のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ノーカントリー』2

2008-04-08 | 映画
死亡事故や通り魔殺人のニュースを耳にする度に「どうして私ではないのだろう?」と思わずにはいられません。
突然の不条理な死に見舞われたのがどうして「被害者◯◯さん」であって、私ではなかったのか。
あるいは、被害者を死の淵に叩き込んでしまったのがどうして「××容疑者」であって、私ではなかったのか。
悲惨な事故や、ほんの数分の間に自分と他人の人生を破壊しつくしてしまう衝動は、どうして私を見過ごして他の人を襲ったのだろう?
不測の出来事によって命を落とす人は世の中に大勢いるというのに、そうした出来事は一体どうして私ではなく他の人を見舞ったのだろう?

もちろん理由などありはしないんでございます。
それが分かっていながらも、何故か?と思わずにはいられないんでございます。
それはおそらく、自然(人間を含めたこの世界全体)を支配しているのが無秩序や偶然ではなく、人間の道理にのっとった法則や基準であってほしい、という無意識的な願望があるからなのでございましょう。
私の感覚をそのまま人類全体に敷衍するのは暴論ではございましょうが、人間にとって都合のいい理(コトワリ)が自然をも支配していてほしいという願望は、おそらく全人類的なものでございます。
宗教というものが人間によって発明され、かつ、今もって求められているものであるからには。
宗教とはつまり世界を説明する方法のひとつであって、他の方法と違って特徴的なことは、その中に善悪の判断がからんでくることでございます。
悪い行動、間違った行動をとる奴らは罰せられ、善い行動、正しい行動をする人間はむくわれるものだ、と。
そうであるべきだ、と。

しかし実際に世界を動かしているのは、人間に好意的な理(コトワリ)なんかでは全然ないのでございます。
少なくともワタクシはそう思います。
だからこそ「あんなにいい人だった◯◯さん」、みんなに愛された◯◯さん、夢も希望もあった◯◯さんが残酷な死に見舞われ、一方で早く死ねばいいのにと常々思っているのろのようなのがいまだに生きているというわけでございます。

前置きが長くなりましたが、4/6の続きでございます。
*以下、再びネタバレでございます*



前回の記事を読みなおして、ウーム我ながらいつもながらポイントがズレておるなあ、と思いました、はい。
そもそもシガーについて語らずにこの映画について何か喋ろうとしたのが間違いだったような気がいたします。
と申しますのも、この作品のメインテーマはシガーひとりによって表現しつくされているからでございます。
即ち、不条理で不可解で悲惨で暴力的なこの世界と、それでもなお生きて行く人間なるもの、というテーマでございます。


殺し屋・シガーというキャラクターについては「レクター博士以来の衝撃」であるという前評判を聞き及んでおりました。
そのとうりでございました。
『羊たちの沈黙』に少なからぬ思い入れのあるワタクシとしてはちと悔しいのでございますが、レクター博士がまともな人間に思えるほどでございました。
怖かったのですよ。本当に怖かったのですよ。
で、この怖さは一体何なのだろうかと考えたんでございます。

シガーは自分自身の理(コトワリ)にのみ従って行動する人物で、一般的な価値や道理といったものが通じません。
しかし倫理観とファッションセンスが完全に欠如している他は、いたって普通の人間のように見えます。
ものすごく手際がいい、いわば凄腕の殺し屋でありつつ、派手さは全然なく、カッコよくもない。
こうした要素が複合して、シガーのあの得体の知れない怖さをかもしだしていると思われます。
それは人の生と死が、人間の基準や価値観には全く無頓着なものによって決められている、ということを目の当たりにする怖さでございます。
また、突然の不条理で無慈悲な死が、悪魔や死神や天災やエイリアンなどではなく一見普通の人間によってもたらされるということの怖さでございます。

シガーはどんどん人を殺します。
引き出しを開け閉めするのと同じくらい簡単に、非常に手際よく。
そこには強い憎悪や欲望といった、私達が納得しやすい動機はございません。
殺しを楽しむことすらありません。
彼にとって殺しとは、別に快楽なわけではなく、仕事上の義務ですらなく、単なる作業でございます。
映画の冒頭で保安官補を手錠で絞め殺したあとにさも嬉しそうなため息をついておりますが、これは殺しそのものが楽しかったからというよりも、計画通りにことが運んだのを喜ぶ「やったね」の笑顔でございましょう。
(ちなみに原作ではこの時シガーが大人しく捕まっていたわけが、殺し屋ウェルズ(映画で演ずるはウッディ・ハレルソン。ナチュラルボーンキラーじゃ笑)との対話シーンで語られております。シガーいわく、脱出できるかどうか試してみるためにわざと逮捕されてみたとのこと)

シガーはどんどん人を殺します。淡々と、粛々と。
あまりにも淡々としているので「冷酷」とか「非道」とか「残虐」というものとも、ちょっと違う感じがいたします。
こうした言葉にはまず「人命はかけがえのない大切なものだし誰もそれを奪われたくはない」という前提があり、それを承知していながらあえて踏みにじる行為に対して適用されるものでございます。
一方シガーの理(コトワリ)には、この「人命は大切なのだよ前提」というものがございません。ほんの少しも。
悪とすら呼べないような気がいたします。
台風や地震を「悪」と呼ばないのと同様に。
自然災害を「悪」と呼ばないのは、それらが人間の善悪や倫理観を超越した現象だからでございます。
シガーが金や麻薬やその他もろもろの価値観や倫理観を全く超越しているのと同様に。

長くなりそうですので、次回に続きます。