ナッツを食べ、牛乳を飲み、両手できちんとハンドルを握って車を運転する。
ロボットでもエイリアンでもない生身の人間、というか、もそもそと喋る、生真面目な、普通のおっちゃんでございます。
髪型はアレですが。




またシガー自身自覚しているように、彼もまた決して見通すことのできない因果の網の中の住人であり、この点においてはモスやベルや私達と何ら違いのない、ただの人間でございます。運命はシガーひとりを特別扱いすることなく、交差点で車をぶち当てて来るのでございます。

シガーにおいて普通さと異常さが並立していることの不気味さは、「普通の真面目な人」や「おとなしい子」が見知らぬ他人や自分の家族を惨殺したというニュースの不気味さに通じます。
(4/19追加 ↑とは言ったものの、こうして身近な例に引き寄せてしまうと、あの得体の知れない不気味さを型にはめて矮小化してしまっているような気もいたします)

不可解な犯罪が増えたと嘆く保安官ベルは、シガーという不可解きわまりない怪物との遭遇が決定打となり、職を辞します。
理解できない程の破壊性とモラルの崩壊を前になすすべもないベルにとって、そして私やおそらく貴方にとっても、シガーはこの世の不可解と不条理の集大成のような存在なのでございます。



いつでもどこでもピンポイント視点なのろゆえシガーばなしに終始してしまいましたが、コーエンズ作品ならではの美しく冴えた映像は、殺伐としたストーリーにもかかわらず一貫して静謐さを漂わせておりますし、音の使い方も素晴らしく、演技も演出も文句のつけようがなく、全体としてものすごく完成度の高い作品でございます。
完璧と称されるに値する作品かと存じます。
昨日もう一度観に行って、つくづくそう思った次第でございます。


ちなみにYoutubeを漁っておりましたらパロディ映像クリップにもいくつか遭遇いたしました。
あんまり面白いものはございませんでしたが、唯一ヒット作がございました。
即ちこれ
ううむ
何度見ても笑ってしまいます。